旧道の移送車
四話 旧道の移送車
夜は、思っていたより静かだった。
静かすぎた。
人が暮らしている村なら、もっと音があるはずだ。戸を閉める音と、食器の触れ合う音、誰かの咳払い、犬の鳴き声。そういう生活の残り香みたいなものが、普通は夜にはある。
でもこの村には、それが薄い。
あるのは、風が木を撫でる音と、遠くで土を踏むかすかな足音だけだった。
俺は高い窓の下に置いた木箱に腰かけたまま、扉の方を見ていた。
少女が言った。
今夜、窓を見て。
その意味はもうわかった。
この村の夜には、昼と違う顔がある。
それを見た以上、たぶん俺はもう知らなかったふりができない。
鍵の音がした。
反射的に木箱から降り、藁の上に戻る。数秒遅れて扉が少しだけ開いた。
昼に粥を持ってきた女じゃない。
入ってきたのは、あの少女だった。
扉は最後まで開かれない。細い隙間から体を滑らせるようにして入り、すぐ後ろ手で閉める。完全には閉まらない。外に誰かがいるのか、すぐ逃げられるようにしているのか、あるいはその両方かもしれなかった。
「……来たのか」
少女はこくりとうなずいた。
昼間より顔色が悪い。手が震えている。けれど、目だけは前よりはっきりしていた。怖がっていないわけじゃない。ただ、それ以上に急いでいる顔だった。
「時間ない」
「何がある」
「今夜、出る」
短い言葉だった。
でも曖昧じゃない。少女はかもしれないじゃなく、出ると言った。
「獣か」
少女はまたうなずく。
「一匹、減ったから」
昨日ので一匹減った。
窓の外で聞いた会話とつながる。
俺は立ち上がった。まだ頭は少し重いが、歩ける。思考もまとまる。
「どうしてそんなことになる。この村は何をしてる」
少女は唇を噛んだ。
「知らない、じゃないだろ」
「……全部は、知らない」
「でも知ってることはある」
沈黙。
責めたいわけじゃない。けど、ここで曖昧にされるのが一番まずい。
少女は俯いたまま、小さく言った。
「村の人たちは、外に出すって言ってる」
「何を」
「……悪いのを」
その言い方が逆に嫌だった。
名詞すら与えられていない。ずっとそう呼ばれてきたから、そうとしか言えない感じがあった。
「悪いのって、なんだ」
「わからない。でも、たまると、出さなきゃいけないって」
「どこから」
少女は胸の前で手を握った。
「人とか……村とか」
ぞくりとした。
それは単なる化け物退治の話じゃない。
人と土地に溜まる何かを、獣という形にして外へ逃がしている。そういう意味に聞こえた。
「それで、器ってなんだ」
少女の肩がびくっと揺れた。
当たりだ。
「聞いたんだろ」
「……少しだけ」
「お前のことか」
答えはすぐには返ってこなかった。
でも、答えないこと自体が答えだった。
「なんで逃げない」
俺がそう聞くと、少女はようやく顔を上げた。怯えよりも、どうしようもなさが先にある目だった。
「逃げたら、追われるから」
その一言で十分だった。
この村は、閉じた村だ。
閉じているのは外敵を防ぐためじゃない。中から逃がさないためでもある。
「鍵」
少女が小さく言う。
「外の見張り、今だけいない。こっち」
手の中に小さな鍵が見えた。女から盗んだのか、それとももともと持たされていたのかはわからない。今はどうでもいい。
少女は扉をわずかに開き、廊下の先をうかがった。
「しゃべるなら小さく。走らないで」
「どこに行く」
「見ればわかる」
嫌な答えだ。
でも今は、その嫌さごと飲むしかない。
廊下に出る。
足元は板張りじゃない。踏み固めた土で、音が吸われる。建物の中なのに冷たい。納屋か物置を無理やり部屋にしている。昼に推測した通りだった。
外へ出ると、夜気が肌に張りついた。月は出ていない。提灯の明かりが遠くにいくつか揺れているだけだ。
少女は村の裏道を迷いなく進んだ。家と家のすき間、低い柵の影、井戸の横、干した薪の山の裏。昼間はただの村に見えたかもしれない道が、夜になると妙に逃げ道の多い構造に見える。
いや、逆だ。
逃げ道に見せかけて、見張りやすいように作られている。
狭い。曲がり角が多い。開けた出口は少ない。外から見ればただの村でも、中を歩くと人を誘導しやすい形をしている。
少女が足を止めた。
前方に、他より少し大きい建物がある。祠と納屋の中間みたいな奇妙な建物だった。土台だけが妙に新しく、上物は古い。何度も補修した跡がある。
「ここ」
「何がある」
「……来る前に、準備する場所」
胸の奥で何かが重く沈んだ。
少女は建物の横手にしゃがみ込み、板壁の節穴のような隙間を示した。俺も身を屈め、そこから中をのぞく。
最初に見えたのは縄だった。
太い縄。細い縄。輪にされた縄。
次に、木の檻。人間を入れるには狭く、獣を入れるには少し大きい、中途半端な大きさ。
床には黒ずんだ染み。乾いているものと、まだ新しいものが混じっている。
そして、村人たち。
昼に見た男もいた。別の女もいた。村長らしき老人が中央に立ち、低い声で何か指示している。
「東に出す」
「一匹減った分、今夜で埋める」
「娘は」
「まだ使える。だが次でだめなら替える」
息が止まりそうになった。
少女が隣でぎゅっと目を閉じる気配がした。
替える。
道具みたいな言い方だった。
「旅人の方はどうする」
別の男がそう聞く。
村長は少しだけ考えてから言った。
「様子を見る」
「ただの旅人じゃありませんよ。あれを潰したんだ」
「だからだ」
老人の声は静かだった。
「もし偏りに耐えるなら、外に逃がすより使える」
心臓が嫌な音を立てた。
俺の背中に冷たい汗が流れる。
使える。
さっきの少女と同じ言葉だ。
つまり村長は、俺をただの目撃者として見ていない。
獣を倒した何か。偏りに耐えられるかもしれない器。そういう目で見ている。
そこで視線が床の奥へ移った。
布がかけられているものがある。
大きさは、犬か狼ほど。形は見えない。だが布の下で、何かがわずかに動いた。
生きている。
次の瞬間、布の端から、黒い毛のようなものが覗いた。
少女が息を呑む。俺は反射的にその口を塞ぎかけて、寸前で止めた。そんなことをしたら、今度は俺が恐怖の対象になる。
代わりに、少女の肩に触れる。軽く。今ここで声を出すな、という意味だけ込めて。
少女は震えながらも、叫ばなかった。
中の男が言う。
「村の外で暴れさせりゃ、それで済む話だ。今までだってそうしてきた」
「済んでねえから一匹減ったんだろうが」
「なら新しく出すしかねえ」
新しく出す。
その言葉で、全部が一本につながった。
この村は獣に襲われているんじゃない。
獣を出している。
人や村に溜まった悪いものを、別の形にして外へ流し、その被害を村の外に押しつけている。
そのために器がいる。
少女のような誰か。
あるいは、俺みたいなイレギュラー。
俺はゆっくり息を吐いた。
結論はもう出た。
ここにいたら、終わる。
少女だけじゃない。俺もだ。
しかも最悪なのは、死ぬことそのものじゃない。この村の仕組みに組み込まれることだ。
その時、不意に建物の中の老人が顔を上げた。
節穴の向こうの、まっすぐこちらを見る。
見えたわけじゃない。
でも、気配を掴まれた。
「……誰だ」
少女の手首を掴む。
「走るな。こっち」
反射でそう囁くと、少女は一瞬だけ俺を見る。迷いはその一瞬だけだった。すぐに頷く。
俺たちは建物の影から離れ、裏手へ回った。土を蹴る音を殺し、薪の山の間を抜ける。すぐ後ろで扉が開く音がした。
「いたぞ!」
「裏だ!」
やっぱり見つかった。
少女の呼吸が乱れる。速い。足も俺より遅い。けれど、今ここで置いていけるわけがない。
「出口は」
「西の柵、低いとこがある、そこを登れるはず」
「その先は」
「街道。ずっと歩けば、王都」
王都。
初めてこの世界の大きな地名が出た。
しかも今の状況で、その名はただの舞台じゃない。逃げた先にある可能性だ。
背後で提灯の明かりが増える。
「止まれ!」
「娘を逃がすな!」
言い方がひどい。助けるでも守るでもない。逃がすなだ。
少女がつまずく。咄嗟にその腕を引く。細い。軽い。あまりにも軽い。
西の柵が見えた。低い。確かに乗り越えられる。だが、その向こうはもう村の外だ。つまり、ここを越えた瞬間、俺たちは完全に“追う側と追われる側”に分かれる。
迷う理由はなかった。
「先に行け」
「でも」
「早く」
少女を先に柵へ押し上げる。俺も続こうとして、背後の気配に振り返る。
一人、村人が迫っていた。手に棒を持っている。
「どけ」
男が吐き捨てるように言う。
「その娘は村のもんだ」
村のもの。
その言い方で、頭のどこかが切れた。
力は一。
今の俺に殴り勝てる力はない。
でも、知能は四ある。
勝てない相手を真正面から止める必要はない。
足元。棒の重心。踏み込み。柵との距離。闇の深さ。全部が見える。
男が棒を振り上げるより早く、俺は半歩だけ横にずれ、柵際の泥を蹴り上げた。
「っ!」
視界を切られた男が一瞬だけ止まる。
その隙で俺は柵を掴み、外へ飛び越えた。
着地で膝が軋む。だが止まらない。
「走れ!」
少女と並んで暗い道へ飛び込む。
背後で怒声が重なる。提灯の灯りが村の端に集まっていく。
振り返らない。
もうわかっていた。
この村に残れば、俺たちは人として扱われない。
器か、材料か、そのどちらかになるだけだ。
少女が息を切らしながら言う。
「王都……まで行けば、隠れられるかも」
「なんで王都なんだ」
「記録がある。こういうのを知ってる人も、たぶんいる」
それで十分だった。
逃げる理由はもうある。
調べる理由もある。
この力のこと。
この世界の“偏り”のこと。
この村だけで終わる話じゃないってこと。
夜の街道は暗かった。けれど、村の闇よりはましに思えた。
背後の灯りが少しずつ遠ざかる。
俺たちはしばらく無言で走った。
走って、走って、走って、ようやく足を止めた時には、もう村の灯りは木立の向こうに小さく沈んでいた。
少女は道端に手をついて荒く息をしている。
俺も肺が熱い。喉が痛い。
それでも止まったのは、限界が来たからだけじゃなかった。
音がした。
前から。
規則的じゃない、軋むような音。
車輪。
それも、片方だけ引きずるみたいな嫌な鳴り方。
そこに金具が揺れる音が混じる。
何かがぶつかる、硬い音。
少女が顔を上げた。
「……なに」
「知らない」
俺は息を整えながら、前方の闇を見る。
夜道の先、木立の切れ目の向こうに、ぼんやりと影があった。
大きい。
馬車か荷車の類に見える。
ただ、様子がおかしい。
斜めに傾いている。
片輪が深く沈んでいるらしい。
荷台の片側が落ち、布が垂れている。
誰かの低い声がした。
怒鳴ってはいない。
でも余裕はない。
俺は少女へ小さく言う。
「隠れろ」
「でも」
「いいから」
道脇の茂みに身を寄せ、そこから前を窺う。
見えたのは、止まった移送車だった。
商人の荷車じゃない。
全体の造りがやたら硬くて、飾りもない。
雨除けの布は深く垂れ、横には小さな封印箱が二つ。
荷台の中央には白布のかかった長い影がある。
護衛らしい男が一人、沈んだ車輪に手をかけていた。
もう一人は周囲を警戒している。
足元には、獣の死体らしい黒い塊も見えた。血の匂いが遅れて届く。
ただの事故じゃない。
襲われた跡だ。
その時、白布の奥から小さく咳が聞こえた。
荷物なら、咳なんかしない。
俺の眉がわずかに寄る。
白布の影が、ほんの少しだけ動いた。
次の瞬間、その横から細い手が見えた。
人だ。
少女が隣で息を止めるのがわかった。
俺はさらに目を凝らす。
荷台の奥。
白布の影のさらに向こう、車体にもたれるように座っている誰かがいた。
小柄だ。
杖を持っている。
髪は夜目でもわかるくらい淡い色で、月もないのに妙に浮いて見えた。
顔色は悪い。
今にも倒れそうだ。
でも、その人物はただ弱ってるだけには見えなかった。
咳き込んだあとも、周囲の様子を静かに見ている。
目が合った。
遠いのに、不思議とはっきりした印象だけが刺さる。
深い青。
静かで、でも眠っていない目だった。
その少女が、荷台の奥から小さく口を開く。
「……近づくなら、左からの方がいいよ」
声は弱い。
でも妙に落ち着いていた。
護衛の男が振り返る。
「おい、喋るな」
少女は咳をひとつ押し殺したあと、もう一度だけこっちを見た。
「右は、まだ血の匂いが強いから」
その言葉の意味を理解するのに、一瞬だけ遅れた。
ただの病人じゃない。
そう思ったところで、闇の奥から、低い獣の唸り声が聞こえた。
まだ終わっていなかった。




