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第53章:帝都からの横槍と女神の超法規的処置

第53章:帝都からの横槍と女神の超法規的処置


駄女神メリスがルーセン教会で自らの正体を華々しくぶちまけ、盛大なる歓迎宴会に酔いしれてから一週間が過ぎていた。


すっぽかしてしまった材料力学の集中講義については、翌朝、カロンが平身低頭でボルト副学長や留学生たちに謝罪し、休日返上の補講を行うことでなんとか事なきを得ていた。第一期生たちも「学長先生が頭を下げてくれた!」とむしろ発奮し、講義室は連日熱い学問の議論で満ちていた。


しかし、平和な日常の裏で、一つの巨大な火種が静かに、そして急速に着火していたのである。


小雪がちらつき始めた冬の朝。カロンは領主邸からの緊急の呼び出し状を受け取り、路面電車に乗って大広間へと向かった。


通された領主執務室では、ハインリヒ侯爵がいつもの気さくな笑顔を消し去り、重々しい表情で窓の外を見つめていた。デスクの上には、黄金の封蝋が押された二通の仰々しい書状が並べられている。


「カロン殿、急に呼び立ててすまない。……少々、厄介極まりない事態になってな」


執事長のセバスチャンが静かに温かい紅茶を差し出す中、カロンは向かいのソファに腰を下ろした。


「侯爵閣下、その様子ですと……また中央絡みの面倒事ですか?」


「察しの通りだ」

ハインリヒ侯爵は深々とため息をつき、自領の地図を指差した。


「このルーセンを潤し、水力発電所の源ともなっている大河『ライネス川』……この川を船で下流へおよそ五百キロ下った先に何があるか、カロン殿も知っていよう」


「ええ。我が国――ゲスハルト帝国の首都、『帝都グランツ』ですね」


ゲスハルト帝国の政治、経済、軍事、そして宗教のすべてが集約された絶対的中心地。

人口数十万を誇るその巨大帝都の存在を、カロンはもちろん知識として把握していた。


「その帝都グランツにはな、帝国全土の信仰を統括する『メリス教総本部』と、帝国最高の学府たる『ゲスハルト帝国大学』が置かれておるのだ」


その二つの固有名詞が出た瞬間、カロンの背筋に嫌な汗が冷やりと流れた。


(……メリス教の総本部に、帝国の最高学府……。最悪の組み合わせだ。一週間前の教会での騒動と、このルーセン工科大学の躍進……どちらも中央が黙って見過ごすはずがない)


カロンが額を押さえると、ハインリヒ侯爵は苦々しそうに頷いた。


「どうやら、先日の教会での『女神降臨』の報せが、信徒や教会の巡礼者を通じて一気に帝都の総本部にまで届いてしまったらしい。さらに、我がルーセン工科大学が打ち立てた二十階と三十階の巨塔、そして規格化や電気自動車の研究成果が、帝国大学の重鎮どもの耳にも入った」


侯爵はデスクの書状をトントンと指先で叩いた。


「今朝、帝都からの早馬が届いた。メリス教総本部の最高幹部である大司教バルデス、そしてゲスハルト帝国大学の頂点に君臨する大学総長マンハイムが、直属の近衛兵団を引き連れて、直々にこのルーセンへ視察および『協議』に訪れるとのことだ」


「協議……ですか」

カロンは天を仰いだ。


「あの……侯爵閣下。私、その日はちょうど新型バッテリーの配合実験で手が離せない予定なのですが……会わないわけにはいきませんかね?」


カロンが精一杯の苦笑いを浮かべて尋ねると、ハインリヒ侯爵は鋭い視線を向け、太い眉をピクリと動かした。


「カロン殿。……帝国の国教たるメリス教の大司教と、文部を司る帝国大学の総長だぞ? そんな言い訳が通用すると思うかね? わかっているよな」


「…………はい。逃げ道はないということですね」


「うむ。私も領主として同席する。肚を括ってくれ」


重苦しい空気の中、カロンはただ肩を落とすしかなかった。


それから一週間後の午後。

寒風が吹き抜けるルーセン工科大学、二十階建て校舎タワーの学長室に、東門警備詰所のガース隊長から魔導通信機を通じて緊急の連絡が入った。


『学長! ガースです! 帝都からの使節団が、たった今東門を通過しました! 純白の大型馬車二台に、完全武装した帝都騎兵が三十騎以上……町民たちも何事かと騒然としております! 車列は領主邸へと直行していきました!』


「了解した、ガース隊長。情報に感謝します」


通信を切ったカロンは、重い腰を上げた。

領主邸へ向かう前に、どうしても確保しなければならない「元凶」がいたからだ。


カロンはエレベーターで二階の大学直営学食(メガダイナー)へと降りた。

ランチタイムを過ぎて閑散としたフロアの奥で、異様な存在感を放つ金髪の女性が、テーブルの上に山盛りの皿を並べていた。


「んぐ、もぐもぐ……! ふう、やっぱり学食のミノタウロス肉のハンバーグは絶品ね! 女将さーん、食後にあの冷えた赤玉ワインのゼリーを三つちょうだい!」


天界の至高の存在であるはずの駄女神メリスが、口の周りにデミグラスソースをべったりとつけながら、両手にフォークとスプーンを持って幸せそうに咀嚼していた。


カロンは無言で歩み寄り、メリスの首根っこ(襟元)をガシッと掴み上げた。


「……むぐっ!? な、何よカロン! 今いいところなんだから邪魔しないでよ!」


「食事のところ大変申し訳ありませんが、強制連行です。あなたのせいで、帝都から最高権力者たちが乗り込んできました」


「ええっ!? 帝都から? 私、知らないわよ! ゼリー食べてからじゃダメなの!?」


「ダメに決まっているでしょう。さあ、口を拭いてコートを着てください!」


バタバタと暴れる駄女神を引っ張り、カロンは学食を出ると、銀色の電気自動車に放り込んで領主邸へと急行した。


領主邸の正門前には、純金と白銀の装飾が施された豪奢な馬車が二台停まり、その周囲を抜身の槍を持った帝都の近衛騎兵たちが物々しく包囲していた。


カロンが車を停め、メリスを連れて屋敷の玄関へ入ると、青ざめた顔の執事長セバスチャンが駆け寄ってきた。


「おお、カロン様! お待ちしておりました! すでに大広間にて皆様がお揃いでございます……!」


案内された大広間の重厚な扉が開いた瞬間、カロンは室内に充満する息苦しいまでの「権威の圧迫感」を肌で感じ取った。


部屋の中央には、渋い表情で着席しているハインリヒ侯爵。

その周囲には、鋭い眼光で周囲を睥睨する帝都の近衛兵たちが十数名、直立不動で槍を構えている。


そして、侯爵の正面の特等席に、傲慢な態度でふんぞり返っている二人の男がいた。


一人は、真紅と黄金の豪奢な法衣をまとい、胸元に巨大な白金製の聖印をぶら下げた、肥満体の初老の男――メリス教総本部の最高権力者、大司教バルデス。

もう一人は、黒い最高級の学者ローブに身を包み、金縁の単眼鏡(モノクル)の奥から冷徹で品定めするような視線を投げかけている痩身の男――ゲスハルト帝国大学の頂点、大学総長マンハイムであった。


セバスチャンが「カロン工科大学学長、ならびに同行者をお連れいたしました」と告げると、室内の視線が一斉にカロンたちへと突き刺さった。


バルデス大司教が豚のように太った首を巡らせ、カロンを一瞥して鼻を鳴らした。


「……ふん。これが噂のドワーフか。小賢しい細工物で田舎領主を誑かしていると聞いたが、随分と偉そうな口を利く身分のようだな」


マンハイム総長も単眼鏡の位置を指先で直し、蔑むような笑みを浮かべた。


「二十階や三十階の塔を建てたと聞いて期待しておったが……所詮はドワーフの土木工事か。知性のかけらも感じられん無骨な建造物だ。学問の『が』の字も知らん野蛮な職人が、大学などと名乗ること自体がゲスハルト帝国の恥辱よ」


開口一番の罵倒。

カロンは前世の中山教授時代にも、学会の利権に群がる老害教授たちを嫌というほど見てきたため、感情を波立たせることもなく、冷めた目で二人を見据えた。


(なるほど……絵に描いたような権力亡者たちだな。予想通りの反応だ)


ハインリヒ侯爵が咳払いをし、間に入った。


「バルデス大司教閣下、マンハイム総長閣下。カロン殿は我が領地の産業と教育を飛躍的に発展させた至宝の俊英です。して……帝都からの急ぎの要件とは何でございましょうか」


バルデス大司教が分厚い肉の手を振り、傲慢に言い放った。


「単刀直入に命じてやろう。カロンとやら、そして後ろにおる娘。……直ちに荷物をまとめ、我らと共に帝都グランツへ参るのだ」


「帝都へ、ですか?」

カロンが平然と問い返す。


今度はマンハイム総長が身を乗り出し、机を指先でコツコツと叩きながら冷酷に告げた。


「そうだ。貴様がこの田舎町で作ったポルトランドセメント、異形鉄筋、そして電気仕掛けの乗り物と蓄電装置……それらすべての設計図、特許、製造技術を、我がゲスハルト帝国大学の国家専売工廠へと無償譲渡しろ。貴様自身も帝都の地下研究室に入り、我らの指導の下で新技術の開発に専念させてやる。帝国のためにその技術を捧げられるのだ、名誉に思うがよい」


さらにバルデス大司教が脂ぎった顔を歪めて言葉を継いだ。


「そして教会の方だ。このルーセン教会で『本物の女神メリス様が降臨された』という途方もない妄言が流れておる。民衆を惑わす邪教の疑いがある以上、その娘を帝都の異端審問所へ連行し、厳正なる霊的尋問を行わねばならん。もし万が一、真に神性を帯びておるならば……我がメリス教総本部の至高の聖女として、帝都の大聖堂の奥深くに生涯安置し、帝国の威光を示す象徴として丁重に『管理』してやる」


二人の言葉の裏にある意図は、あまりにも明白だった。


メリス教総本部は、生きた女神の権威を自らの手中に収めて宗教的絶対権力を確立したい。

ゲスハルト帝国大学は、カロンの革新的な近代工学と産業利権を丸ごと奪い取り、帝都の支配階級の富と軍事力を肥大化させたい。


中央の都合による、完全なる略奪と搾取の宣告であった。


ハインリヒ侯爵の顔を見ると、額に青筋を浮かべながらも、帝国の最高権力二機関を前にして、地方領主としての立場上、正面から反論できずに苦渋の表情で拳を握りしめていた。


カロンは深いため息をつき、頭痛を覚えるようにこめかみを押さえた。


(……やれやれ。どこへ行っても、権力にしがみつく連中の考えることは同じだな。技術の発展も人々の幸福も眼中にない。あるのは保身と私利私欲だけか)


カロンが工学者として冷静に反論の論理を組み立てようと口を開きかけた――その時であった。


カロンの背後から、ツカツカと堂々たる足音を響かせて前に進み出た者がいた。


フードを脱ぎ捨て、黄金の髪を怒りで逆立たせたメリスであった。

その碧眼には、先ほどまでのハンバーグを欲しがっていた呑気な光は微塵もなく、絶対的な上位存在としての冷徹な怒気が宿っていた。


メリスは大司教バルデスの真正面に仁王立ちし、豊満な胸を反らして人差し指をビシッと突きつけた。


「ちょっとアンタたち。さっきから黙って聞いてれば、随分と偉そうな口を利くじゃないの!」


大広間の空気が一瞬で凍りついた。


近衛兵たちが一斉に槍を構え直し、バルデス大司教が目を吊り上げて立ち上がった。

「な、何だこの無礼な小娘は……!? 大司教たるこの私に向かって何という口の利き方だ!」


しかし、メリスは鼻で笑い飛ばし、容赦なくずけずけと言い放った。


「アンタの顔、すっごく気に入らないわ! だいたい何よ『至高の聖女として奥深くに管理してやる』って! アンタ、私を自分の出世と権力のための『便利な道具』として利用しようとしているだけでしょ!? 信仰心のかけらもないくせに、私の名前を語って私利私欲を肥やすなんて、主神に対する冒涜もいいところよ!」


「き、貴様あぁぁっ……!!」

バルデス大司教の顔が怒りで真っ赤を通り越して土気色に変色した。


マンハイム総長も立ち上がり、冷徹に兵士たちへ命じた。

「衛兵、何をぼさっとしている! 帝国の秩序を乱す狂信者だ、その不敬なる娘とドワーフを直ちに捕縛しろ! 抵抗するなら手足を切り落としても構わん!」


「ハッ!」


近衛兵十数名が一斉に踏み込み、鋭利な鋼鉄の穂先をメリスとカロンの喉元へと突き出そうとした――まさにその刹那。


メリスの瞳が、目も眩むような純白の神光を放った。


「――身の程を知りなさい、愚か者どもが」


パチンッ。


メリスが軽やかに指を鳴らした。


呪文の詠唱も、魔法陣の展開も存在しなかった。ただの純粋なる「神罰の権能」の発動であった。


フッ……。


音もなく広がった目に見えない波紋が大広間を撫で抜けた瞬間――


「な――」

槍を突き出そうとしていた近衛兵たちの筋肉が、鋼鉄の甲冑が、鋭利な穂先が、一瞬で色を失っていった。

怒号を上げていたバルデス大司教の脂ぎった顔が、蔑みの笑みを浮かべていたマンハイム総長の単眼鏡が、そして随行してきたメリス教総本部の高官や帝国大学の教授たちに至るまで。


全員が、肌の毛穴から衣服の繊維、身につけた金銀財宝に至るまで、寸分の隙もなく「完全なる灰色の無機質な石」へと相転移したのである。


カツン……。


静まり返った広間に、指先が触れたような硬質な乾いた音が小さく響いた。


そこには、槍を突き出したポーズのまま固まった兵士たちの彫像と、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている姿のまま見事に固まった大司教と総長の、極めて精巧な「等身大リアル石像群(総勢二十名以上)」が、無言で陳列されていた。


殺気も、権威も、怒号も、すべてが一瞬で消滅した。


「……………………」

「……………………」


大広間に、重苦しい沈黙が落ちた。


ハインリヒ侯爵は椅子から滑り落ちそうになりながら、腰を抜かした姿勢のまま、目の前に並ぶ灰色の石像群を指差してプルプルと震えていた。

カロンもまた、両手を開いたまま硬直し、ぽかんと口を開けてその光景を見つめていた。


数秒の後、カロンはゆっくりと首を巡らせ、隣の侯爵を見つめた。


「……あの、侯爵閣下」


「……な、何だね、カロン殿」


「これ……控えめに言っても、とてつもなくマズい事態ですよね?」


ハインリヒ侯爵は頭を抱え、掠れた声で叫んだ。


「マズいどころの騒ぎではないわァァァッ!! 帝都の最高宗教指導者と帝国大学総長、そして帝都の近衛兵団が、我が領主邸の大広間で全員石像になっておるのだぞ!? 国家反逆罪! 帝国全土への宣戦布告! ルーセン領の取り潰しどころか、一族郎党ギロチン行き確定の大惨事だァァァッ!!」


侯爵の悲痛な叫びが広間に木霊する。


カロンは腕を組み、工学者としての危機管理シミュレーションを高速で回転させた。


「……ええと、例えばですね。彼らはルーセンへ向かう途中の山道で、凶悪な盗賊団か高ランクの魔獣に襲われて全員行方不明になった……というシナリオにはできませんかね?」


カロンが苦肉の策を提案すると、ハインリヒ侯爵は首を激しく横に振った。


「無理だ! 絶対に無理だ! 東門をあの豪奢な馬車と三十騎もの近衛兵が堂々と通過したのを、ガース隊長をはじめ町中の民衆が見ておる! 『領主邸に入ったきり誰も出てこなかった』など、言い逃れができるはずがなかろう!」


二人が頭を抱えてパニックに陥っている横で、当の元凶である駄女神メリスは、つまらなそうに爪の手入れをしながらフンと鼻を鳴らした。


「なによ二人とも、大袈裟ねえ。あんな偉そうな失礼な奴ら、石像にして庭の肥やしにでもしておけばいいじゃない」


「「誰のせいでこうなったと思ってるんだァァァッ!!」」


カロンと侯爵の息の合った怒声が炸裂した。


怒鳴られたメリスは「ひっ……!」と首をすくめ、頬を膨らませた。


「も、もうっ! 分かったわよ! 要するに、あの馬車がこの町に来たこと自体を、みんなが知らなきゃいいんでしょ!?」


「は……? 知らなきゃいいと言ったって、数百人もの目撃者がいるんだぞ!?」

侯爵が叫ぶ。


メリスはふわりと宙に浮かび上がった。その全身から、先ほどの怒りの光とは異なる、淡く温かな、しかし広大な空間を包み込むような虹色の神聖光が溢れ出した。


「神の奇跡を舐めないでよね! ――『メモリー・リライト・フォグ(記憶改変の神聖光波)』!」


パァァァァァァッッ!!!


メリスの身体から放たれた虹色の光の波動が、領主邸の大きなガラス窓を突き破るようにして屋外へと広がっていった。

光はルーセンの街全体を、東門から西門、新工房区、大学タワー、そして街道に至るまで、目に見えない優しい波となって一瞬で覆い尽くし、そしてフッと消え去った。


窓の外を見下ろすと、通りを歩いていた町民たちが一瞬キョトンと立ち止まり、頭を軽く振って、何事もなかったかのように再び日常の歩行を再開していた。


メリスはストンと床に着地し、自慢げに胸を張った。


「はい、終わり! 今ので、ルーセンの町中の人たちの頭の中から、『帝都からの馬車や兵士を見た』っていうここ数時間の記憶を綺麗さっぱり消し飛ばしてあげたわ! ついでに東門の警備記録の羊皮紙も白紙に戻しておいたから!」


「………………………………」


ハインリヒ侯爵とカロンは、再び言葉を失った。

目撃者の記憶を都市規模で一括消去するという、あまりにもデタラメで強引すぎる超法規的処置。


カロンは引きつった苦笑いを浮かべながら、侯爵へと向き直った。


「……侯爵閣下。どうやら町中の目撃情報は完全に消滅したようですね」


「……う、うむ。まさか都市全体の記憶を神術で改竄するとはな……。カロン殿、君の知り合いの女神は、本当に常識という概念が存在せんのだな……」


侯爵も乾いた笑いを漏らすしかなかった。


カロンは石像群を見渡して言った。

「では……公式記録の上では、『帝都の使節団一行は、何らかの理由でまだルーセンへ到着していない(道中で行方不明、あるいは遅延している)』ということにいたしましょうか?」


ハインリヒ侯爵は額の汗をハンカチで拭い、深く息を吐いた。

「……ああ。とりあえずは、その手で誤魔化すしかなかろう。帝都へは『予定の期日を過ぎても使節団が到着せず、当方でも捜索隊を出して街道を確認中である』とでも報告書を送っておく」


問題は、目の前に並ぶ二十体以上のリアルな石像たちの処遇であった。


カロンが石像に手をかざして鑑定魔法を試みたが、内部の生体反応は完全に石の結晶格子へと変換されており、通常の解呪魔法や『キュアパラライズ』程度ではビクともしそうになかった。


「メリス様。これ……元に戻せたりはしないのですか?」


カロンが尋ねると、メリスはそっぽを向いて舌をペロッと出した。


「やーだよ! あんな失礼な奴ら、反省するまで石のままで十分よ! だいたいね、私の石化の権能は純度百パーセントの神聖力だから、千年間は普通にしてても絶対に解けないんだからね!」


「せ、千年……!?」

侯爵が再び卒倒しかけた。


「千年経ったら帝国そのものが滅びてますよ……」

カロンは頭を抱えた。しかし、元に戻して再び大広間で大騒ぎされても収拾がつかないのは事実であった。


「セバスチャン」

ハインリヒ侯爵が力なく執事長を呼んだ。


「は、ははっ……!」


「屋敷の地下最深部にある、かつて先代が使っておった頑丈な耐火石造りの宝物庫を空けろ。……この『石像の方々』を、台車で丁重に運び込み、厳重に施錠して保管するのだ。埃を被らぬよう、上からシーツでもかけておけ」


「か、畏まりました……!」


セバスチャンが青ざめた顔で秘密裏に信頼できる私兵を呼びに行き、等身大の石像たちが毛布に包まれて地下へと次々と運び出されていった。

大司教バルデスも、大学総長マンハイムも、偉そうなポーズのまま台車に載せられ、地下の闇へと消えていったのである。


こうして、ゲスハルト帝国の宗教と学術の最高権力者たちが仕掛けた傲慢なる中央集権的侵略は、駄女神の気まぐれな神罰によって、誰にも知られることなく、完全に「保留(物理的永久保管)」という前代未聞の結末を迎えたのであった。


八、 学長の帰還と平穏な日常

大広間の片付けが終わり、領主邸を出た頃には、すでに夕暮れの茜色の光がルーセンの街並みを優しく包み込んでいた。


通りを行き交う職人たちや、下校中の工科大学の学生たちは、昼間に何が起きたのかなど露知らず、笑顔で買い物を楽しんだり、路面電車のレールを渡ったりしている。


カロンが運転する銀色の電気自動車の助手席で、メリスは窓から身を乗り出して風を浴びていた。


「ふふ〜ん♪ 今日もいい仕事をしたわ! 悪い奴らを懲らしめて、世界を平和にしてあげたんだから!」


「どの口が言っているんですか……。心臓が止まるかと思いましたよ」

カロンは呆れ果ててため息をついた。


「でも、カロンの研究や大学を横取りされずに済んだでしょ? 感謝してよね!」


「……まあ、その点だけは、結果オーライとしておきましょう」


帝都からの使節団が行方不明になったことで、いずれ帝都グランツの中央政府がさらなる調査団を送ってくる可能性は高い。

しかし、その頃にはルーセン工科大学の技術はさらに前進し、人造蓄電魔石によるエネルギー革命や、鉄筋コンクリートによる都市要塞化は不可逆な領域へと達しているはずだ。中央の利権亡者たちに脅かされることのない、揺るぎない実力をこの地で築き上げればよいだけの話であった。


車が大聖堂裏手の複合メガタワーへと戻ると、一階の大食堂から香ばしいニンニクと焼き立てのパンの匂いが漂ってきた。


「あーっ! ハンバーグの匂い! カロン、早く行こう!」

メリスが車を飛び出し、食堂へと走っていく。


カロンは車のキーを抜き、夜空にそびえ立つ三十階のメガタワーを見上げた。


窓々から漏れ出る温かな光。

その光の下で、学生たちが、弟子たちが、今日も未来の工学を夢見て机に向かっている。


「……さて。私も明日の講義の準備をするとしよう」


カロンは小さく微笑み、波乱に満ちた一日を終えた心地よい疲労感とともに、温かな灯火が待つ我が家へと足を踏み入れていった。

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