第52章:駄女神の教会訪問と台無しの変装
第52章:駄女神の教会訪問と台無しの変装
森の地下洞窟ダンジョンで発生しかけていた未曾有のスタンピードを未然に叩き潰し、意図せず「Sランク冒険者」へと押し上げられた激動の翌朝。
交易都市――いまや学園都市としても名を馳せるルーセンには、初冬の澄み渡るような青空が広がっていた。
カロンが暮らすアパートの二階。
朝の静けさの中、自室のキッチンで淹れたての香ばしいハーブティーを口に含み、今日から再開するルーセン工科大学の講義ノートに目を通していたカロンの耳に、隣の客室からドタバタと騒がしい足音が響いてきた。
ガチャリと乱暴に扉が開き、現れたのは金色の髪を朝日になびかせた美女――天界からやらかして地上へ落っこちてきた駄女神、メリスであった。
「ふわぁぁ〜……よく寝たわ! あのベッド、天界の雲の上よりふかふかで最高ね! それに朝から一階の食堂からお肉の焼けるすっごく良い匂いがするし!」
メリスは天界の純白の薄衣をだらしなく着崩したまま、大きな伸びをしてカロンのデスクへと詰め寄ってきた。
「おはよう、カロン! 朝ご飯をたらふく食べたらね、私、早速行きたいところがあるのよ!」
カロンは眉間を指先で揉みながら、カップを置いた。
「……おはようございます、メリス様。行きたいところとは、まさかまたダンジョンの奥深くに落ちて魔物を暴走させるつもりではありませんよね?」
「失礼ね! そんなヘマ二度もしないわよ!」
メリスは仁王立ちして豊満な胸を張り、得意げに人差し指を立てた。
「この町にある、私の教会よ! 『メリス教のルーセン教会』! カロンが孤児院の子供たちと一緒に綺麗に改装して、信者さんがいっぱい増えたって聞いたからさ。主神たるこの私が、直々に視察と激励に行ってあげようと思うの!」
カロンは持っていたペンを取り落としそうになった。
「は……? 教会に直接行くですって!? ダメに決まっているでしょう! 昨日も言いましたが、本物の女神がひょっこり姿を現したら、トーマス神父も信者たちも腰を抜かして失神しますよ。王都の教皇庁に知れ渡れば、宗教裁判だの聖地認定だので町中が大パニックになります」
「え〜〜っ! なんでよ! 自分の教会を見に行くくらい良いじゃない! 私、みんながどんな顔でお祈りしてるのか見てみたいの〜!」
駄女神は子供のように両足をバタバタさせて駄々をこね始めた。こうなると理屈が通じないのは、前世の中山教授時代に手を焼いた我が儘な特別推薦枠の学生たちと同じである。
カロンは深いため息をつき、妥協案を提示した。
「……分かりました。行くこと自体は許可します。ただし、条件があります」
「なになに!?」
「『絶対に正体がバレないよう、完璧に変装すること』です。その神々しい金髪と光り輝くドレスを隠し、ただの通りすがりの旅人として振る舞うと約束してください。約束できないなら、一歩も部屋から出しませんし、今夜の特製シチューも抜きです」
「うぐっ……シチュー抜きは困るわ……! 分かったわよ、変装すればいいんでしょ、変装すれば!」
こうして、駄女神メリスの地上視察を隠密裏に行うための「お買い物大作戦」が決行されることとなった。
朝食後、カロンとメリスは新工房区へと向かった。
向かった先は、中央通りの一角にある、ゲオル商会直営の高級既製服・仕立て洋品店である。カロンが考案した標準メジャーと規格寸法による型紙が導入されたことで、店内には最新の流行を取り入れた多種多様な衣服が美しくディスプレイされていた。
カロンは店のベルを鳴らして入店した。
カランコロン……。
「いらっしゃいませ、カロン様! 本日はどのようなお召し物をお探しで……あらまあ!」
出迎えた人間の女性店員は、カロンの後ろに立つメリスの顔を見るなり、息を呑んで目を奪われた。
透き通るような白磁の肌、黄金の輝きを放つ長い髪、そして非の打ち所がない圧倒的な美貌と均整の取れたスタイル。まさに絵画から抜け出してきたような絶世の美女である。
「こちらのお連れの方に、目立たず、旅慣れた印象を与える実用的な普段着を一式見繕っていただきたいのです」
カロンが依頼すると、店員は「お任せください!」と目を輝かせ、次々と衣装を試着室へと運び込んだ。
しかし――ここからが長かった。
「ねえカロン、この真紅のマーメイドドレスはどうかしら? 私の華麗なボディラインが強調されて素敵じゃない?」
カーテンを開けて現れたメリスに、カロンは即座に首を横に振った。
「却下です。どこからどう見ても貴族の夜会に行く格好でしょう。目立ちすぎて歩くだけで人だかりができます」
「じゃあ、このスリットが腰まで入った踊り子風のレザーローブは?」
「さらに悪化しています。公序良俗に反しますし、教会に入る格好ではありません」
「もうっ! じゃあこのフリルが十段ついたゴスロリ風ドレスは!?」
「余計に目立ちます!」
あーでもない、こーでもないと試着を繰り返すこと十数着。
カロンの工学的合理主義と、メリスの「目立ちたい・褒められたい」という自己顕示欲が激突し、最終的にカロンが棚から掴み取って買い与えたのは――
深緑色の厚手のウール生地で仕立てられた、頭部をすっぽりと覆い隠す深めのフードがついた『オーソドックスな魔法使いのロングローブ(外套)』であった。
金具で前を留めると、足首まで完全に覆われ、特徴的な金髪も顔の半分も陰に隠れる。どこにでもいる駆け出しの旅の魔導士にしか見えない、完璧なステルス衣装であった。
カロンは満足そうに頷いた。
「うん、素晴らしい。これなら誰が見ても怪しまれませんね」
しかし、試着鏡の前に立つメリスは、すこぶる不満そうに口を尖らせていた。
「むぅぅ……! なんなのよこれ! 生地がダボダボしてて、私のこの完璧なウエストのくびれも、天界一と謳われる豊かな胸の膨らみも、全部ドラム缶みたいに隠れちゃうじゃない! せっかくのナイスボディが台無しよ!」
メリスはローブの上から自分の胸を押し上げ、腰のラインをアピールしようと体をくねらせる。
「贅沢を言わないでください。身元を隠すための変装なのですから、体型が隠れるのはむしろ大成功です。さあ、代金は払いましたから、フードを深く被って教会へ向かいますよ」
「はぁ〜い……。カロンってば、本当に女心が分かってない堅物教授なんだから……」
ぶつぶつと文句を垂れる駄女神の背中を押し、二人は路面電車に乗って旧市街のメリス教会へと向かった。
旧アストル大聖堂の隣、緑豊かな木々に囲まれた一角に佇む『メリス教ルーセン教会』。
かつては雨漏りと崩落寸前だった木造の礼拝堂は、カロンの土木魔法とセメント、そして規格建材によって美しく補修され、白い外壁と磨かれたガラス窓が柔らかな光を反射していた。
礼拝堂の扉を静かに押し開けると、中は静謐な空気に満ちていた。
天井の梁からはカロンが設置した優しい電球色の魔導電灯が灯り、磨き上げられた木の長椅子が整然と並んでいる。
祭壇の前には、黒い祭服をまとった老神父――トーマス神父が、聖書を手に静かに祈りを捧げていた。
ギシ……と床板が鳴ると、トーマス神父は祈りを終えてゆっくりと振り返った。
その穏やかな顔に、親しい笑みが広がる。
「おお……カロン様ではありませんか。平日の午前中に教会へいらっしゃるとは、珍しいこともありますね。大学の講義はお休みですかな?」
カロンは一歩進み出て、穏やかに頭を下げた。
「いえ、神父様。実は……少し教会を見学したいという旅の連れがおりましてね。案内がてら立ち寄らせていただきました」
カロンが背後を促すと、深緑色のフードを目深に被ったメリスが、物珍しそうにキョロキョロと首を動かしながら、おとなしく祭壇へと歩み寄っていった。
礼拝堂の最奥、祭壇の中央には、白大理石を削り出して作られた高さ二メートルほどの『女神メリスの神像』が鎮座していた。
純白の翼を広げ、慈愛に満ちた笑みを浮かべて両手を差し伸べる、美しき女神の彫像。かつてカロンが能力で修復し、神々しい輝きを取り戻させた信仰の象徴である。
メリスは神像の前に立ち、腕を組んでジロジロとその像を見つめていた。
(ふむふむ……これが地上のみんなが拝んでいる私の姿ね……)
その時、礼拝堂の脇の扉がガラリと開き、バケツと雑巾、箒を手にした数名の子供たちが入ってきた。
カロンの工科大学で学ぶ特待生のカイやミミル、そして孤児院に残って手伝いをしているルーカスやエミリアたちであった。
「神父様、裏庭の薪割り終わりました! これから礼拝堂の床拭きと窓掃除をやりますね!」
「ミミル、そっちのステンドグラスの埃払いお願い!」
子供たちは誰に言われるでもなく、元気いっぱいに声を掛け合いながら、テキパキと掃除を始めた。
かつて飢えと寒さに震えていた孤児たちの面影はなく、その表情には生きる希望と、教会への深い感謝の心が満ち溢れていた。
その様子をじっと見つめていたフードの中のメリスが、感極まったようにポツリと呟いた。
「……感心、感心。誰に強制されたわけでもないのに、こんなに一生懸命私の家を綺麗にしてくれているなんて……本当に良い子たちね」
メリスはふわりと両手を広げた。
「よし! 神様からの特別大サービスよ!」
「あ……おい、メリス様、何を――!?」
カロンが制止の声をかけるよりも早く、メリスの両の手のひらから、常識を遥かに超越した高密度の神聖光が溢れ出した。
「健やかに育ち、知恵と幸福に満たされよ――『ディバイン・ブレッシング(神聖なる至高の祝福)』!」
パァァァァァァッッ!!!
礼拝堂全体が、まるで天界の光そのものを注ぎ込まれたかのような、温かく目も眩むほどの黄金の燐光で満たされた。
光の粒子がキラキラと雪のように舞い降り、子供たちとトーマス神父の全身を優しく包み込んでいく。
掃除をしていたカイやミミルがピタリと手を止めた。
「う、うわあっ……!? 体がすっごく軽くなった!?」
「手足の先までポカポカして……頭の中がすっごくスッキリする!」
長年の激務で腰痛を患っていたトーマス神父も、持っていた聖書を取り落としそうになりながら自身の両手を見つめた。腰の痛みが完全に消え去り、若き日のような活力が全身にみなぎっていたのだ。
「な、何という奇跡の神聖術……! 大司教様でさえこれほどの奇跡は起こせぬ……! た、旅のお方、あなたは一体……!?」
トーマス神父が震える声で尋ねた。
カロンは(頼むから旅のハイエルフの魔導士とでも名乗ってくれ……!)と心の中で激しく祈った。
しかし――自己顕示欲の塊である駄女神が、この最高の舞台で黙っていられるはずがなかった。
「ふふふ……よくぞ聞いてくれました!」
バサァッ!!
メリスは深緑色のフードを両手で豪快に脱ぎ捨て、神々しい金髪をファサリと振り乱した。
そして、腰に手を当てて胸を張り、満面のドヤ顔で高らかに名乗りを上げたのである。
「驚きなさい! この教会の主神にして、慈愛と豊穣を司る女神――メリスその人よ!!」
シーン……。
礼拝堂の中に、針が落ちても聞こえるほどの静寂が広がった。
トーマス神父は、目を限界まで見開いたまま、口をパクパクと金魚のように開閉させた。
目の前に立つ金髪の絶世の美女の顔と、祭壇の上にそびえる白大理石の女神像の顔を、何度も、何度も、首が千切れるほどの勢いで見比べる。
切れ長の瞳、優美な鼻筋、ふっくらとした唇、神々しい魔力の波長――。
どこをどう見ても、寸分の狂いもなく「生き写し」、いや「本物」であった。
「め……め……め……」
トーマス神父の膝がガクガクと震え、卒倒寸前になったその時。
メリスは祭壇の女神像をジト目で見上げ、頬をぷくーっと膨らませて信じられない一言を放った。
「……それにしても神父。一つだけ言いたいことがあるんだけど」
「は、はひっ!?」
「あの像、私の胸が小さく作られすぎているのよ! 本物の私のナイスバディは、こんな控えめなサイズじゃないわ! もっとこう、ボイ〜ンッ!と豊満でダイナマイトなんだから! 次に作り直す時は、ちゃんと二回りは大きく盛りなさいよね!」
メリスは両手で自分の豊かな胸を強調しながら、不満げに言い放った。
「……………………………………」
生涯を神への信仰に捧げてきた敬虔な老神父が、生まれて初めて拝謁した本物の主神から投げかけられた最初の言葉。
それが「神像の胸が小さい」という世俗の極みのようなクレームであった。
トーマス神父は完全に思考が停止し、魂が口から半分抜け出たような顔で固まってしまった。
その横で、カロンは深々と天を仰ぎ、顔を両手で覆った。
(……ああ、やっぱりこうなった。何のためにわざわざ洋品店へ行って、あんな地味なローブを買わせたんだ……。私の金貨と時間を返してほしい……)
数分間のフリーズの後、トーマス神父はハッと我に返った。
「め、女神様あああああぁぁぁぁっっっ!!!!」
トーマス神父は感極まって床に跪き、大粒の涙をボロボロとこぼしながら祈りを捧げ始めた。
「おお、神よ! 我が主メリス様! まさかこの老い先短い身で、生きた神の御姿を拝むことができるとは……! 胸の件、誠に申し訳ございません! 今すぐにでも一流の彫刻師を手配し、実物通りの豊満なる御姿に削り直させまするうぅぅっ!」
「神父様、落ち着いてください!」
カロンが慌てて神父を抱き起こす。
一方、カイやミミルたち子供たちは、最初は驚いて後ずさりしていたものの、カロンと親しげに口喧嘩をしているメリスの気さくな(アホっぽい)態度を見て、すぐに恐怖心を解いた。
「えっ、本当にあの像の女神様なの!?」
「すっごい綺麗! お姉ちゃん、女神様だったんだ!」
子供たちがワラワラとメリスの周りに集まってくると、メリスは「お姉ちゃんだなんて可愛いこと言ってくれるじゃないの〜!」とご満悦で子供たちの頭を撫で回した。
そこからの教会の動きは凄まじかった。
「皆の者! 我が主メリス様が地上へ降臨されたぞ! 全信徒を招集し、ありったけの馳走を揃えて『神聖なる歓迎の儀(大宴会)』を執り行うのだ!!」
トーマス神父の号令のもと、近隣の敬虔な信徒たちや、教会を支援している職人たちが続々と集まってきた。
一階の大食堂の女将さんにも急報が届き、「女神様が来ただってぇ!? よし、腕によりをかけて特大の料理を持っていくよ!」と、巨大な寸胴鍋と大皿料理を抱えた配膳部隊が教会へと駆け込んできた。
礼拝堂の中央には長テーブルがずらりと並べられ、あっという間に豪華絢爛な大宴会場へと早変わりした。
テーブルの上には、大食堂特製の極上ローストビーフ、香ばしい骨付きチキン、湯気を立てる濃厚なビーフシチュー、焼きたてのパン、中州の極上赤玉ブドウ、そしてカロンがダンジョンから持ち帰ったピラニアの香草フリットが所狭しと並べられた。
「さあ、偉大なるメリス様に乾杯ッ!!」
「「「かんぱーいっ!!!」」」
信徒たちの大歓声の中、メリスは主賓席の特等席にふんぞり返り、両手に肉とワイングラスを持って豪快にかぶりついた。
「んん〜〜っ! 美味しいっ! このシチュー、お肉が口の中でとろけるわ! 赤玉ワインも最高ね! 神父、おかわり!」
「ははーっ! ただいまお注ぎいたしまする!」
トーマス神父自ら給仕係を買って出て、嬉し泣きしながらワインを注いでいる。
信徒たちが入れ替わり立ち代わりメリスの前に進み出ては祈りを捧げ、メリスが適当に「うんうん、信心深くて偉いわね! 商売繁盛の魔法をかけてあげるわ!」と指先からキラキラ光る魔力を振りまくたびに、「おおおっ! 神の奇跡だ!」と割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
メリスは完全に上機嫌となり、顔を真っ赤にして歌い、笑い、信徒たちと肩を組んで大はしゃぎしていた。
その狂乱の歓迎会の端っこで。
カロンは壁際に置かれた椅子に座り、冷えた果実水をちびちびと飲みながら、ただただ深い深いため息をついていた。
(……やれやれ。何が『隠密裏に変装して見学』だ。完全に町一番のお祭り騒ぎになってしまったじゃないか)
とはいえ、信徒たちや子供たちがこれほどまでに満面の笑顔を浮かべ、トーマス神父が生きる気力をみなぎらせている姿を見れば、頭ごなしに怒る気にもなれなかった。
カロンも女将さんが運んできてくれた美味しい料理に舌鼓を打ち、ご相伴に預かることとなった。
宴は昼を過ぎ、夕暮れを越え、夜の帳が下りるまで延々と続いた。
夜の九時を回った頃。
たらふく食べて飲んで大満足したメリスは、信徒たちからの山のようなお供え物(高級フルーツや焼き菓子)を抱え、千鳥足でカロンの元へ戻ってきた。
「ふぅ〜〜っ! 食べた食べた! やっぱり地上は最高ね! カロン、帰るわよ〜」
「はいはい、お疲れ様でした。さあ、夜風で体を冷やさないようにローブを着てください」
カロンは酔っ払った駄女神に再び深緑色のローブを羽織らせ、信徒たちやトーマス神父の熱烈な見送りを受けながら、教会を後にした。
街灯の温かな明かりが石畳を照らす夜道を、二人は並んで歩いた。
新工房区の方向を見上げると、夜空を突くようにそびえ立つ二十階建ての校舎タワーと、三十階建ての複合メガタワーが、無数の明かりを灯して美しく輝いている。
(今日も平和な一日が終わったな……)
心地よい夜風を浴びながら、カロンはぼんやりと光り輝く大学タワーを見上げた。
その時――。
カロンの脳裏に、電撃のような衝撃が走った。
(……ん? 大学タワー……? 講義……?)
カロンの足が、ピタリと止まった。
瞳孔が収縮し、冷や汗が背筋を一筋スーッと流れ落ちていく。
(……あ。今日は……午前中に第二期生のカリキュラム編成会議があって、午後からは第一期生の『材料力学・応用トラス構造計算』の3コマ連続集中講義の日だった……!!)
ダンジョンから戻った安心感と、朝からの駄女神の教会騒動に振り回された結果――
大学の学長としての職務を、完全に丸一日すっぽかしていたことに、カロンはこの瞬間初めて気がついたのである。
「ど、どうしたのカロン? 急に青い顔して立ち止まったりして?」
隣でメリスが不思議そうに首を傾げる。
カロンは震える手で懐中時計を取り出した。
時刻は、夜の九時半。講義どころか、大学の事務局すら完全に閉まる時間であった。
「……ボルト副学長……留学生のみんな……本当に申し訳ありません……」
学長としての威厳を完全に打ち砕かれたドワーフの工学者は、夜空に向かって力なく呟き、青ざめた顔のまま、足早にアパートへの道を急ぐのであった。




