第17章:巨流の基礎工事と駄女神の神託
第17章:巨流の基礎工事と駄女神の神託
東の地平線から朝焼けの光が差し込み、ルーセンの白い城壁を淡い茜色に染め上げていく。
カロン(中山実)は、まだ街が目覚めきらない早朝の静寂の中、北の城門を抜けてライネス川の河原へとやってきていた。
ゴオォォォ……! と重低音を響かせて流れる雄大な大河。
川幅八十メートル、水深四メートル。毎秒数十トンにおよぶ膨大な水量が、白く泡立ちながら勢いよく下流へと流れている。
「さて……父さんたちがガロニアから工兵隊と大型資材を連れて戻ってくるまでに、土台となる基礎構造をあらかじめ組み上げておくとしようか」
カロンは作業着の袖をまくり上げ、河原に立ち、広大な水面を見据えた。
今回建設するのは、ルーセンの全電力需要を賄う「五百キロワット級水力発電プラント」である。
必要な主要構造物は大きく分けて三つ。
取水堰:川の一部を緩やかに堰き止め、安定した水量を水路へ引き込むコンクリート・石積みの堤体。
取水暗渠および圧力水路:泥砂や流木を沈降・分離し、高圧の水流をタービンへ導くヘッドレース。
タービンハウス基礎(発電所建屋土台):巨大なカプラン水車(プロペラ水車)と変速ギヤ、発電機を据え付け、常に数トンの動荷重と水圧に耐え抜く強固なコンクリート・岩盤基礎。
通常の中世の土木技術であれば、数百人の人夫を動員して仮排水路を掘り、何千本もの木杭を打ち込み、数か月がかりで水を抜いてから行う大工事である。
しかし――知力102に達し、全属性魔法と近代水理学・土質力学を完全に融合させたカロンにとって、激流そのものをコントロールすることは決して不可能な力技ではなかった。
「まずは、水の流れを一時的にバイパスさせて、作業エリアを確保する……!」
カロンは川岸の岩場に両膝をつき、右手を水面へと向けた。
頭の中に<水魔法>の紋章を展開する。
(水温十二度、比熱と潜熱の相変態計算……流速を考慮し、局所的にマイナス二十度以下の熱吸収相を連続生成……!)
「――【アイスボール・極低温連続展開(氷結防護壁)】」
ピキキキキキッ……!
カロンの指先から放たれた極小の冷気球が、激流のど真ん中へと着弾した瞬間。
川底から湧き上がるように、厚さ二メートルを超える巨大な「半円形の氷の防壁」が、水流を押し分けるようにして一気に凍結・隆起した。
激流は氷の壁にぶつかって左右へと綺麗に迂回し、防壁の内側にぽっかりと「波の立たない穏やかな作業水域」が生まれた。
「よし! 流れが逸れている間に、基礎を打ち込む!」
カロンはすかさず左手を川底の岩盤へと向けた。
<土魔法>の紋章を展開する。
(川底の沈殿シリカ砂、粘土鉱物、および石灰岩層の成分比率を【解析】……。これに水中不分離性混和剤の要領で分子結合を強化し、強固な水中コンクリート状の岩塊として一気に硬化晶出させる……!)
「――【土魔法・ロックボルト(水中耐圧基礎成形)】!」
ドズズズズズズッ……!!
水底の岩盤が唸りを上げ、まるで生き物のように隆起した。
取水口となる頑丈な二連アーチの導水ゲート、激流の圧力とキャビテーション(壊食)に耐える滑らかな三次元曲面の水流案内ブロック、そして大型水車の主軸をミリ単位の狂いもなく支える「鉄骨アンカー付きのコンクリート調基礎架台」が、水底から次々と姿を現していく!
水圧のかかるバランスを【構造鑑定】でリアルタイムに測定し、歪みが生じそうなポイントには瞬時に炭素鋼棒状の補強芯(鉄筋)を【生成】して打ち込んでいく。
冷却、硬化、成形、応力解放。
一連の高度な土木プロセスが、カロンの頭脳と魔法によって淀みなく組み合わされていった。
正午を告げる鐘の音が、遠くルーセンの街から風に乗って響いてきた。
川面に立ち上っていた水飛沫と冷気がフッと収まる。
カロンは額の汗を拭い、河原の上に立って眼下の光景を見下ろした。
そこには――
わずか半日の作業とは思えない、巨大な取水アーチゲートと、落差五メートルを確保した頑丈なコンクリート調の導水路、そして発電用タービンを設置するための強固な基礎土台が、完璧な三面図通りに美しく鎮座していた。
「ふう……。大まかな土台(基礎フレーム)はこれで完成だな。あとは水車のランナーとシャフトを据え付けて、上部建屋を組めばすぐにでも発電できる」
カロンが達成感に浸りながら息をついていた、その時だった。
「――ひ、ヒヒィィンッ!」
土手を駆け下りてくる馬車の蹄の音が響いた。
やってきたのは、ゲオル商会の紋章を掲げた一台の小型馬車だった。
馬車が停まるや否や、中から深緑のドレスの裾を持ち上げたゲオル会頭が、息を切らせて駆け下りてきた。
「カロン親方様! 差し入れをお持ちしまし……た……っ?!」
ゲオルは言葉の途中でピタリと足を止め、河原に忽然と現れた巨大な石造建築群を見上げて、琥珀色の瞳を限界まで見開いた。
「な……な、なんですの……これは……?! 朝、街を出られたばかりですのに……もう、巨大な川の土台が完成している……?! 人夫も、大工も、資材を運ぶ荷馬車も一台も呼んでおりませんのに……た、たった一人で……?!」
ゲオルは口元を手で覆い、あまりの光景にめまいを覚えたようによろめいた。
カロンは苦笑いを浮かべ、ポリポリと頬を掻いた。
「あ、ええと……ドワーフの伝統的な『急速土木工法』とでも言いますか……」
ゲオルはハッと我に返ると、周囲を素早く見渡した。
幸いなことに、周囲には人影はなく、川のせせらぎが響いているだけだった。
ゲオルはツカツカとカロンの前まで歩み寄ると、膝を折ってカロンの目線に合わせ、小さな耳元へと顔を寄せて囁いた。
「……カロン親方様。あの……『魔法』でお作りになったのですね?」
カロンが小さく頷くと、ゲオルは深く、深く息を吐き出し、胸に手を当てた。
「侯爵閣下への謁見の際、親方様が並外れた鑑定魔法をお使いになることは伺っておりましたが……まさか、これほどの天変地異のような土木魔法まで扱えるとは思いもしませんでしたわ。
……いいですか、親方様。この光景を他の商人や、ましてや帝国の強硬派の貴族に見られたら、どんな騒動になるか分かりません。
明日からこの建設現場一帯は、我がゲオル商会の直属私兵で完全に封鎖し、『厳重な人払い』をしておきますわ。親方様がどれほど無茶苦茶な奇跡を起こされても、誰の目にも触れないようにいたしますので!」
「ありがとうございます、ゲオル会頭。そうしていただけると、作業効率が十倍に跳ね上がります」
カロンが礼を言うと、ゲオルは「まったく、恐ろしいお方ですこと」と呆れ混じりに、しかし心からの信頼を込めて微笑んだのだった。
ゲオルが街へ戻った午後、カロンはさらに作業を進めた。
完成した取水口からタービンハウスへと水を導く「圧力水圧管路」の内部通路を、土魔法と【加工】で滑らかな鏡面仕上げにしていく。管壁の摩擦係数を極限まで減らすことで、水流の圧力損失をゼロに近づける近代水力工学のノウハウだ。
予定していた基礎土木工事があまりにも順調に終わったため、カロンは午後三時過ぎに現場を早めに切り上げた。
「よし、予定通り教会へ行こう」
カロンは作業着の泥を魔法でサッと払い落とし、西の貧民街にある「メリス教教会」へと足を向けた。
礼拝堂の扉を開けると、そこにはすでにトーマス神父と、十数人に増えた子供たちが待っていた。近所の貧しい家庭の子供たちも噂を聞きつけて集まってきたらしい。
「カロン先生!」「待ってたよ!」
「みんな、待たせてごめんね。さあ、昨日の続きを始めようか!」
カロンは黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
今日の講義は、約束していた「歯車の組み合わせによるトルクと回転数の変換」、そして「簡単な滑車とバネを用いた重量測定器の仕組み」だった。
「歯車の歯の数が十個の小さな車と、歯の数が三十個の大きな車を噛み合わせるとね、小さな車が三回転する間に、大きな車は一回転しかしない。その代わり――大きな車からは、三倍の力が生まれるんだ」
カロンが【加工】魔法でサッと削り出した大小の木製歯車の模型を渡し、子供たちに手で回させる。
「うわっ! 本当だ! 大きな歯車を手で止めようとしても、全然止まらない!」
「すげえ! これ、水車の力を強くする時に使えるんじゃない?!」
「その通り! 大正解だよ」
カロンは子供たちの頭を撫でて褒めちぎった。
子供たちの吸収力は凄まじく、前世の大学一年生に力学を教えていた時よりも遥かにスポンジのように知識を吸い上げていく。
夕暮れ時まで、礼拝堂には真剣な眼差しと楽しげな笑い声が満ち溢れていた。
トーマス神父も傍らで熱心にメモを取り、「カロン様、この教えは子供たちだけでなく、大工や鍛冶屋の職人にとっても金鉱のような知恵です」と感涙していた。
夕方、心地よい疲労感を覚えながらアパートへと戻ってきたカロン。
一階の大衆食堂のドアを開けると、香ばしい油とガーリックバターの芳醇な香りが店内いっぱいに広がっていた。
「いらっしゃい、坊や! 今日も勉強かい? 精が出るねぇ!」
威勢のいい看板娘が迎えてくれる。
「こんばんは。今日の『おすすめ料理』は何ですか?」
「今日はね、うちの親父特製の『若鶏のハーブバター包み黄金揚げ(キエフ風チキンカツ)』だよ! 鶏胸肉の中に冷たいガーリックハーブバターをたっぷり包み込んで、きめ細かな衣をつけて高温のラードで一気に揚げた自慢の一品さ!」
「……それを一つお願いします! あと、冷たい炭酸水も!」
「はいよっ!」
数分後。
目の前に運ばれてきたのは、ラグビーボールのようにふっくらと丸く揚げられた、キツネ色の見事な大判カツレツだった。
付け合わせには、みずみずしいクレソンのサラダと、焼き立ての白パンが添えられている。
カロンはナイフを手に取り、サクッと中央に刃を入れた。
――サクゥッ……ジュワァァァァッ!!
刃先が入った瞬間、パリッとした衣の内側から、熱気で完全に溶け出した「黄金色のガーリックハーブバター」が、熱々の肉汁とともに滝のように溢れ出してきた。
(……な、なんという破壊力だ……!)
カロンはフォークで熱々のチキンを一口大に切り、溶け出たバターソースをたっぷりと絡めて口の中へ放り込んだ。
――サクサクッ……ジュワッ……フワァァァァンッ!!
軽快な衣の香ばしさに続き、驚くほど柔らかくジューシーな鶏肉の旨味。そして、濃厚なバターのコクと、パセリ・タラゴンの爽やかなハーブ香、ニンニクのパンチが渾然一体となって味蕾を蹂躙する。
「……ッッ!! 美味すぎる……!!」
カロンは思わず唸り声を上げた。
九歳のドワーフの成長期の肉体にとって、上質な動物性タンパク質と高カロリーな脂質のコンビネーションは、まるで乾いた砂漠に水が染み込むかのように全身の細胞へとダイレクトに吸収されていく。
皿に残った溶かしバターを焼き立ての白パンで一滴残らず拭い取り、冷たい炭酸水で口の中をリセットしながら、カロンは無心でフォークを動かし続けた。
あっという間に大皿はピカピカになり、カロンは幸福感に包まれながら大きく息を吐き出した。
「ごちそうさまでした! 本当に最高でした!」
「お粗末さま! 綺麗に食べてくれて親父も喜んでるよ!」
部屋に戻ったカロンは、魔法で沸かした特製風呂桶の熱い湯に肩まで浸かった。
四十一・五度の極楽の湯が、一日の肉体疲労をじんわりと融解させていく。
(ふう……。ライネス川の基礎工事は終わったし、子供たちの教育も順調だ。美味い飯も食えたし……今日は本当にいい一日だったな……)
湯気の立ち込める中、心地よい脱力感に包まれていたカロンは、いつの間にか湯船の縁に頭を預け、コクリと深い眠りへと落ちていた。
――そして。
「――ちょっと、カロン! お風呂で寝ちゃ危ないでしょ!」
気がつくと、カロンの意識はまたしても「純白の神界空間」へと引きずり込まれていた。
目の前には、腕組みをして仁王立ちするプラチナブロンドの女神・メリス。
「……またあなたですか、メリス様。入浴中にまで夢枕に立つのはやめてください」
カロンが半眼で告げると、メリスは珍しく殊勝な面持ちで両手を胸元に当て、フッと柔らかい笑みを浮かべた。
「ふふっ、今日のは文句じゃないわよ。……あのルーセンの街の私の教会に行ってくれたでしょ? あそこのボロボロだった礼拝堂を魔法でピカピカに直してくれて、子供たちに勉強まで教えてくれたの、神界のモニターからちゃんと見てたわよ。
……ありがとうね、カロン。あなたにあの時、お詫びで知恵と魔法をあげて、本当に良かったわ」
珍しく素直に感謝を述べる女神の姿に、カロンは少し拍子抜けした。
(なんだ……この駄女神も、ちゃんと自分の信徒や子供たちのことは気にかけていたのか)
「礼には及びません。トーマス神父の教育への志に、私自身が深く共感しただけですから」
そこでカロンは、昨日から気になっていた重要な疑問を思い出し、メリスに切り出した。
「ところで、メリス様。一つお伺いしたいことがあります。
あの教会がこれほど貧しく困窮する原因となった、この世界で最大の信者数を誇る『アストル教』という宗教組織……あれが信仰している『アストル神』というのは、神界ではどのような神なのですか?」
カロンは、アストル教が貴族や商人と結託して莫大な富を独占し、メリス教を貶めるために組織的なデマを流布して迫害している現状を、事細かにメリスへと説明した。
話を聞き終えたメリスは――
ポカンと口を開け、あからさまに呆れた顔をして首を横に振った。
「……はあ? 『アストル』? そんな神、神界に一柱も存在しないわよ?」
「え……?」
カロンは目を丸くした。
「トール様と同じよ! アストルなんて神は完全なデタラメ! 昔の強欲な王族か悪徳貴族が、民衆から税金や寄付金を巻き上げて権力を握るためにでっち上げた、ただの『架空の偶像』よ!
そんな偽物の神の名前を騙って、私の可愛い信者たちを虐めて貧乏に追いやってるですって……?! 許せないわ!!」
メリスはプラチナブロンドの髪を逆立て、サファイア色の瞳を怒りに燃え上がらせて叫んだ。
「カロン! 神の正式な神託として命じます!
そんなインチキ詐欺カルト宗教、あなたの材料工学と電気文明の力で……完膚なきまでにぶっ潰しちゃいなさい!!」
「……ぶっ潰す、ですか」
カロンは思わず苦笑いを浮かべた。
「そうよ! 圧倒的な科学技術と経済力を見せつけて、偽物の奇跡なんてメッキを全部剥がしてやりなさい! 私の教会をこの街の一番の権威にしてくれたら、また新しいチートスキルをあげるからね!」
「はいはい、善処しますよ……」
駄女神の過激すぎる怒号が響く中、カロンの意識は再び現実世界へと浮上していった。
「――ハッ?!」
カロンは目を覚ました。
温かい湯船の中、湯気はまだ白く立ち上っていた。
「……ふう。危ない、本当に湯船で溺れるところだった」
カロンは手桶で湯を被って目を覚まし、湯船から上がって体をしっかりと拭いた。
パジャマに着替え、ピカピカに清浄化された寝室のベッドに潜り込む。
(トール様に続いて、アストル神も実在しない架空の存在だったか……)
暗闇の中で天井を見つめながら、カロンは思考を整理した。
この世界の巨大宗教・アストル教は、神の実在しない権力者たちの利権団体に過ぎない。
彼らは神の名を騙って弱者を搾取し、真面目に福祉と教育を行うメリス教のような現場を圧殺しようとしている。
そして――あの漆黒のオーラを纏った秘書・ガストンや、侯爵を毒殺しようとした暗殺者たちの背後にも、そうした腐敗した利権勢力の影がちらついている。
(神託に従うつもりはないが……子供たちの未来のためにも、あの偽りの権威をこの街から排除するのは合理的だな)
ライネス川の水力発電所を完成させ、街に真実の「光」と「動力」をもたらす。
そして、孤児たちに科学と工学の知恵を授け、自らの力で未来を切り拓く力を与える。
それこそが、いかなる迷信や偽りの教威をも打ち砕く、最も強固で確実な武器になるはずだ。
(今夜はもう、あの駄女神も出てこないだろう)
カロンは口元に微かな笑みを浮かべ、心地よい疲労感に身を委ねて目を閉じた。
今度こそ誰にも邪魔されることなく、カロンは朝まで深い、安らかな眠りへと落ちていったのだった。




