第29章:異世界路面電車
第29章:異世界路面電車
清々しい朝の空気が満ちる頃、カロンが所有者となったアパートの前に、見事な装飾が施された豪奢な馬車が一台停まっていた。御者台の後ろ、開かれた客車の窓から顔を覗かせたのは、恰幅のよい――いや、よく見ればどこか凛とした佇まいを帯びた商会長、ゲオルであった。
「カロン殿! おはようございます! 朝早くから申し訳ありません!」
カロンが一階の食堂から顔を出すと、ゲオルは慌ただしく馬車から降りて歩み寄ってきた。
「ゲオルさん、どうしたのですか? そんなに急いで」
「実は……領主のハインリヒ侯爵閣下から、緊急の特注案件が舞い込みまして! 先日カロン殿がアパートや冒険者ギルドに導入されたという『電動ポンプ』と『貯湯式電気温水器』、そして町中を走らせたというあの『車』について耳にされ、『我が屋敷にも今すぐ導入せよ!』と直々のご命令が下ったのです!」
「なるほど、侯爵閣下のお耳に入りましたか」
話の早さに苦笑しつつ、カロンは作業道具と資材を空間収納に確認し、「分かりました。すぐに向かいましょう」とゲオルの馬車に乗り込んだ。
馬車が軽快な蹄の音を響かせながら領主邸へと向かう道中、カロンは以前から密かに抱いていた疑問を口にした。
「……ところで、ゲオルさん。少し立ち入ったことをお聞きしてもよろしいですか?」
「おや、なんでしょう?」
「失礼を承知で伺いますが……ゲオルさんは女性でいらっしゃいますよね。なぜ、そのように男性のような名前を名乗っておられるのですか?」
カロンの指摘に、ゲオルは一瞬驚いたように目を丸くし、やがて柔らかな笑みをこぼした。
「ふふっ……やはりカロン殿の鋭い観察眼は誤魔化せませんでしたか。ええ、おっしゃる通りです。『ゲオル』というのは、我が商会を創業した初代当主の名であり、代々の商会長が襲名する『屋号』のようなものなのです。女の身では大商人たちや貴族との交渉で侮られることも多く、こうして男物の服を身につけ、先代の名を名乗って商談に臨んでおります」
ゲオルは小さく咳払いをし、少し照れくさそうに本来の澄んだ女性の声で続けた。
「私の本名は、マリアベル・ローゼンタールと申します。カロン殿には数々の奇跡のような技術を融通していただいておりますし、これからはマリアベルとお呼びいただいても構いませんよ」
「なるほど、家名と商会を守るための知恵だったのですね。分かりました、マリアベルさん」
互いに信頼を深めながら談笑するうちに、馬車は領主邸の重厚な正門をくぐり抜けた。
屋敷の前庭に降り立つと、そこにはすでにガウン姿のハインリヒ侯爵と執事長のセバスチャンが、今か今かと待ち構えていた。
「おお、カロン殿! 待っておったぞ!」
侯爵が駆け寄るようにしてカロンの手を握った。
「冒険者ギルドのギルバートから聞いたぞ! 蛇口を捻るだけで清らかな水が溢れ出し、適温の湯がいつでも湯船を満たすというではないか! それに、馬もなしに町を駆けるあの鉄の乗り物! 我が屋敷にも今すぐ導入してくれ!」
「閣下、落ち着いてください。順を追って施工いたしましょう」
カロンは早速、屋敷の給水・給湯化工事に取り掛かった。
屋敷の裏手にある深井戸に特製の高圧電動ポンプを据え付け、本線から引いた電力を接続。そこから耐圧ステンレス配管を屋敷内へと引き込み、厨房と、屋敷内にある三箇所の浴室――侯爵専用の豪奢な大理石風呂、来客用浴室、そして使用人用の浴室へと配管を分岐させた。
各浴室の壁面には、アパートのものより大型となる五百リットル容量の「大型貯湯式電気温水器」をそれぞれ設置。精密な魔導サーモスタットを組み込み、混合水栓を取り付けた。
「閣下、作業が完了いたしました。レバーを捻ってみてください」
侯爵が恐る恐る大理石風呂の金色の蛇口を回すと――ドボドボと心地よい湯気を立てる完璧な四十二度のお湯が、勢いよく浴槽を満たしていった。
「おおおおっ……! 素晴らしい! 湯が……完璧な湯加減の湯が、蛇口から溢れ出しておる!」
侯爵は湯に手を浸し、年甲斐もなく歓声を上げて大喜びした。セバスチャンも「これで薪を焚いて湯を運ぶ重労働から完全に解放されます……」と感涙している。
しかし、続いて侯爵が求めた「車」の導入については、カロンは首を横に振らざるを得なかった。
「閣下、大変申し訳ないのですが……あの電気自動車をそのままお渡しすることはできません」
「む? なぜだ? 金ならいくらでも払うぞ!」
「いえ、資金の問題ではないのです。あの車は、私の固有魔法である雷撃『サンダーボルト』と蓄電『サンダーストレージ』を直接連動させて電力を供給し、精密な魔力制御を行って初めて駆動する試作機なのです。現状、私以外の人間が運転しても、魔力が適合せず一歩も動かすことができません」
「な、なんと……そうなのか……」
侯爵は心底残念そうに肩を落とし、ため息をついた。
その落胆した姿を見つめながら、カロン――前世の中山教授の脳裏に、ひとつの鮮やかな光景が閃いた。
(個人用の自動車は、バッテリーの技術や運転免許、魔力制御の標準化が整っていなければ普及は難しい。……だが、決まった軌道の上を、発電所からの安定した電力で走らせる乗り物ならどうだ?)
前世の記憶。学会の出張で訪れたポルトガルの首都リスボン。
美しい石畳の坂道を、架線から電気を取りながら軽快に走り抜けていた、あの歴史ある「路面電車」の姿が鮮明によみがえった。
「……閣下。自動車はお渡しできませんが、もっと素晴らしい、町全体を豊かにする交通機関のご提案がございます」
「ほう……? それは何だね?」
「『路面電車』です。道路にレールを敷き、頭上に張った電線から直接電気を取り込んで走る、何十人もの人間や物資を一度に運べる巨大な乗り物です」
カロンはその場で図面を広げ、東門から町の目抜き通りを抜け、領主邸の前門へと至る軌道交通の構想を熱弁した。
「馬車よりも遥かに安全で、揺れが少なく、時間通りに町中を巡回できます。領民の移動はもちろん、街道から運ばれてきた物資を東門から町の中心部や屋敷まで一瞬で輸送できるようになります!」
侯爵は目を丸くして図面を見つめ、やがて太ももをバチンと叩いた。
「素晴らしい! 実に素晴らしい構想だ! カロン殿、全面的に許可する! 町の道路の使用権も、必要な予算もすべて手配しよう。我が領地の近代化の象徴として、ぜひとも建設してくれたまえ!」
こうして、異世界初となる「路面電車敷設プロジェクト」が電撃的に決定した。
翌朝から、カロンの単独による大突貫工事が幕を開けた。
ルートは、町の玄関口である「東門広場」から、商業区・冒険者ギルド前、住宅街の分岐点を経由し、「領主邸前門」へと至る全長約二キロメートルの目抜き通りである。
カロンはまず、お馴染みとなった安全対策を徹底した。
黄色い安全ヘルメットを被り、ピンクのウサギと緑のカメの形をした可愛らしい単管バリケードで工事区間を区切る。そして先頭には、あの黄色いヘルメットを被ったドワーフのアニメキャラクターが深々と一礼している特注看板を立てかけた。
『工事中 ご迷惑をおかけします ――路面電車軌道敷設工事』
「あら、またカロンさんが面白い看板を立ててるわ!」
「今度は『ろめんでんしゃ』だって! 何ができるんだろうね?」
町民たちが物珍しそうに見守る中、カロンの土木魔法と物質創造が炸裂した。
「『アース・トレンチング』――溝掘削!」
石畳の中央部が、幅二メートル、深さ五十センチにわたって寸分の狂いもなく綺麗に削り取られていく。
そこへ、カロンが空間収納から取り出した高剛性の圧延鋼レールと、防腐処理を施した枕木を整然と敷設していく。
「『レール・アライメント&アース・セメント』!」
レールの継ぎ目を魔法で滑らかに溶接し、軌道の周囲に硬質魔法コンクリートと石畳を隙間なく充填・平坦化していく。馬車や歩行者がレールを跨いでも足を取られないよう、路面とレールの高さを完全に一致させる精密施工である。
さらに、軌道の上空五メートルの位置に、給電用の銅製架線を等間隔の電柱アームから吊り下げてピンと張り巡らせていく。
親方団が不在のためすべてカロン一人での作業となったが、前世の鉄道工学の知識とチート級の魔導クラフトにより、驚異的なペースで工事は進んだ。
一日目:東門から商業区・冒険者ギルド前までのレール敷設。
二日目:商業区から教会前を通過し、領主邸通りへの軌道延伸。
三日目:全線の架線架設、給電系統の変電接続、および終端ループ線の完成。
わずか三日間で、町の目抜き通りの中央に、朝日にキラリと銀色に輝く二本のレールと上空の架線が、東門から領主邸まで美しく一本の線となって貫通した。
四日目の朝、カロンは水力発電所脇の広場で、路面電車の車両本体の製作に着手した。
前世のリスボンのトラムや、日本のレトロな路面電車をモデルにした設計である。
深みのあるクラシックな深緑色とクリーム色のツートンカラーで塗装された、木製と鋼鉄のハイブリッド車体。
屋根の上には、架線から電力を取り込む菱形の「パンタグラフ」を設置。
車内には、座り心地の良い臙脂色のモケット張りのロングシートと、真鍮製の吊り革、大きなガラス窓を配置した。
運転台には、速度を多段階で制御する「主幹制御器」と、空圧式ブレーキハンドル、前照灯スイッチ、そして澄んだ音を鳴らすフットゴング(警鐘)を取り付けた。
「よし……『路面電車・試作一号車』、完成だ!」
カロンは完成した一両を東門の起点レールの上へと空間収納から降ろし、パンタグラフをスルスルと押し上げて架線へと接触させた。
バチッ……!
微かな火花とともに架線から電力が車輪へと流れ、車内の白熱電球が一斉にパッと温かい光を灯した。コンプレッサーが小気味よい音を立てて空気を充填していく。
東門広場には、何事かと無数の町民や警備兵が集まり、巨大な鉄と木の箱をおっかなびっくり取り囲んでいた。
「おいおい……なんだあのデカい箱は!?」
「鉄の車輪が二本の鉄の棒に乗っかってるぞ!」
「またカロンさんだ……今度は何を走らせる気だ?」
カロンは運転席に乗り込み、窓から顔を出して周囲の安全を確認した。
足元のペダルを踏み込むと、澄んだ涼やかな鐘の音が町中に響き渡った。
チンチーンッ!
「発車します。ご注意ください」
カロンがマスコンのノッチレバーを、手前に『カチッ』と一段引き入れた。
スゥッ――。
静寂の中、かすかなモーターの唸りとともに、何トンもある巨大な車体が滑るように動き出した。
「「「うわああああっ!?」」」
町民たちから地鳴りのような歓声と驚愕の叫びが上がった。
ガタゴト、ガタゴト……。
レールを刻むリズミカルで心地よい鉄車輪の音が通りに響く。
カロンがノッチを二段、三段と進めると、電車はスムーズに加速し、人が走るほどの心地よい速度で目抜き通りを軽快に駆け抜けていった。
沿道からは、商店の店主や買い物客が次々と飛び出し、目を丸くして手を振っている。
「す、すげえええっ! 本当に鉄の道の上を走ってる!」
「馬もいないのに、あんなデカい箱が滑らかに動いてるぞ!」
「……まあ、カロンさんだからなあ」
「そうだな、カロンさんならあれくらい走らせるよな!」
もはや町民たちにとって「驚愕」の先には「カロンだから当たり前」という絶対の信頼があった。電車は商店街を抜け、大きく手を振る教会の子供たちの前を通過し、やがて終点である領主邸の前門へと滑り込んだ。
領主邸の前門には、噂を聞きつけたハインリヒ侯爵とセバスチャンが、目を輝かせて仁王立ちしていた。
プシューッ……。
カロンがブレーキハンドルを回し、エアの抜ける小気味よい音とともに電車がピタリと停止した。
「閣下、お待たせいたしました。『異世界路面電車』の完成です。どうぞご乗車ください」
「おおっ……! これが路面電車か!」
侯爵は少年のように目を輝かせ、ステップを駆け上がって車内へと乗り込んできた。
「なんと美しい内装だ! 座席もふかふかで、窓が大きくて見晴らしが良い!」
電車は侯爵を乗せ、東門へ向けて折り返し運転を開始した。
ガタゴトと揺れる心地よい振動と、窓の外を流れる町の景色に、侯爵は興奮を隠せない様子で窓にへばりついていた。
「素晴らしい……! 馬車の揺れとはまるで違う、滑るような乗り心地だ! カロン殿、これはどうやって動かしておるのだ?」
「手元のこのレバー(ノッチ)で電気の量を調節して速度を変え、こちらのハンドルでブレーキをかけます。……閣下、実際に運転してみますか?」
「えっ!? わ、私が運転してもよいのか!?」
カロンの指導のもと、侯爵が恐る恐るマスコンを握り、ノッチを一段入れた。
電車がグンと前に進む。
「動いた……! 私が動かしておるぞ!」
「前方の安全を確認し、カーブの手前でブレーキハンドルを少し右へ回してください」
「こうか? ……おお、止まった! カロン殿、これは案外簡単ではないか!」
侯爵はすっかり路面電車の魅力に取り憑かれたように破顔した。
東門に到着すると、侯爵は運転台から降り、出迎えた東門の警備兵たちを見渡して宣言した。
「カロン殿、この素晴らしい路面電車の運行と運転は、町の地理に最も明るく、規律ある東門の警備隊員たちに担当させたいと思うのだが、どうだろうか?」
「名案です。彼らなら責任感も強く、町の安全を守りながら正確に運行してくれるでしょう」
カロンが同意すると、周囲で整列していた警備兵たちから「俺にやらせてください!」「いや、俺が一番に動かします!」と、我先にと猛烈な立候補の手が挙がった。
カロンはガース隊長と相談し、その中から手先が器用で冷静な判断力を持つ六名の兵士を選抜。その日の午後から、運転操作、制動距離の感覚、指差喚呼による安全確認などの徹底的な教習を開始した。
兵士たちへの運転指導を進める合間を縫って、カロンは発電所脇の作業場でさらに魔導クラフトを稼働させた。
連日の作業でノウハウが完全に確立されていたため、わずか数日でさらに追加の三両を一気に製作。赤とクリーム色の車両、青と白の車両など、色鮮やかな計四両の路面電車フリートが揃い踏みとなった。
そして――工事開始から一週間後。
東門広場には、鮮やかな花飾りで彩られた路面電車の前に、ハインリヒ侯爵、商会長マリアベル(ゲオル)、冒険者ギルド長ギルバート、そして黄色い制帽を誇らしげに被った六名の新米運転士たちが勢揃いしていた。
広場を埋め尽くした数千人の町民たちが見守る中、侯爵によるテープカットが行われた。
「ここに、我が領地の誇る新形馬無し馬車――『異世界路面電車』の正式開業を宣言する!」
ワアアアアッ――!!
割れんばかりの歓声と拍手が町中に木霊した。
チンチーンッ!と澄んだ鐘の音が鳴り響き、一番列車が満員の町民と笑顔の子供たちを乗せて、滑らかに走り出した。
車内では、最前列の席に座ったカイとミミルが窓に張り付いてはしゃいでいた。
「カロン先生! すっごい速いよ!」
「歩かなくても、あっという間に教会に着いちゃうね!」
貧困区の子供たちも、生まれて初めて乗る文明の乗り物に、目を丸くして歓声を上げていた。
沿道を行き交う人々、停留所で待つ商人たち、笑顔で手を振る町民たち。
頭上の電線から光を受け、銀色のレールの上を軽快に駆け抜ける路面電車は、一瞬にしてこの町になくてはならない、温かな日常の風景へと溶け込んでいった。
その様子を停留所の片隅で見守りながら、カロンは胸いっぱいに広がる深い達成感を噛みしめていた。
前世の知識と、この世界の魔導工学。
それらがまた一つ、人々の生活を繋ぎ、笑顔を運ぶ確かな形となった。
(……さて、今日も美味しいご飯を食べて、温かい風呂に入るとしよう)
カロンは満足そうに目を細め、ガタゴトと遠ざかる電車の心地よい走行音を背に、ゆっくりとアパートへの帰路についた。




