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第2章:目覚めと家族

第2章:目覚めと家族


深い、深い意識の底から、ゆっくりと浮上していくような感覚があった。

水底から水面へと泡が昇っていくように、途切れ途切れだった思考の断片が少しずつ結びつき、神経の末端へと感覚が戻ってくる。


(……ここは、どこだ? 講義の続きは……学生たちはどうなった……?)


中山実は、重たい瞼を押し上げた。

視界に飛び込んできたのは、見慣れた大学の白い石膏ボードの天井でも、講義室の蛍光灯でもなかった。

ごつごつとした黒褐色の岩肌。ノミの跡が生々しく残る、粗削りの岩の天井だった。隙間から漏れ出す日光などは一切なく、部屋の隅に据え付けられた無骨な金属製のランプから、油の燃えるパチパチという微かな音とともに、赤橙色のほのかな光が揺らめいている。


「う……っ」


中山は身を起こそうとして、自分の身体に走った劇的な変化に息を呑んだ。

五十代を迎えて以来、毎朝目覚めるたびに感じていた腰の重さや、首筋のこわばり、四十肩の鈍い痛みが、跡形もなく消え失せていた。

羽毛のように体が軽い。関節という関節が油を注したばかりの精密機械のように滑らかに動き、肺腑に吸い込む空気が驚くほど力強く全身を巡る。


同時に、猛烈な違和感が全身を襲った。

視界の位置が、異常に低いのだ。


「な……んだ、これは……?」


中山は横たわっていた寝床を見下ろした。

敷かれていたのは、柔らかいスプリングマットレスではなく、乾燥した藁(わら)を硬く編み込んで布を被せただけの簡素な「わらベッド」だった。その上に掛けられていたのは、使い古された分厚い麻の布である。


中山は自分の両手を目の前にかざした。

そこにあったのは、三十年間チョークを握り続け、万年筆だこのできた五十代の老教授の手ではなかった。

手首から指先までの長さは半分ほどに縮んでいる。だが、子供の手特有の華奢さや頼りなさは微塵もなかった。指は短く丸太のように太く、関節はがっしりと頑丈で、手のひらはすでに分厚い皮膚で覆われている。


さらに、首筋から顎のあたりへと手を這わせた中山は、ぎょっとして指を止めた。

ツルツルとした子供の肌であるはずの顎下に、チクチクとした、まるで針金のような硬い感触があった。

――うっすらと、しかし確実に、立派な「ひげ」が生え始めているのだ。


「背が……縮んでいる。それに、この手と……ひげ……? わ、私の体ではないな……」


中山は呆然と呟いた。

自分の口から出た声は、前世の落ち着いた低音ではなく、変声期前の少年の甲高い響きを含んでいた。だが、発音の明瞭さと肺活量の強さは、人間の一桁の幼児のそれとは明らかに異なっている。


「では……あの女は、本当に女神だったのか……?」


中山は頭を抱え、薄暗い部屋の中で自問自答を繰り返した。

漆黒の空間。メリスと名乗ったプラチナブロンドの女神。隣の講義室の佐藤教授と間違えて魂を引き抜いたという、信じがたい過失事故。そして、示談交渉の末に提示された「ドワーフの子供への転生」という解決策。


(すべて、悪夢や幻覚の類ではなかったということか……。私は本当に死に、別の世界の、別の肉体に魂を定着させられたのだ)


中山は深く息を吐き出し、冷静さを取り戻そうと努めた。

嘆いても、怒りを再燃させても、現状は何一つ好転しない。工学者として最初に行うべきは、置かれた環境のパラメータを正確に測定し、客観的な現状把握(アセスメント)を行うことだ。


中山はベッドから足を下ろし、立ち上がった。

立ち上がっても、目線は床から一メートル少しの高さにしかなかった。前世の身長は百七十二センチだったから、世界がまるで巨大化したように錯覚してしまう。着ているのは、仕立ての良いグレーのスーツではなく、ざっくりと織られた粗末な麻のシャツと、膝丈までの革のズボンだった。


部屋の中をじっくりと観察する。

広さは六畳ほど。壁は岩盤を削り出して作られているが、一部の壁面には頑丈な切り石が隙間なく積まれ、補強されている。

驚くべきは、室内に配置された家具の数々だった。

一般的な中世風の世界であれば木製の家具が主流のはずだが、この部屋にある「本棚」「椅子」「テーブル」、そして出入り口の「ドア」に至るまで、その大半がすべて「鉄」で作られていた。


中山は近づき、鉄のテーブルの表面を指先で撫でた。

(……鋳鉄(ちゅうてつ)製だな。炭素濃度が比較的高く、砂型に流し込んで成形した後に、表面をヤスリで荒削りして平滑面を出している。角の面取り加工やリベットの接合技術を見る限り、中世ヨーロッパ初期どころのレベルではない。相当に高度な鋳造技術と冶金インフラが存在している証拠だ)


木材が手に入りにくい地底環境ゆえに、鉄を木材の代替として日常的に消費できるほどの製鉄能力があるということか。

工学者としての知的好奇心が、不意にチクリと疼いた。


「……とりあえず、外の様子を確認しなければな」


中山はフラフラとする慣れない短い足取りで歩を進め、重厚な鉄のドアの前に立った。

ドアノブというものはなく、無骨な鉄のラッチ(掛け金)が取り付けられている。ラッチを持ち上げると、ギリギリと重みのある金属音が響いた。子供の体格ではあるが、腕の筋力は見た目以上に強く、重い鉄扉を苦もなく押し開けることができた。


ドアの外は、長い廊下だった。

部屋の中と同様に、岩肌をくり抜いて作られたトンネル状の通路であり、幅は二メートルほど。天井の高さも二メートル半ほどと、ドワーフの身長に合わせてやや低めに設計されている。壁面には数メートルおきに鉄製のブラケットが打ち込まれ、そこに乗せられた油ランプがゆらゆらと通路を照らし出していた。

空気はわずかにひんやりとしているが、どこか奥の方から炭が爆ぜる匂いと、微かな金属粉の混ざった温かい風が流れてきている。


中山が廊下の真ん中で佇み、壁の地層やランプの燃料を観察しながらぼおっとしていた、その時だった。


「――カロン?! あなた、カロンなの……?! 大丈夫なの?!」


通路の奥から、甲高く、しかし力強い女の声が響き渡った。

中山がハッとして振り返ると、小走りでこちらへ駆け寄ってくる人影があった。


そこにいたのは、背丈は百三十センチほどと小柄でありながら、横幅が広く極めてがっしりとした体つきの女性だった。

身に纏っているのは、布のワンピースの上から、薄い鉄板を鱗状に重ね合わせて革紐で編み込んだ「スケイルアーマー風のエプロン(作業着)」である。腰には分厚い革ベルトを締め、そこには様々な小型の工具が吊り下げられていた。

豊かな赤茶色の髪を後ろで太い三つ編みに束ね、顔立ちは三十代前半ほど。化粧気のない素朴な肌だが、目鼻立ちがくっきりとした活動的な印象を受ける。


(……鉄の鱗状の服に、この体躯。やはり女性のようだが……本当にドワーフの世界なんだな)


中山が呆然としていると、その女性はドスドスと力強い足音を立てて目前まで迫り、中山の両肩をがっしりと掴んだ。


「カロン! ああ、本当に立っているのね……! ああ、神様……!」


女性の太い指が、中山の頬、額、首筋、腕、胸元へと目にも留まらぬ速さで触れ、怪我や熱がないかを確かめるように激しく撫で回す。その手のひらは硬くタコができており、職人の手そのものだったが、触れ方は痛いほど優しく、愛情に満ち溢れていた。


「熱はないわね……呼吸も乱れていない……! ああ、良かった……本当に良かったわ……! あなた、採掘場で落盤に巻き込まれてから、もう丸々1か月も目を覚まさずに寝ていたのよ!」


1か月。

女神メリスが言っていた「脳死状態のドワーフの子供」というのは、事故で昏睡状態に陥っていたこの少年のことだったのか。


中山は、目の前で必死に涙をこらえながら自分を見つめる女性の顔をじっと見返した。

前世の知識と意識を持った五十代の大学教授である中山にとって、明らかに自分より若い(外見上も年齢的にも)この女性を前にして、どう振る舞うべきか一瞬の逡巡があった。しかし、彼女がこの肉体の生みの親であることは疑いようがなかった。


「……母親、ですか?」


中山は、思わず声を出して尋ねていた。

女神から授かった【完全言語理解】の恩恵だろう、頭で考えた日本語が、発声器官を通る瞬間に完璧なドワーフの言語(喉を低く鳴らすような独特の子音を含む言葉)へと自動変換されていた。


その問いを聞いた瞬間、女性の表情が凍りついた。


「え……? そ、そうよ、あなたの母さんよ……? カロン、あなた……もしかして、私のことも覚えていないの?!」


女性の瞳に、強烈な動揺と不安が走る。

中山は少し胸の痛みを覚えたが、下手に辻褄の合わない嘘をつくよりは、事故の後遺症として処理するのが最も合理的であると判断した。


中山は、ゆっくりと小さくうなずいた。


「……すみません。目が覚めたら、ここがどこかも、自分の名前も、あなたのことも……何も思い出せなくて」


「ああ……なんてことなの……」

女性は胸元を押さえてよろめいた。しかし、すぐに持ち前のドワーフらしい気丈さを取り戻し、中山の小さな手をぎゅっと包み込んだ。

「いいのよ、いいの! 命があっただけで十分よ! 神様があなたを連れ戻してくれただけで、母さんは何も望まないわ! ……さあ、こんな薄暗い廊下で立ち話をしていてもなんだから、居間に入りましょう。暖かいスープでも飲んで、ゆっくり話しましょうね」


女性――母は、中山の手を引いて歩き出した。

その温かく力強い手の感触に、中山は不思議な安心感を覚えていた。


案内された居間は、先ほどの寝室の三倍ほどの広さを持つ、やはり岩盤を削り抜いた大部屋だった。

部屋の中央には、大人六人が余裕で囲める巨大な鉄のテーブルと、六脚の鉄の椅子が鎮座している。溶接ではなく、太いボルトとナット、そしてリベットで強固に組み上げられた無骨なデザインだ。

壁際には、調理器具や食器が並べられた鉄の台所(キッチン)があり、その隣には大きな鉄製の戸棚がいくつも並んでいた。竈(かまど)には石炭が赤々と熾っており、天井に開けられた排気孔へと煙が吸い込まれていく構造になっている。


(見事な排煙設計だ。地底都市において一酸化炭素中毒は最大の脅威のはずだが、気流のドラフト効果を巧みに利用して換気を行っているな)


「さあ、カロン。ここに座りなさい」


促されるまま、中山は鉄の椅子に腰を下ろした。

座面には薄い革のクッションが敷かれていたが、それでもズシリとした鉄の硬質感と冷たさが伝わってくる。女性も向かいの席に腰を下ろし、真剣な眼差しで中山を見つめた。


「カロン、まずはあなたの家族のことと、この街のことを教えてあげるわね。焦らなくていいから、少しずつ思い出していけばいいのよ」


女性は優しい声で、一つひとつ丁寧に説明を始めてくれた。


まず、この肉体の少年の名前は「カロン」。

そして、目の前にいる母親の名前は「フラウ」。

そして、工房で働いている父親の名前は「ガイル」。

家族構成はこの3人暮らしだという。


「年齢はね、母さんが31歳で、父さんのガイルが34歳。そして、あなたが9歳よ」

「9歳……」

「そうよ。ドワーフの平均寿命はだいたい220歳くらいだから、人間で言えば、あなたはまだほんの駆け出しの子供なのよ。まあ、ドワーフの子供は足腰が丈夫だから、9歳にもなれば簡単な鉱石運びや鞴(ふいご)の番くらいは手伝うようになるけれどね」


(平均寿命が二百二十歳……! なるほど、三十代前半のフラウさんが人間の二十歳前後のように若々しく見え、九歳のカロンが人間の四〜五歳程度の幼年期に相当するわけか。生物学的な成長曲線が人間とは根本的に異なっているのだな)


中山は頭の中で素早く情報を整理した。前世で五十代だった精神年齢からすると、三十一歳のフラウは娘のような年齢差だが、この世界の常識に合わせなければならない。


フラウは立ち上がり、台所から冷たい水を注いだ金属のコップを持ってきて中山の前に置くと、話を続けた。


「うちの家業は、代々続く鍛冶工房よ。父さんのガイルは腕の良い鍛冶職人で、親方の工房で鉄や鋼の武具、農具、生活用の金物を作っているの。この洞窟の町で作られた製品は、商隊を通じて『外の世界』……つまり地上の人間の国へと輸出されていくのよ」

「外の世界……人間の国へ?」

「そう。ドワーフの住む地底都市では、鉄や銅、石炭や鉱物はいくらでも採れるけれど、穀物や野菜、果物、そしてお酒の原料になる作物は地底じゃ満足に育たないでしょう? だから、私たちは最高の鉄製品や武器を外に売り、その代わりに地上から大量の食料や麦、酒を買い入れて生活しているのよ」


中山は深く頷いた。

典型的な「鉱工業特化型の貿易経済」だ。地下資源と高度な冶金技術を比較優位として外貨(食料)を稼ぐという、極めて合理的かつ必然的な経済モデルが成立している。


「この町の名は『ガロニア』というの」

フラウは壁に掛けられた羊皮紙の地図を指さした。そこには幾重にも入り組んだ洞窟都市の構造が、幾何学的に美しく描かれていた。


「ガロニアには、およそ1000人ほどのドワーフが暮らしているわ。鍛冶屋や鉱夫が一番多いけれど、それだけじゃないのよ。怪我や病気を治す医者、街の治安や配分を取り仕切る政(まつりごと)の役人、外の商人たちと渡り合う交易商人、それに子供たちに学問を教える学校の先生……いろんなドワーフが助け合って、この岩の中で暮らしているの」


「学校もあるんですね」

「ええ、もちろんよ! ドワーフは技術の民だからね。読み書きや計算、それに鉱物の見分け方や工学の基礎は、子供のうちから徹底的に叩き込まれるの。あなたも事故の前はちゃんと通っていたのよ」


人口千人規模の地底都市。

決して巨大な国家ではないが、強固な分業体制と教育インフラ、そして対外貿易ルートを持った、極めて完成度の高い都市共同体(ポリス)であることが理解できた。


「……でも、本当によかったわ」

フラウは突然、言葉を詰まらせ、テーブルの上に置かれた中山の小さな手を再び両手で握りしめた。その瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。


「採掘場の上層が崩れたって聞いたとき、母さん、目の前が真っ暗になったのよ。運び出されたあなたは身体に傷一つなかったけれど、いくら呼んでも揺さぶっても目を覚まさなくて……お医者様にも『魂が肉体から遊離してしまった』って言われて……。父さんと毎晩、ベッドの横で祈り続けていたのよ……」


フラウの涙声に、中山の胸が強く締め付けられた。

この身体の元の持ち主であった本物のカロンの魂は、落盤事故のショックで肉体を離れ、戻らぬまま消滅してしまったのだろう。そして、神のミスによって引き抜かれた中山の実の魂が、その空っぽになった器に収まった。

フラウが愛し、祈りを捧げていた「カロン」は、もうどこにもいないのかもしれない。

しかし――今、この温もりを感じ、彼女の涙を受け止めているのは、紛れもなく自分なのだ。


(私は、中山実としての人生を理不尽に奪われた。だが……この母親から息子を奪うわけにはいかない。私は今日から、この世界で『カロン』として生き抜かなければならない)


中山――カロンは、決意を込めてフラウの手に力を込めた。


「母さん、心配かけてごめんなさい。もう大丈夫だから。どこも痛くないよ」

「カロン……! ああ、そうね、泣いてちゃ駄目ね!」

フラウはエプロンの端で力強く涙を拭うと、パッと笑顔を作って立ち上がった。


「そうだわ! 何はともあれ、お医者様に診てもらわなきゃ! 先生を呼んでくるから、カロン、ここで大人しく座って待っていなさいね。いい子だから、どこにも行っちゃ駄目よ!」


フラウは早口で言い置くと、鉄の扉を勢いよく開け、ドタドタと力強い足音を響かせながら廊下の彼方へと走り去っていった。


静まり返った居間に、一人取り残されたカロン。

彼は一人、鉄の椅子の上で深く息を吸い込み、精神を集中させた。


(フラウさんが戻ってくる前に、女神メリスから与えられた能力の確認をしておくか)


メリスが提示した補償は三つ。

第一に【完全言語理解】。これはすでに実証済みだ。フラウとの会話も、壁の地図に書かれていたルーン風の文字も、まるで母国語のように自然に理解・発話できた。


第二に【無限収納(アイテムボックス)】。

カロンはテーブルの上に置かれていた、中身の入っていない鉄のコップを見つめた。

(収納……格納、インベントリ……)

心の中で強く念じながらコップに触れると、視界の隅に淡い幾何学模様の光が明滅した。

次の瞬間、手元にあったはずの鉄のコップが、ふっと掻き消えるように消失した。

同時に、カロンの脳裏に「暗黒の巨大な空間」のイメージが直接投影された。そこには、時間の流れが完全に静止した状態で、先ほどの鉄のコップが静かに浮かんでいた。


(なるほど……! 意識のチャンネルを合わせるだけで、質量や体積を無視して亜空間に物質を出し入れできるのか。取り出しは……)

念じると、手のひらの上に音もなく鉄のコップが再び実体化した。

(温度変化も劣化も起きない完全な時間停止保管。これは熱処理された鋼材の急冷・焼入れのタイムコントロールや、高純度試薬の劣化防止、精密測定器の運搬において凄まじいアドバンテージになるぞ)


そして第三の能力――【賢者クラスの魔力】と【構造鑑定】。

カロンは自分の体内に意識を向けた。すると、丹田のあたりから温かいエネルギーの奔流のようなものが、血管とは異なる見えない経路(経絡のような魔力回路)を通って全身を駆け巡っているのがはっきりと知覚できた。

ドワーフは本来、身体が頑丈な反面、魔力操作が極めて苦手な種族だと神は言っていた。しかし今のカロンの肉体には、奔流のような莫大な魔力が渦巻いている。


試しに、目の前の鉄のテーブルに手を置き、【構造鑑定】を発動させてみる。


――ビキィッ!


脳裏に、まるで最新鋭の電子顕微鏡と三次元CTスキャンを同時に覗き込んだかのような、圧倒的な情報量が流れ込んできた。


『対象:灰口鋳鉄(グレーキャストアイアン)製作業机』

『成分組成:鉄(Fe)93.2%、炭素(C)3.4%、ケイ素(Si)2.1%、マンガン(Mn)0.6%、リン(P)0.4%、硫黄(S)0.3%』

『組織状態:フェライト+パーライト基地中に片状黒鉛が分散。冷却速度の不均一により、脚部接合部に軽微な引け巣(内部空洞)およびチル組織(白鋳鉄化)を検出。引張強さ:約180MPa』


(……素晴らしい!!)

カロンは思わず興奮で息を呑んだ。

破壊検査を行うこともなく、X線回折装置や蛍光X線分析装置、走査型電子顕微鏡(SEM)を通すこともなく、触れただけで材料の元素構成比率から内部欠陥、金属組織の変態状態、機械的強度までが一瞬で数値化されて脳内に表示される。

材料工学者にとって、これ以上の「神の眼」が存在するだろうか。


カロンが一人でその万能感に打ち震えていた、ちょうどその時。


ドタドタドタッ! と廊下から慌ただしい二対の足音が近づいてきた。


「先生、こちらです! 本当に起きて、普通に喋っているんです!」

「いやいやフラウ、落ち着きなさい。落盤による脳震盪で1か月も昏睡しておったのじゃぞ? 仮に意識が戻ったとしても、激しい麻痺や記憶障害、言語症が残っておるのが普通……」


鉄の扉が乱暴に開け放たれ、フラウの後ろから一人の老ドワーフが姿を現した。


その老人は、床に届くのではないかと思われるほど立派な純白の顎髭を三つ編みに蓄え、丸い眼鏡を鼻先に引っかけ、厚手の革製トレンチコートのような白衣を纏っていた。手には真鍮と革で作られた頑丈な往診鞄を提げている。


老医者は、鉄の椅子に姿勢正しく座り、コップの水を飲んでいるカロンの姿を見るなり、丸眼鏡を指で押し下げて目を丸くした。


「…………な」


老医者は鞄を取り落としそうになりながら、小走りでカロンの前に駆け寄ってきた。

至近距離から、穴が開くほどカロンの顔を凝視する。


「……信じられん。瞳孔の対光反射は正常……顔色も血色が戻っておる……。おい、坊ず。ワシの指が見えるか? これは何本じゃ?」

老医者が目の前で指を三本立てた。


「三本です、お医者様」

カロンが落ち着いた声で答えると、老医者は「ヒッ」と喉を鳴らした。


「お、言葉の呂律(ろれつ)も完璧じゃ……! 奇跡じゃ……まさにドワーフの祖神トール様の奇跡じゃ……!!」


老医者は興奮して髭を震わせながら、往診鞄から様々な器具を取り出した。

木製の聴診器のような筒をカロンの胸に当てて心音と呼吸音を確認し、小さな金属のハンマーを取り出して膝の皿を叩き、脚気(かっけ)の反射テストを行う。さらに、指先でカロンの首筋や背骨を丁寧に触診していった。


「手足を動かしてみてくれ。握力はどうじゃ? ワシの手を全力で握ってみい」

カロンは言われた通り、老医者の差し出した分厚い手をギュッと握った。

「ぐ、ぐぬっ……! 十分じゃ、十分すぎる! 9歳の子供としては申し分のない力強さじゃ!」


老医者は額の汗を拭いながら、信じられないというように首を振り続けた。


「フラウよ……手をつくしてもピクリとも動かず、呼吸すら弱まり、もはや肉体から魂が離れ去った『抜け殻(植物状態)』と診断せざるを得なかったあのカロンが……後遺症一つなく、完全に回復しておる」


「先生……! じゃあ、本当に大丈夫なんですね?!」

「うむ。1か月間寝たきりだったとは思えんほど筋肉の衰弱もない。ただ……先ほどフラウから聞いたが、事故以前の記憶が抜けておるようじゃな?」


老医者がカロンに向き直る。

「坊ず、自分の名前はわかるか?」

「母さんから聞いて、『カロン』だということは理解しました。でも……それ以前の友達のことや、工房のこと、落盤事故の瞬間のことは、霧がかかったように何も思い出せません」


カロンがもっともらしく答えると、老医者は深く頷いた。


「うむ……頭部への強打による『逆行性健忘』じゃな。落盤の凄まじい衝撃から自己の精神を守るために、脳が記憶の扉を閉ざしてしまったのじゃろう。だが、言葉を話し、論理的な思考ができ、肉体がこれほど完璧に動くのなら何の問題もない。記憶などというものは、生きてさえおればこれからいくらでも積み直せるからのう」


老医者は手際よく器具を鞄に片付けると、満面の笑みを浮かべてフラウの肩をポンと叩いた。


「安心しなさい、フラウ。医学的な見地から見ても、カロンの身体には一切の異常なしじゃ! 今日から普通に生活させて構わんぞ!」


「ああ……先生、ありがとうございました……! 本当に、本当にありがとうございました……!」


フラウは深々と何度も頭を下げ、診療代と思われる金属のコインを老医者に手渡した。

老医者は「めでたいことじゃからな、今夜は美味いエールを呑むといい!」と豪快に笑いながら、満足げに家を出て行った。


バタン、と鉄の扉が閉まる。

居間には再び、カロンとフラウの二人が残された。


「良かった……本当に良かったわ、カロン……!」

フラウは駆け寄ってくると、今度こそ満面の笑みでカロンを抱きしめた。

その抱擁の力強さに骨がきしみそうになりながらも、カロンは小さな腕を伸ばし、そっと母親の背中に手を回した。


こうして、元・大学教授の中山実は、ドワーフの少年「カロン」として、地底都市ガロニアでの第二の人生を確実に踏み出したのだった。

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