第26章:異世界お風呂
第26章:異世界お風呂
朝の陽光が石畳を柔らかく照らす頃、カロンは町の中央通りにあるゲオルの商会へと足を運んでいた。
昨日完成したばかりのショールームの前には、開店直後であるにもかかわらず、物珍しい魔導家電を一目見ようとすでに多くの町民や商人が足を止め、ガラス越しに並べられたピカピカの冷蔵庫や扇風機を食い入るように眺めていた。
商会の扉を開けて中へ入ると、事務室の明るい電灯の下で帳簿をめくっていた商会長のゲオルが、満面の笑みで立ち上がった。
「おお、カロン殿! お待ちしておりました! いやはや、昨日のショールーム開設と領主邸での評判が早くも上流階級の間に広まりまして。朝一番から問い合わせと注文が殺到しております!」
ゲオルは机の上に数枚の契約書類と、ずっしりと重みのある革袋を並べた。
「こちらは、すでに施工を終えた施設からの電化工事代金と、ガロニアからの家電販売手数料の精算分にございます。契約に基づき、純利益の四割を技術開発・施工主であるカロン殿へ、四割を製造元であるガロニアの鍛冶ギルドへ、そして二割を我が商会の仲介手数料として分配させていただきました」
カロンが革袋を受け取ると、中にはぎっしりと眩い金貨と銀貨が詰まっていた。
発電所の建設から始まった大事業が、こうして明確な経済循環を生み出し始めている。ガロニアの親方団にとっても、カロン個人にとっても、極めて大きな継続的収入源が確立された瞬間だった。
「ありがたい。ガロニアへの送金手配もよろしくお願いします」
「ええ、もちろん万全を期しますとも! ……そしてカロン殿、早速ですが本日の午前中に施工をお願いしたい新規の契約が二件ございます。どちらも貴族区にお住まいの子爵家からのご依頼でして、電灯の設置と冷蔵庫、扇風機、電気コンロの導入を至急望んでおられます」
「分かりました。午前中のうちに二軒とも片付けてしまいましょう」
カロンは工具袋と資材を空間収納から取り出し、すぐさま貴族区へと向かった。
領主邸からの送電幹線はすでに貴族区の目抜き通りを通過しているため、工事は極めてスムーズだった。
幹線から子爵邸の敷地内へと引き込み線を分岐させ、外壁を傷つけないよう注意深く屋内へと配線を引き込む。壁の内部に隠蔽配線を通し、安全ブレーカー付きの配電盤を設置。大広間や書斎、寝室には美しいガラスシェードの電灯と陶器製スイッチを据え付け、厨房には冷蔵庫と電気コンロ、執務机の傍らには扇風機を配置した。
カロンの熟練した魔法配線と精密な施工技術により、一軒あたり一時間半ほどで完璧に通電まで完了した。
「おお……! スイッチ一つで部屋中が昼間のように明るくなるとは!」
「火を使わずに煮込み料理ができるなんて、なんと素晴らしい……!」
二人の子爵とその家族、使用人たちは、目の前で繰り広げられた奇跡のような文明の利器に歓声を上げ、カロンに惜しみない感謝と追加の謝礼を差し出した。
「ふう、これで二軒とも完了だな」
貴族区を出たカロンは、正午前の少し余った時間を利用して、自分が寝泊まりしているアパートの通りへと向かった。
商業区の分岐点から数本の電柱を追加で建て込み、黒い絶縁電線をスルスルと伸ばして、アパートの屋根裏へと直接引き込んだ。これで、カロンの自室と一階の食堂にも安定した電力が供給される基盤が整った。
午後の日差しが差し込む中、カロンはアパートの自室で椅子に深く腰掛け、手元の金貨の詰まった革袋を見つめながら、ふと物思いに耽っていた。
(……やれやれ。元は大学で教鞭を執っていた中山教授だったこの私が、異世界に転生してドワーフになり、毎日毎日電気工事をして、家電を組み立て、配線を引いている。客観的に見れば、私は一体何をしているんだろうな……)
思わず苦笑いが漏れる。
この世界で生きていくための手段として、冒険者ギルドに登録して魔物を狩り、討伐報酬で日銭を稼ぐという道もあった。しかし、前世で平和な学術の世界に生きていたカロンにとって、命の危険を冒して血生臭い戦闘に身を投じる冒険者稼業は、どうにも肌に合わなかったのだ。
(危険な魔物と斬り結ぶより、己の知識と工学の力で人々の暮らしを便利にし、正当な対価として収入を得る。これこそが技術者としての本懐であり、何より精神的に健全というものだ)
そう自分に言い聞かせると、カロンの瞳に再び職人としての鋭い光が宿った。
「さて……電気が部屋まで通ったからには、以前からどうしても作りたかった『あの装置』の研究と試作に取り掛かるとしよう」
カロンが渇望していたもの――それは、日本人として、そして無類の温泉・風呂好きであった元教授として絶対に譲れない究極の生活設備、「家庭用貯湯式電気温水器」と「魔導給水ポンプシステム」であった。
これまでカロンは、毎日の入浴時に魔法で桶に水を張り、火魔法の『ファイアーボール』で温めるという原始的な方法を取っていた。しかし、これが実に扱いづらかった。火力が強すぎて熱湯になってしまったり、逆に温まりきらずにぬるくなったりと、温度の微調整が極めて困難だったのである。
「いつでも蛇口をひねれば、四十一℃の適温の湯がたっぷりと溢れ出るシステム……これこそが文明の極致だ!」
カロンは気合いを入れ、アパートの裏手にある作業スペースで腕まくりをした。
空間収納からステンレス鋼板の原材料、断熱鉱物、高純度銅、魔石、配管用バルブ部材を取り出し、地面に並べる。
「『マテリアル・トランスミュート』――高耐圧二重貯湯タンク、成形!」
カロンの手から放たれた青白い魔導光が、金属素材を分子レベルで再構築していく。
容量三百リットルの巨大な円筒形タンクが姿を現した。内部は耐食性に優れた特殊ステンレス鋼、外側は熱を絶対に逃がさない厚さ五センチの真空断熱鉱物ウール層で隙間なく覆われている。
続いて、心臓部となる加熱エレメントの構築だ。
タンクの底部には、高純度ニクロム線と耐熱絶縁セラミックで覆われた高出力シーズヒーターを三基配置。さらに、精密なバイメタル式サーモスタットとマイコン制御基板(魔導回路)をドッキングさせ、設定温度(四十一℃〜六十℃)に達すると自動で通電を遮断・保温する「自動温度調整モジュール」を組み込んだ。
「減圧弁、安全弁、逆止弁をセット……配管接続口のシール材は耐熱ゴムで完全密閉!」
カロンの精密な指先が魔法と工具を自在に操り、無駄のない流線型のカバーで覆われた美しい白銀の「貯湯式電気温水器・試作一号機」が完成した。
さらにカロンは、井戸から自動で水を吸い上げて圧力を保ち続ける「自動加圧式浅井戸用電動ポンプ」も並行して一気に作り上げた。
完成した機材を台車に乗せ、カロンはアパート一階の食堂へと向かった。
厨房の勝手口から顔を覗かせると、女将さんがエプロン姿で仕込みの真っ最中だった。
「女将さん、ちょっといいかい?」
「あらカロンさん! どうしたんだい?」
「実はね、食堂の調理がもっと楽になる新しい装置を試作したんだ。裏庭の井戸にポンプを取り付けて、厨房のシンクまで直接水を引いてみてもいいかな?」
「えっ!? 井戸の水を厨房まで引く……? そんなことできるのかい?」
女将さんは目を丸くしながらも、「カロンさんのやることなら大歓迎だよ!」と二つ返事で快諾してくれた。
カロンはすぐさま作業に取り掛かった。
裏庭にある共用の井戸の開口部に、先ほど製作した電動ポンプを強固に据え付け、吸水管を地下水脈深くまで降ろす。アパートの屋根裏から引いてきた電線をポンプのモーターへと接続した。
続いて、井戸から厨房のシンク、そして二階のカロンの自室へと向かう給水配管を、石工魔法で建物の壁沿いに美しく敷設。厨房のステンレス製シンクの壁面に穴を開け、ピカピカに磨かれた真鍮製の「回転式蛇口」を取り付けた。
「よし、通電完了。……女将さん、ちょっとこの蛇口のレバーを捻ってみてごらん」
厨房に招かれた女将さんは、半信半疑の面持ちで蛇口に手を伸ばし、キュッとレバーを回した。
次の瞬間――カチリと裏庭のポンプが静かに作動し、蛇口の先端からドッと澄んだ清らかな井戸水が勢いよく噴き出した。
「きゃあああっ!?」
女将さんが思わず飛び退き、口を手で覆った。
「み、水が……! 部屋の中で、蛇口を回しただけで勢いよく水が出てるよ!?」
「レバーを戻せば、ほら、ピタリと止まる。井戸まで桶を持って往復しなくても、ここでいつでも好きなだけ水が使えるよ」
カロンが実演してみせると、女将さんは信じられないといった様子で何度もレバーを開閉し、溢れ出る冷たい水に触れて歓喜の涙を浮かべた。
「カロンさん……! 重い水汲みは、毎朝腰が砕けそうになる一番辛い重労働だったんだよ……! それが、部屋の中で手元を捻るだけで水が出るなんて……夢みたいだよ! 本当にありがとう……!」
女将さんはカロンの手を握りしめ、何度も何度も深々と頭を下げた。
食堂の配管を終えたカロンは、給水管をそのまま真上の二階、自分の自室へと伸ばした。
自室の奥にある空き部屋を改装し、床と壁に防水・防カビのタイル石を敷き詰めて清潔な浴室スペースを構築。中央には、大柄なドワーフの体でもゆったりと足を伸ばして肩まで浸かれる、特注の深型大型バスタブ(浴槽)を据え付けた。
その脇の壁面に、先ほど製作した三百リットルの貯湯式電気温水器をガッチリと固定。給水管とアース付き電源を接続し、温水器の出湯管をバスタブの混合水栓へとドッキングさせた。
「よし……給水開始、そして通電!」
井戸ポンプから送られた水がゴボゴボとタンクを満たし、ヒーターが唸りを上げて急速加熱を始める。
魔導サーモスタットのダイヤルを「四十一・五℃」にセットすると、約四十分ほどでランプが緑色に切り替わり、適温保温モードへと移行した。
混合水栓の湯側レバーを捻ると――湯気とともに、心地よい温もりを帯びたお湯がドボドボとバスタブを満たしていった。
「完璧だ……! 温度のブレはコンマ一ミリもない!」
カロンは満足そうに頷き、夕方の予定に備えて一度浴室の扉を閉めた。極上の湯浴みは、一日の仕事をすべて終えた夜の最高のご褒美としてとっておくことにしたのだ。
夕暮れ時、カロンは日課であるメリス教の教会へと向かった。
町を歩いていると、通りを行き交う町民たちの会話が耳に入ってきた。
「おい、聞いたか? 西区の教会で、身寄りのない子や貧民街の子供たちに、無料で文字や算術を教えてくれる学校ができたらしいぞ」
「ああ! あのドワーフの偉い魔導士様が先生をやってるんだろ? 夜でも昼間みたいに明るい教室なんだってな」
「うちの近所の子も通い始めて、毎日楽しそうに数字を書いてるよ。本当にありがたい話だねえ」
町民たちの間で、教会の学校の噂は非常に温かい評判となって広がっていた。カロンは胸の奥を温かくしながら、白亜の教会へと足を踏み入れた。
新しく拡張された広々とした教室には、今日も三十人近い子供たちが整然と机に並び、天井の明るい電灯の下で目を輝かせて待っていた。最前列のカイとミミルも、新しく入ってきた子供たちに優しくペンの持ち方を教えている。
「カロン先生、こんばんは!」
子供たちの元気な挨拶に迎えられ、カロンは教壇に立った。
実用的な商業計算や地理の知識をユーモアを交えて教えると、子供たちは歓声を上げながら手を挙げて答えていく。身分の差も貧富の差もなく、全員が平等に知恵を吸収していく空間が、そこには確かに存在していた。
授業が終わると、老神父が歩み寄ってきて、満面の感謝を伝えてくれた。
「カロン先生、町中から子供を通わせたいという相談が後を絶ちません。皆、貴方様のおかげで未来に希望を見出しております」
「子供たちの笑顔が何よりの報酬ですよ、神父様」
カロンは笑顔で子供たちを見送り、夕闇の町を軽やかな足取りでアパートへと戻った。
アパートの一階の食堂に入ると、厨房から威勢のいい包丁の音とともに、女将さんの明るい声が響いた。
「おかえり、カロンさん! さあさあ、座ってちょうだい!」
カウンターに座ると、冷えたエールとともに、湯気を立てる美味しそうな夕食が運ばれてきた。今夜は、柔らかく煮込まれた牛肉と根菜のシチューに、香ばしい焼き立てのパンだった。
「見てよカロンさん、シンクに水道があるおかげで、野菜を洗うのも鍋に水を張るのも今までの何倍も早くなったよ! 本当に魔法みたいに楽だよ、ありがとうね!」
女将さんは料理を配膳しながら、何度も嬉しそうに水道の便利さを語ってくれた。
「喜んでもらえて本当によかった。いただきます」
スプーンでシチューを口に運ぶ。じっくりと煮込まれた牛肉が舌の上でホロホロと解け、濃厚なデミグラスソースのコクが口いっぱいに広がる。冷えたエールを一気に喉へ流し込むと、今日一日の疲れが心地よく溶けていった。
美味な夕食を綺麗に完食し、女将さんたちに礼を言って二階の自室へと戻った。
部屋の鍵を閉め、服を脱ぎ捨てて浴室へと向かう。
扉を開けると、そこには白く立ち込める湯気と、たっぷりと張られた澄んだお湯が待っていた。
湯船にそっと足を入れる。
「――あああぁぁぁ……っ!」
思わず声が漏れた。
熱すぎず、ぬるすぎず、肌を優しく包み込む完璧な四十一・五度。
肩までゆっくりと体を沈めると、ドワーフの分厚い筋肉の芯まで温もりがじんわりと染み渡り、全身の毛穴という毛穴が一気に開いていくようだった。
(これだ……! この温度管理された湯船こそ、我が人生至高の悦楽……!)
前世の中山教授時代、学会の合間に各地の名湯を巡った記憶が鮮やかによみがえる。魔法の火球でビクビクしながら温めていた日々とは完全に決別したのだ。
湯船の縁に頭を預け、目を閉じる。
午前中の子爵邸の電化工事、商会での正当な収入の獲得、午後の給湯器と水道ポンプの発明、食堂の女将さんの歓喜、そして夕方の教会での子供たちの笑顔。
危険な魔物狩りをせずとも、己の知恵と技術で誰かを幸せにし、自分自身もこうして最高の生活を享受できている。
「……極楽、極楽だな」
カロンは至福のため息を漏らし、心ゆくまで温かいお湯を堪能した。
風呂から上がり、清潔な麻の部屋着に身を包んで寝室へと戻る。
ポカポカと温まった体で柔らかなベッドに横たわると、心地よい浮遊感とともに、抗いがたい深い眠気が瞼をそっと閉ざしていった。




