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第16章:新生活の拠点と湯浴みの至福

第16章:新生活の拠点と湯浴みの至福


ハインリヒ侯爵邸での謁見と毒殺未遂騒動を無事に切り抜けた一行は、馬車に揺られてゲオル商会総本部の前へと戻ってきた。

青空の下、商会のエントランス前には、すでに長距離移動用の頑丈な幌馬車と補給物資が整然と用意されていた。


「さて、カロン……」

父ガイルが、大槌を背負い直してカロンの前に立った。

その顔には、誇らしさと同時に、九歳の我が子を初めて異郷の地に一人残していく父親としての切ない寂しさが滲んでいた。


「俺たち三人は、これより一旦ガロニアへ戻る。バログ大親方や長老会に侯爵閣下からの正式許可を報告し、発電所の建設に必要な第一陣のドワーフ工兵隊と資材を満載して、一週間以内にここへ取って返してやるからな」


「はい、父さん。道中、くれぐれも気をつけてください」

カロンが真っ直ぐに見上げて頷くと、ガイルは太い両手でカロンの頭をくしゃくしゃと撫で回し、鼻をすすった。


「カロン親方、留守中の安全を祈っておるぞ!」「何かあれば、あの化け物じみた魔法で蹴散らしちまいな!」

ドランド隊長とバルクも白い歯を見せて笑い、力強い握手を交わした。


ゲオル会頭が優雅に一歩前に出て、穏やかな笑みを浮かべる。

「ガイル様、皆様。どうぞご安心くださいませ。我が商会の精鋭護衛をつけた特製馬車で、ガロニアの昇降口まで責任を持ってお送りいたします。そしてカロン親方様には、この街で最も便利で快適な借り上げアパートをご用意しておりますので、ご不自由は決してさせませんわ」


「ゲオル会頭、息子を頼みます! ……じゃあな、カロン! 達者でな!」


ガイルたち三人を乗せた馬車が、乾いた蹄の音を響かせて出発した。

遠ざかる馬車の窓から、ガイルが身を乗り出してちぎれんばかりに手を振り続けている。カロンも小さく息を吸い込み、笑顔で力強く手を振り返した。


「さあ、カロン親方様。あなたの新しいお住まいへご案内いたしますね」


ゲオルに促され、カロンは別の小型馬車へと乗り込んだ。

街の石畳をカタカタと揺られながら進むこと十分ほど。

到着した場所は、街の中心街からわずかに外れた、落ち着いた佇まいを見せる庶民的な住宅街の一角だった。


「ここはですね、西へ歩けばメリス教の教会、東へ行けば我がゲオル商会、そして北の城門を出ればライネス川の発電所建設現場へ向かえるという、ちょうどすべての『中間地点』に位置する場所なのです。親方様の足でも、どこへでも十五分ほどで移動できますわ」


「素晴らしい立地ですね。配慮に感謝します、ゲオル会頭」


馬車の御者から真鍮の鍵を受け取ると、ゲオルは商会の政務へ戻るため、一礼して馬車とともに去っていった。


カロンは一人、建物の前で立ち止まり、周囲を見渡した。


建物は、街でよく見かける三階建ての白灰色の石造り長屋アパートだった。

一階部分には、木製の看板に素朴な魚とビールの絵が描かれた「小さな大衆食堂」が入っており、換気口からはニンニクと香ばしい油の匂いがほんのりと漂っている。


(一階が食堂か。自炊が面倒な時や、現場帰りにサッと食事を済ませるには最高の環境だな)


外階段をトントンと上がり、二階の突き当たりにある「二〇二号室」のドアの前に立つ。

鍵穴に真鍮の鍵を差し込んで回すと、カチリと小気味よい音がして重い木製扉が開いた。


「お邪魔します……というか、今日から我が家か」


足を踏み入れると、室内は一人で暮らすには十分すぎるほどの広さがあった。

手前にダイニングキッチンとなる板張りの部屋、そして奥には寝室として使える窓付きの部屋がもう一つ。合計二部屋の贅沢な間取りである。


部屋の隅の引き戸を開けると、衛生設備があった。

前世の日本の「和式トイレ」に酷似した、床の石板に長細い穴が穿たれた落下流水式の構造で、脇には手押しポンプ式の小さな水タンクが備え付けられている。


(衛生面は最低限クリアされているな。簡単な調理台と、石炭を入れる小さな鋳鉄オーブンもある。……しかし)


カロンは部屋を見回し、顎に手を当てた。


(……やはり、風呂やシャワーの類は一切存在しないか)


中世ヨーロッパ風のこの世界において、「日常的にお湯に浸かる」という入浴文化は存在しない。濡れタオルで体を拭くか、富裕層がたまに蒸気風呂サウナを利用する程度なのだ。

だが、前世で日本人として五十年間生き、毎晩の湯船を至上の癒やしとしていた元教授の中山実にとって、風呂のない生活は精神的なQOL(生活の質)を著しく削るものだった。


「……ないなら、作ればいいだけの話だ」


カロンは不敵な笑みを浮かべ、作業着の袖をまくり上げた。

知力102、そして【合成】【抽出】【加工】を自在に操る現代の魔導エンジニアにとって、自宅のDIYリフォームなど赤子の手をひねるより容易い作業だった。


「まずは……水回りスペースの拡張からだ。――【土魔法・空間成形】」


ズズズ……!

キッチンの奥の壁面を少し削り広げ、防水石板を隙間なく敷き詰めて「特設バスルーム」の小部屋を構築する。床には適切な傾斜をつけ、排水用の細い配管孔を外壁の雨水升へと直結させた。


続いて、鞄から取り出した【無限収納】内の木材と鉄板に手をかざす。

「――【元素魔法・加工】」


シュルルルルッ……!

光の粒子が木材を包み込み、大人の脚をゆったりと伸ばせる深さと広さを持った、極上の「檜風・高密度木製風呂桶」が一瞬で組み上がった。表面には一切の隙間がなく、撥水性の天然樹脂ワニスが分子レベルでコーティングされている。


「よし、次は給水だ」

上水道の配管はない。だが、カロンには魔法がある。


「――【ウォータースプレー・大容量連続励起】」


ジャバババババッッ!!

カロンの手のひらから、勢いよく清らかな水が奔流となって噴き出し、わずか一分足らずで巨大な風呂桶を満水にした。


「そして――温度調節」

水中に指先を浸し、熱力学的な比熱計算を脳内で行う。


「――【ファイヤーボール・水中分散加熱】」


ボッ……ボボボッ!

水中で無数の微細な熱泡が弾け、冷水が一気に温められていく。

【構造鑑定】でリアルタイム監視しながら、日本人の黄金温度である「四十一・五度」に達した瞬間に魔力をカットした。

立ち上る豊かな湯気。完璧な湯加減の「一番風呂」が完成した。


「……本当、魔法って便利すぎるな」

カロンは思わず感嘆の声を漏らした。給湯器の設置工事もボイラーも不要で、数分でいつでも極楽の湯が湧くのだ。


勢いに乗ったカロンは、寝室に頑丈な木製ベッドフレームを【加工】で削り出し、中綿を敷き詰めた弾力のあるマットレスを設置。

最後に、部屋全体に向けて<光魔法>を放った。


「――【ピュリファイ・全域展開】」


パァァァァッ……!

聖なる純白の光が部屋の隅々まで行き渡り、床の埃、壁の煤汚れ、空気中の微細なカビやハウスダストが一瞬にして原子レベルで完全消滅した。


ピカピカに磨き抜かれたフローリング、ふかふかのベッド、そして湯気を立てる専用風呂。

帝国の大貴族の屋敷すら凌駕する、超近代的な快適空間がここに誕生したのだった。


部屋のセットアップを終えたカロンは、午後の一時、身軽な格好で西の貧民街にある「メリス教教会」へと足を運んだ。


通りを抜け、教会の木製扉を開けると――

昨日カロンが魔法でフルリフォームした礼拝堂は、日光を浴びて白く美しく輝いていた。

中央の長椅子には、すでに七〜八人の孤児たちとトーマス神父が集まり、真新しい石板を前にしてカロンの到着を待ちわびていた。


「あ! カロン先生が来た!」

「先生、こんにちは!」


子供たちが一斉に笑顔で駆け寄ってくる。

トーマス神父も立ち上がり、深々と頭を下げた。


「カロン様、ようこそおいでくださいました。子供たちも、昨日の続きを学べるのを朝からずっと楽しみにしておりましたよ」


「こんにちは、みんな。今日も楽しく学ぼうか」


カロンは教壇の前に立ち、黒板代わりに仕立てた滑らかな石板にチョークを走らせた。

今日のテーマは、昨日の算術の基礎を発展させた「比例と天秤の力学(テコの原理)」、そして「滑車プーリーを用いた重量物の運搬理論」だった。


「いいかい、みんな。ここに重さ十キロの大きな石があるとする。力づくで持ち上げようとすると腰を痛めてしまうけれど……この長い木の棒と小さな支点を使うと、どうなると思う?」


カロンはコミカルなイラストを描きながら、テコの原理を直感的に説明していく。

さらに、荷物を半分以下の力で持ち上げられる「動滑車」の仕組みを、小さな木製の模型を作って子供たちに実際に触らせて体験させた。


「うわっ! 本当だ! 指一本で重い石が持ち上がった!」

「すげえ! これなら僕でも、港の重い荷物を運ぶ仕事ができるよ!」


子供たちの目が爛々と知的好奇心に輝く。

ただ呪文のように公式を暗記させるのではなく、「なぜそうなるのか」「実生活のどこで役に立つのか」を徹底的に体験させるカロンの授業スタイルは、かつて大学の工学部で学生たちを惹きつけてやまなかった名講義そのものだった。


夕暮れの鐘がゴオォンと鳴り響くまで、礼拝堂には子供たちの笑い声と歓声が絶え間なく響き渡っていた。


「カロン先生、明日も来てくれる?」

「ああ、もちろんさ。明日は『歯車』の組み合わせで回転の力を変える魔法のような仕掛けを教えてあげるよ」


子供たちとハイタッチを交わし、感謝感激のトーマス神父に見送られて、カロンは夕闇が迫る街の路地を心地よい充実感とともに歩いて帰路についた。


アパートの前に戻ってきた頃には、街の街路灯にポツポツと明かりが灯り始めていた。

建物のエントランスをくぐろうとしたカロンの鼻腔を、一階の食堂から漂う「香ばしい揚げ油とビネガーの匂い」が猛烈に刺激した。


グウゥゥ……と、お腹が可愛らしい音を立てて鳴る。


(そういえば、昼からずっと動きっぱなしで何も食べていなかったな……。よし、今夜の夕食はここの食堂で試してみるか)


カロンは食堂の木製のスイングドアを押し開けて中に入った。


店内は、仕事を終えた近所の職人や商人たちで賑わっていた。

カウンターの奥では、恰幅の良い店主が大きな鉄鍋でジュワジュワと何かを揚げており、元気のいい若い看板娘が料理を運んでいる。


「いらっしゃい! おや、二階に新しく越してきたドワーフの坊やかい? 空いてるカウンター席へどうぞ!」


看板娘に案内され、カロンは高めのスツールに腰掛けた。

手元の黒板メニューに目を走らせると、一番上に『本日のおすすめ:ライネス川獲れ白身魚とじゃが芋の黄金揚げセット』と書かれていた。


(……これは、前世で言うところの『フィッシュ・アンド・チップス』だな!)


「すみません、この白身魚と芋の揚げ物セットをお願いします。それと、冷たい炭酸水ソーダを一杯」


「はいよ! 魚と芋の一丁ね!」


数分後。

カウンター越しに、揚げたての湯気をモクモクと立てる大皿がドカンと差し出された。


大皿の上には、大人の手のひらほどもある巨大な白身魚のフリッターが二枚、キツネ色にカラッと揚がったフライドポテトが山盛りに添えられていた。

小皿には、刻んだピクルスと地底ハーブを練り込んだ自家製タルタルソース、そして半分に切った新鮮なレモンが添えられている。


(……素晴らしいビジュアルだ)


カロンはレモンをキュッと絞り、フォークとナイフで白身魚のフリッターをサクッと切り分けた。

タルタルソースをたっぷりと絡めて、口の中へ放り込む。


――サクゥッ……フワッ……ジュワァァッ!!


信じられないほど軽快な衣のクリスピーな食感の直後、中からライネス川の清流で育った川カマス(白身魚)の、驚くほどみずみずしく柔らかな身がフワリとほどけた。

川魚特有の泥臭さは一切なく、上質な白身の甘みと、レモンの爽やかな酸味、濃厚なタルタルのコクが渾然一体となって舌の上で爆発する。


「……ッ!! 美味い!!」


カロンは思わず目を丸くして唸った。

添えられたフライドポテトも、母フラウの作ってくれたものとはまた異なり、外側がカリッカリ、中はトロリとした絶妙な二度揚げが施されており、岩塩の塩気がたまらない。


シュワシュワと喉を刺激する冷たい炭酸水で油分を流し込みながら、カロンは無心でフォークを動かし続けた。

あっという間に山盛りの大皿が空っぽになり、胃袋の底からじんわりとした幸福感が広がっていく。


「ふう……ごちそうさまでした。信じられないほど美味しかったです!」

「お粗末さま! 綺麗に平らげてくれて嬉しいねぇ、坊や!」


代金の銀貨を支払い、カロンは満腹の腹をさすりながら大満足で食堂を後にした。


階段を上がり、二階の自室へと戻る。

鍵を閉め、服を脱ぎ捨ててバスルームの扉を開けると――そこには、昼間に魔法で仕込んでおいた木製風呂桶から、白く柔らかな湯気が立ち込めていた。


(冷めていないな。魔法で保温術式を軽く編み込んでおいたのが正解だった)


カロンは桶の湯を手桶で汲み、手足を綺麗に洗い流してから、ゆっくりと湯船の中へと足を踏み入れた。


ドボン……。


「――――あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛……っっ」


九歳のドワーフの少年の口から、前世の五十代の老教授そのものの、魂が抜けたような深い濁音の吐息が漏れ出た。


四十一・五度の熱い湯が、つま先からふくらはぎ、太もも、そして肩口までを一気に包み込む。

街道の行軍、オークとの実戦、侯爵邸での暗殺阻止、そして子供たちへの講義――知らず知らずのうちに張っていた神経の緊張と、肉体の疲労物質が、温かな水圧によって急速に融解し、毛穴から溶け出していくような圧倒的な快楽。


(……生き返る。これだ……この感覚こそが、人間の……いや、知性ある生物の至高の幸福だ……)


湯煙をぼんやりと見上げながら、カロンは前世のささやかな日常を思い出していた。


五十代の中山実教授は、知る人ぞ知る筋金入りの「温泉マニア」だった。

学会や研究で疲れると、週末に一人で愛車を走らせ、観光地化されていない山奥のマイナーな日帰り秘湯や、古びた湯治場を巡るのが何よりの息抜きだった。

硫黄の匂い、ぬるめの炭酸泉、熱々の塩化物泉。湯船に浸かりながら、誰もいない露天風呂でぼんやりと材料工学の論文のプロットを練っていた、あの静かで穏やかな時間。


(元の世界にはもう二度と戻れない。家族にも、大学にも二度と会えない……。だが、私は今、この異世界で確かに新しい人生を歩んでいる)


不器用だが深い愛情で送り出してくれた父ガイル。

美味しい料理を作って待っていてくれる母フラウ。

カロンの知恵を信じ、共に立ち上がってくれたガロニアの職人たち。

そして、今日出会った、未来を夢見て目を輝かせる孤児の子供たちと、高潔なるハインリヒ侯爵やゲオル会頭。


(私の知識と魔法は、この世界をより良く、より暖かく変えるためにある。

まずはライネス川の発電所を完璧に完成させ、この街に光と動力を灯す。そして……いずれはガロニアとルーセンを繋ぐ鉄道を敷き、いつかこの街にも、誰もが気軽に足を伸ばせる巨大な『大衆温泉施設クアハウス』を建設してやるのも悪くないな)


湯船の中で、カロンは小さく笑った。


身体の芯までポカポカと温まった後、湯から上がって柔らかな麻のタオルで体を拭き、新調したパジャマに袖を通す。

ピカピカに清浄化された寝室のベッドに潜り込むと、清潔なシーツの香りと適度な弾力が全身を優しく包み込んだ。


窓の外からは、ルーセンの街の静かな夜風の音が子守唄のように微かに響いている。


明日から始まる、大規模発電所建設の測量と設計の日々へ向けて――

カロンは満ち足りた安らぎの中で、静かに深い眠りへと落ちていったのだった。

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