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第15章:侯爵邸の謁見と黒きスープの陰謀

第15章:侯爵邸の謁見と黒きスープの陰謀


爽やかな朝の陽光が、ルーセンの白石の街並みを照らし出していた。

宿の食堂で朝食を終えたカロン(中山実)、父ガイル、警備隊長のドランド、バルクの四人が玄関先に出ると、ちょうど石畳の通りに一台の立派な馬車が滑り込んできた。


ゲオル商会の黄金のエンブレムが刻まれた、二頭立ての豪奢な黒塗り馬車。

車内から優雅に降り立ったのは、仕立ての良い深緑の正装ドレスを纏った会頭、ゲオル・ルーセンだった。


「皆様、おはようございます。昨日はゆっくりとお休みになれましたでしょうか?」

「ええ、ゲオル会頭。おかげさまで街の様子もよくわかりました」


カロンが挨拶を返しながら、ふと視線を御者台へと向けた瞬間――

彼の背筋に、チクリと冷たい針が刺さるような悪寒が走った。


御者台で手綱を握っていたのは、会頭秘書のガストンだった。

いつものように銀縁眼鏡をかけ、完璧なポーカーフェイスで控えているが、カロンが瞬時に発動させた【アナライズダーク】の視界の中では、その姿が異様な変貌を遂げていた。


(……っ?! なんだこれは……一昨日よりも、闇の濃度が遥かに増している……!)


ガストンの全身を覆うドロドロとした黒いオーラは、もはや湯気のように立ち上り、周囲の光すら貪り喰らうかのような濃密な「漆黒の汚泥」と化していた。

単なる強欲や悪巧みではない。今日、この瞬間に向けて「決定的な凶行」を完遂させようとする、殺意と狂気すら混ざり合った破滅的な闇の輝きだった。


(この男……今日、侯爵邸で何かを取り返しのつかない形で仕掛ける気だな……)


カロンは表情を一切崩さず、内心で警戒のギアを最高段階へと引き上げた。


「さあ、カロン親方様、皆様。侯爵閣下がお待ちです。参りましょう」


ゲオルの案内に促され、四人は馬車へと乗り込んだ。

ガストンが鞭を振るうと、馬車は滑らかに車輪を軋ませ、街の中央にそびえる丘の上の城館を目指して緩やかな坂道を登り始めた。


車窓からは、ルーセンの美しい瓦屋根のパノラマと、その外側を雄大に流れるライネス川が眼下に広がっていく。

やがて、坂を登りきった高台に、威風堂々たる白亜の巨城――『ハインリヒ侯爵邸』の巨大な鉄格子門が姿を現した。


完全武装した四名の帝国重装歩兵が槍を交差させて馬車を制止する。

御者台からガストンが素早く飛び降り、慇懃な態度で懐から紋章入りの通行許可書を差し出した。


「ゲオル商会会頭、ならびにガロニア使節団の皆様をお連れいたしました」


兵士が書類を確認し、門の奥へと合図を送ると、重々しい金属音とともに鉄門が開かれた。

手入れの行き届いた見事な噴水庭園を抜け、馬車は豪奢な列柱が並ぶ屋敷の正面玄関前へと静かに停車したのだった。


馬車を降りた一行は、ゲオルとともに屋敷の重厚なエントランスへと迎え入れられた。

天井には豪奢なシャンデリアが輝き、磨き抜かれた大理石の床には深紅の絨毯が敷き詰められている。


すぐに初老の落ち着いた執事が現れ、深々と頭を下げた。

「ゲオル会頭、ならびにガロニアの使節団の皆様。閣下がお待ちでございます。こちらへどうぞ」


案内されたのは、大きなガラス窓から庭園が一望できる、重厚な本棚と革張りの調度が並ぶ「領主謁見室」だった。

部屋に入って数分と経たないうちに、奥の私室の扉が開き、一人の男性が静かに姿を現した。


「――ようこそおいでくださった、ガロニアの誇り高き職人たちよ」


入室してきたのは、五十代半ばと思われる風格ある貴族だった。

豊かに蓄えた口髭には白いものが混じり、仕立ての良い濃紺の軍服風ローブを凛々しく着こなしている。温和でありながら、数千の兵と広大な領地を統べる領主特有の底知れぬ眼光と威厳を湛えていた。


彼こそが、ルーセン一帯を治める帝国貴族――ハインリヒ侯爵だった。


「「「侯爵閣下にご挨拶申し上げます」」」

カロンたちドワーフ四人とゲオルは、一斉に胸元に手を当てて礼儀正しく一礼した。


「楽にされよ。我がルーセンの繁栄は、ガロニアの鍛冶師たちが供給してくれる良質な鉄鋼製品に支えられておる。旧知の友を迎えるようなものだ」

侯爵は気さくに笑い、上座の豪奢な肘掛け椅子へと腰を下ろした。


ゲオルが一歩前に進み出ると、羊皮紙の分厚い束を執事を通じて侯爵へと差し出した。


「閣下。本日参上いたしましたのは、我が商会とガロニア工房親方会との間で仮調印を済ませました『ライネス川水力発電所および都市電化事業』の正式な許可をいただくためでございます。

ライネス川の北岸の敷地に水力発電プラントを建設し、市街地へ電線を張り巡らせて『電気』を供給することで、夜間の街路照明、各工房の動力、そして民生用家電の普及を実現し、ルーセンを帝国随一の先進都市へと押し上げる計画でございます」


ハインリヒ侯爵は、手元の計画書とカロンが引いた発電プラントの配置図にじっくりと目を通した。


「……ふむ。地底川で実用化されたという『天雷の力』か。夜間警備の負担を劇的に減らし、冬場の換気や貯蔵を改善する……領民の福祉と経済にとって、まさに夢のような提案だな。

それに、カロン親方が提示したこの『平和利用の厳守』と『厳格な保守規約』……素晴らしい。技術の危険性を誰よりも理解しておられる。――よかろう!」


侯爵はペンを取り、許可証に力強く自筆のサインと領主印を押印した。


「ルーセン領主ハインリヒ・フォン・ルーセンの名において、ライネス川河川敷の利用、ならびに市街地への送電網の敷設を全面的に許可する!」


「ありがとうございます、侯爵閣下!」

ゲオルが歓喜に顔を輝かせ、カロンも深く一礼した。


その間、カロンは密かに【アナライズダーク】を発動させ、目の前の領主を観察していた。


(……ハインリヒ侯爵のオーラは、ごく薄い灰色の影……領主としての政治的計算や冷徹な判断の痕跡がある程度で、根底は透き通るような白と温かい金色だ。私利私欲で他種族を虐げるような悪意は微塵もない。やはり、父さんが言っていた通りの信頼に足る『本物の温和派』だ)


しかし――

カロンの視線が、部屋の壁際に控えていた使用人たちへと滑った瞬間、彼の全身の毛穴がキュッと収縮した。


(……なっ?!!)


部屋の隅、給仕台の横で銀のトレイを持って控えていた一人の若い人間のメイド。

そのメイドの全身が――先ほどのガストンと瓜二つの、「ドス黒く濁った完全なる漆黒の闇」にベッタリと染まり切っていたのだ。


うつむき加減に整った顔立ちを伏せているが、その指先は微かに震え、瞳の奥には狂信的な決意の光が爛々と燃え盛っていた。


(あのメイド……! ガストンの共謀者か?! 一体、何を企んでいる……?)


「さて、堅苦しい政務の話はここまでとしよう!」

ハインリヒ侯爵がポンと手を叩いた。


「遠路はるばる山を越えてやってきてくれたガロニアの技師たちを、手ぶらで帰すわけにはいかんからな。これより、我が屋敷の料理長が腕を振るった昼食会を始めようではないか!」


侯爵の合図とともに、部屋の中央の長テーブルに純白のクロスが敷かれ、銀の食器が並べられていった。

謁見室がそのまま、贅沢なプライベート・ダイニングへと早変わりする。


重厚なワゴンに乗せられて、湯気を立てる大鍋と焼きたてのパン、色鮮やかな料理が次々と運ばれてくる。

そして――

先ほどカロンが目を光らせていた「真っ黒なメイド」が、銀のお玉を手に取り、侯爵の席の前に置かれた金縁の陶器のスープ皿へと、じっくり煮込まれた琥珀色のコンソメスープを静かに注ぎ入れた。


「閣下、本日の前菜でございます。厳選された地鶏と香味野菜の澄ましスープでございます」


メイドが恭しく一礼し、銀のトレイを胸元に抱えて後退する。

ハインリヒ侯爵は上機嫌でスプーンを手に取り、テーブルを囲む全員を見渡した。


「さあ、皆の者。我がルーセンとガロニアの末長い友誼を祝して――」


「――お待ちください!!」


鋭く、凛とした少年の声が、静まり返った広間にピシャリと響き渡った。


スプーンを口に運ぼうとしていた侯爵の手が止まった。

ゲオル会頭も、父ガイルやドランドたちも、一斉に目を見開いてカロンを凝視する。


「カ、カロン親方……? 一体どうされたのですか?」

ゲオルが困惑した声を上げる。


カロンは椅子から静かに立ち上がり、上座のハインリヒ侯爵へと真っ直ぐに向き直った。


「侯爵閣下。大変な無礼をお許しください。……ですが、そのスープに口をつける前に、一つだけ確認させていただきたい儀礼がございます」


「……儀礼、とな?」

侯爵が眉をひそめる。


カロンは視線を冷徹に滑らせ、背後に控えていた「真っ黒なメイド」をピシッと指差した。


「そのスープを配膳されたメイドの方。……閣下の安全を証明するため、あなたが今注いだそのスープを、毒見として一口、ここで飲み干して見せていただけますか?」


「「「――――ッ?!!」」」


室内の空気が一瞬で凍りついた。

ガイルとドランドが即座に腰の武器の柄に手をかけ、執事が息を呑む。


指差されたメイドは、一瞬にして顔面を紙のように真っ白にした。

「な……何を仰るのですか、ドワーフの子供風情が……! わ、私は侯爵家に長年仕える身です! 主人の食事を毒見と称して口にするなど、無礼千万な真似ができるはずが――」


「毒が入っていないのであれば、一口飲むだけで済む話です」

カロンの声は氷のように冷たかった。

「なぜ、そこまで頑なに拒否されるのですか?」


「ひっ……! い、嫌です! 絶対に飲みません!!」

メイドは金切声を上げ、銀のトレイを取り落として後ずさった。


そのあからさまな動揺と狂乱に、ハインリヒ侯爵の温和な顔から一切の笑みが消え失せた。

百戦錬磨の領主の瞳が、刃のように鋭く細められる。


「……セバスチャン」

「はっ」


老執事が即座に懐から、変色反応を示す特殊な銀の針を取り出し、侯爵のスープ皿の底へと静かに浸した。


次の瞬間――


ジュウウウッ……!


澄み切っていた琥珀色のスープが、触れた銀針の周囲からドス黒い紫色へと急速に変色し、微かな刺激臭を放ち始めたのだ。


「……『紫斑トリカブトの濃縮抽出液』。微量で心臓を麻痺させる猛毒でございます」

執事が冷徹に告げた。


「な……ッ?!」

ゲオル会頭が悲鳴を上げて口を押さえた。


「衛兵ッ!! その女を取り押さえろ!!」

侯爵の雷鳴のような怒号が轟き、扉を蹴破って突入してきた四名の重装兵が、逃げようとしたメイドを床へとねじ伏せ、一瞬で拘束した。


「連れて行け! 地下牢で背後関係を徹底的に吐かせろ!」


喚き散らしながら引きずられていく暗殺者のメイドを見送り、謁見室には重苦しい沈黙が残された。

机の上の毒スープは片付けられ、護衛の兵士たちも一旦部屋の外へと退去させられた。


ハインリヒ侯爵は深く息を吐き出し、額の脂汗を拭うと、カロンの前に歩み寄り、深々と腰を折って頭を下げた。


「……カロン親方。そなたの機転がなければ、私は今頃冷たい骸となっていた。我が命を救ってくれたこと、心より……心より感謝申し上げる」


「もったいないお言葉です、侯爵閣下。ご無事で何よりでした」


カロンが礼を返すと、侯爵は真剣な眼差しでカロンの瞳を覗き込んできた。


「しかし……親方よ。率直に聞かせてほしい。

そなたは一体、なぜあのメイドが毒を盛ったと見抜けたのだ? 毒物は無色無臭、運ばれてきたばかりのスープの変色もなかった。席から十メートルも離れたそなたが、なぜ確信を持って毒見を要求できたのだ?」


その問いに、隣にいたゲオル会頭も、父ガイルたちも息を呑んでカロンを見つめた。


カロンは周囲を見渡した。

室内に残っているのは、ハインリヒ侯爵、ゲオル会頭、父ガイル、ドランド、バルクの五名のみ。

(……あの漆黒の秘書・ガストンは、馬車を停めた後、外の待機所に残っている。ここにはいない)


「侯爵閣下。ここにおられる皆様以外には、決して口外しないと誓っていただけますか?」


「ああ、約束しよう。神と我が名誉にかけて、他言は決してせぬ」

侯爵が厳かに胸を叩いた。


カロンは静かに頷き、左手を前にかざした。


「――【構造鑑定】ならびに【アナライズダーク】」


カロンの指先から、淡い紫と白金が混ざり合った神秘的なマナの光がフワリと立ち上った。


「私は……人や物質が放つ『霊的な波長と悪意の影』を視覚化して鑑定する特殊な魔法を扱うことができます。

先ほどのメイドは、全身が他者への強い殺意と悪意による漆黒の闇に染まっていました。さらに、配膳されたスープの分子構造を鑑定したところ、鶏肉のタンパク質とは異なる毒性アルカロイドの結晶格子を検出したのです」


「な……ッ?!」

ハインリヒ侯爵が絶句した。

「ど、ドワーフ族が……これほど高度で精密な、古代の大魔導士ですら扱えぬような精神鑑定と構造魔法を操るというのか……?!」


「はい。……信じられないかもしれませんが、私は数か月前、鉱山の落盤事故で昏睡していた間に、大地の祖神トール様より直々にこの知恵と魔法の才を授かりました」


カロンは臆することなく、真っ直ぐに侯爵の目を見つめて告げた。

【アナライズダーク】で見透かした通り、ハインリヒ侯爵は私利私欲のない高潔な人格者である。この男にならば、自らの異能の「看板(トールの神託)」を明かしても、悪用されたり裏切られる心配はないと確信していたからだ。


「トール様の……神託……!」

ハインリヒ侯爵は震える手で自らの顎を撫で、深々と感嘆のため息を漏らした。


「なるほど……。神話の時代の鍛冶神が、愛するドワーフの少年を選び、知恵の器とされたわけか。……合点がいった。そなたが作り出すあの驚異の機械も、この神がかり的な鑑定眼も、すべて神の恩寵であるならば納得がいく」


侯爵は再びカロンの手を固く握りしめた。

「カロン親方、安心するがよい。そなたのこの異能のことは、私の胸の内に永久に秘匿しよう。そなたを危険な権力争いの標的にさせるわけにはいかんからな」


「感謝いたします、閣下」


危難を脱し、緊迫した空気が和らいだところで、ハインリヒ侯爵はフッと笑みを漏らし、少し悪戯っぽい表情でカロンに人差し指を突きつけた。


「命の恩人に対して少々図々しい頼みかもしれんが……カロン親方、一つだけ約束してほしいことがある」


「何でしょうか?」


「ライネス川の水力発電所が完成し、送電が始まった暁にはじゃな……」

侯爵は身を乗り出し、熱のこもった声で釘を刺した。


「ガロニアで造られたあの素晴らしい『冷たい箱(冷蔵庫)』と『魔法の洗濯樽(洗濯機)』、そして屋敷中を照らす『電球』の第一号納品分は……他のいかなる大貴族よりも優先して、この我がハインリヒ侯爵邸へと真っ先に納めること! これだけは絶対に譲らんぞ!」


「ふふっ……! 閣下、商会の頭越しに抜け駆けはいけませんわ」

横からゲオル会頭が思わず吹き出し、室内にドッと温かい笑い声が広がった。


「承知いたしました、閣下。最優先で特級品の家電一式をお納めすることを、技術責任者として保証いたします」


カロンが快諾すると、侯爵は満足そうに豪快に笑い声を上げた。


こうして、暗殺未遂という絶体絶命の危機を乗り越え、ハインリヒ侯爵との歴史的な謁見は、揺るぎない信頼と強固な同盟関係を結んで幕を閉じたのだった。


しかし――

屋敷の玄関を出て馬車へと戻る道すがら、カロンの視線は冷徹に前方の御者台を見据えていた。


御者台で何事もなかったかのように手綱を握る、漆黒の秘書・ガストン。

メイドの暗殺計画が失敗したことを知りながら、依然として冷たい仮面を被り続けているその背中に向けて、カロンは静かに思考を研ぎ澄ませていた。


(暗殺の失敗は、奴らにとって想定内か、あるいは次の一手への布石か……。

ゲオル会頭、そしてこの街の平和を守るためにも、近いうちにこの膿を完全に摘出しなければならないな)


青空の下、馬車は再び石畳の坂道を下り始めた。

水力発電所の建設という大事業の裏で蠢く、帝国の暗部との見えない戦いが、静かにその幕を開けようとしていた。

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