さまに生えた都市
3:逆さまに生えた都市
足元から音がした。
地面がひび割れる。
ケイルはミラを後ろへ引いた。
その直後、二人の間を赤い光の線が走り、石の地面を真っ二つに切り裂いた。
爆発は起こらなかった。
土煙も上がらない。
ただ、暗闇だけが開いた。
あまりにも深い。
逆さまになった建物から降り注ぐ青い光さえ、その底には届かない。
その裂け目の中で、一つの赤い目がゆっくりと開いた。
向こう側の門にあった目ほど大きくはない。
だが、その目がこちらを見上げた瞬間、ケイルには暗闇の中で何千もの心臓が一斉に鼓動しているのが聞こえた。
一匹の生物ではない。
都市そのものだった。
「下を見ないで」
ミラが言った。
声は落ち着いている。
けれど、心臓の鼓動は彼女の動揺を隠せていなかった。
速い。
激しい。
一つ一つの鼓動の間隔は、三分の一秒にも満たない。
ケイルは裂け目から目を離さなかった。
「ここを知ってるんだな」
「……少しだけ」
「来たことがある?」
ミラは答えなかった。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
頭上では、黒い雲の間に浮かんでいた道路が動き始めた。
建物が空から地面へ向かって逆さまに生えている。
窓には淡い青い光が灯っていた。
いくつかの部屋には、まだ家具が残っている。
食卓。
椅子。
球形の照明。
すべてが天井に固定されたままだ。
まるで重力だけが反転し、それでも人々の暮らしだけは続こうとしているようだった。
遠くでは、一台の列車が空中を滑っていた。
線路は雲の下に伸び、先頭車両は地面に向かって逆さまになっている。
暗い窓の向こうには、人影が立ったまま動かない。
そのとき、ケイルには爪でガラスを引っ掻く音が聞こえた。
一人じゃない。
大勢いる。
「光のほうには行かないで」
ミラが言った。
「街があなたに気づく前に、隠れられる場所を探さないと」
「街が俺に気づく?」
「ここでは、何もかもが聞いてる」
ケイルはミラを見た。
「俺みたいに?」
「違う」
ミラは顔をそらした。
「あなたを創ったものと同じ」
その言葉が消えるより早く、逆さまの建物の中から囁き声が響き始めた。
「ケイル」
「ケイル」
「ケイル」
何百もの声が、彼の名前を呼んでいる。
老人。
子供。
男。
女。
中には、すでに死んだ人間の喉から出ているような、ひどく掠れた声もあった。
そして、その中に一つだけ、ケイルがよく知っている声が混じっていた。
幼い頃の自分の声。
「奴らに連れ戻されるな」
ケイルはこめかみに手を当てた。
音が一気に押し寄せてくる。
石が震える音。
壁の中を流れる光。
都市の下で何かが爪を立てている音。
すべてが同時に聞こえる。
距離というものが消えていく。
近いも遠いもない。
ミラがケイルの左手首を掴んだ。
「私を見て」
ケイルには彼女の声が届かなかった。
別の音が聞こえたからだ。
すぐ後ろから聞こえる呼吸。
誰かが霧の中に立っている。
ケイルは勢いよく振り返った。
霧の向こうから、四メートルを超える巨大な生物が姿を現した。
全身を黒い装甲の破片が覆っている。
関節部分には赤い光が走っていた。
顔は完全に覆われている。
口があるはずの場所には、横一文字の隙間しかない。
手には長い槍。
その穂先には、あの門の石柱と同じ金属片が埋め込まれていた。
ミラが一歩後ろへ下がる。
「追跡者……」
生物は首を傾けた。
「対象を確認。刻印は健在」
機械的な声だった。
ケイルには、その胸の中で機械が動いている音が聞こえた。
だが、それだけじゃない。
金属の奥には、別の音があった。
本物の心臓。
ゆっくりと鼓動している。
疲れている。
そして、怯えている。
「お前は何者だ?」
ケイルが尋ねる。
「お前を連れ戻す者だ」
次の瞬間、追跡者が突っ込んできた。
「ミラ!」
ケイルはミラを横へ突き飛ばし、自分も身体をひねって槍をかわした。
槍先が肩をかすめる。
外套が裂け、皮膚に冷たい感触が走った。
追跡者が身体をひねる。
その前に、ケイルには右脚の筋肉が動く音が聞こえていた。
ケイルは身を低くし、膝の関節を殴りつける。
鈍い音が響いた。
追跡者はよろめいた。
だが、倒れない。
ミラはすぐに腰から短剣を抜いた。
そして首元の装甲の隙間に突き刺す。
刃は金属を貫いた。
しかし、金属がぶつかる音はしなかった。
短剣はそのまま内部の闇へ吸い込まれていく。
「なっ……」
追跡者が腕を振った。
ミラの身体が宙に浮く。
そのまま逆さまの建物の壁へ激突した。
ケイルには、彼女の肋骨が折れる音が聞こえた。
怒りが思考より先に湧き上がった。
ケイルは追跡者へ突っ込んだ。
胸の装甲を掴み、全身の力を使って地面へ引き倒す。
二つの身体が石の上に叩きつけられた。
追跡者の手から槍が弾き飛ばされる。
槍は地面を滑り、そのまま裂け目へ落ちていった。
次の瞬間。
裂け目の底から、何千もの赤い目が一斉に開いた。
追跡者はケイルを見なくなった。
ただ、裂け目を見下ろしている。
ほんの一瞬。
ケイルは装甲の内側から聞こえる小さな声を聞いた。
「……頼む」
ケイルの動きが止まった。
追跡者は彼を突き飛ばし、霧の中へ後退する。
「街の言うことを信じるな」
低い声が響いた。
「だが、一緒にいる奴も信じるな」
「待て!」
ケイルが叫ぶ。
だが、追跡者は霧の中へ消えた。
ミラが立ち上がった。
片手で脇腹を押さえている。
「ケイル、あいつの言葉を信じないで!」
追跡者が消えた霧の向こうから、声だけが返ってきた。
「前にも、お前は彼女を救うために死んだ」
ケイルはミラを見る。
ミラは何も言わない。
否定もしなかった。
その沈黙が、ケイルの中で何かを崩した。
また、あの光景が浮かぶ。
暗い廊下。
少年だった自分の肩に置かれた巨大な手。
ガラスの向こうに立つミラ。
その隣にいるセラン。
そして、閉じていく扉。
幼い自分が、声が枯れるまで泣いている。
ケイルはミラを睨んだ。
「……俺に何をした?」
ミラが一歩近づく。
「私じゃない」
「俺がここに来たことを知ってたんだな」
「……ええ」
「俺が死んだことも?」
「ええ」
「じゃあ、どうして何も言わなかった?」
ミラはしばらくケイルを見つめていた。
逆さまの都市を照らす青い光が、彼女の顔を冷たく浮かび上がらせている。
左右で色の違う瞳が、いつもより冷たく見えた。
「前に真実を話したとき、あなたは自分から記憶消去装置に入ったから」
ケイルは黙っていた。
「あなたは十歳だった」
ミラは静かに続ける。
「彼らがあなたの名前を呼ぶのを聞いた。そこへ行けば、みんなが助かると思ったの」
「私はあなたを止めようとした。でも、間に合わなかった」
「セランは?」
「彼があなたを連れ戻した」
「じゃあ、あんたは?」
ミラは短剣を握り直した。
「私はあなたを装置から引きずり出した」
その瞬間。
都市全体から、乾いた音が響いた。
コツン。
建物が一斉に震え始める。
列車の中にいた人影が、同時にケイルへ顔を向けた。
すべての窓から、赤い目が開いていく。
ミラが小さな声で言った。
「でも……全部を一緒に連れ出すことはできなかった」
ケイルの左手首にある傷跡が光った。
青い亀裂が傷跡から伸び、腕を這い上がる。
そして胸の中央で止まった。
ケイルは感じた。
自分の身体の中で、別の心臓が鼓動している。
ゆっくりと。
強く。
自分のものではない。
裂け目の底から、あの声が響いた。
「お前の残りの部分が目覚めた」
足元の地面が崩れる。
青い光でできた手が何本も地面から這い出し、ケイルの足首を掴んだ。
ミラが短剣を振る。
一つの手が切り落とされた。
だが、その直後には二つの手が新しく生えてくる。
「くそっ……!」
ケイルは都市を見上げた。
すべての建物が、こちらを向いている。
まるで都市そのものが彼を見つめているようだった。
そして、ケイルは理解した。
ここは廃墟じゃない。
巨大な一つの身体なんだ。
あの門が自分をここへ連れ戻したのも、ここを探索させるためじゃない。
奪われたものを取り戻すためだ。
「ケイル!」
ミラが叫ぶ。
彼にはすべてが聞こえていた。
ミラが駆け寄ってくる足音。
砕ける光の脈管。
霧の中から戻ってくる追跡者の足音。
三方向。
三つの危険。
逃げ道はもうない。
ケイルは空を見上げた。
そこには無数の赤い目が浮かんでいる。
そして、本能に従って動いた。
左手を石の地面につける。
弧を描いた傷跡が、まるで目のように開いた。
その瞬間。
都市全体が静まり返った。
ケイルは自分の胸の奥から声が響くのを聞いた。
「俺は帰ってきた」
青い光の手が一斉に足首から離れる。
建物の揺れが止まった。
霧の中にいた追跡者さえ、動きを止めた。
二つの逆さまの建物の間に、一枚の扉が現れた。
扉には、ケイルの傷跡とまったく同じ紋章が刻まれている。
ただし、弧の内側には赤い目があった。
ミラがその扉を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「……ダメ」
「どうした?」
「その扉は、開けちゃいけない」
ケイルはミラを見る。
「なんで?」
ミラは答えない。
そのとき。
扉の向こうから、幼い子供の声が聞こえた。
「お兄ちゃん」
ケイルの身体が固まった。
その声は――自分自身の声とそっくりだった。
「お兄ちゃん、僕を家に連れて帰るって約束したよね」
ケイルの手が、ゆっくりと扉の取っ手へ伸びる。
背後では、追跡者が槍を拾い上げた。
そして、目の前の扉がゆっくりと開いていく。
暗闇の中から、一人の少年が歩いてきた。
琥珀色の瞳。
ケイルとまったく同じ顔。
輪郭も、鼻も、口元も。
すべてが同じだった。
ただ一つだけ違う。
少年の左手首には、傷跡がなかった。
その傷跡は、今ケイルの左手首にある。
少年は顔を上げ、ケイルを見つめる。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「お兄ちゃん……僕の一部を連れて帰ってきてくれたんだね」




