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村は知っている

三話


 目を開ける前に、湿った木材の匂いがした。


 土と藁と、古い布の匂い。鼻の奥に残る鉄っぽい臭いは、自分の血なのか、それとも森で浴びた獣の返り血か、もうよく分からない


 頭の奥が鈍く痛んでいた。

 思考を無理やり引き上げた反動が、まだ脳の芯に残っている。


 まぶたを開く


 天井は低い。黒ずんだ木の板が何枚も並んでいて、ところどころに染みが浮いていた。壁は粗く、隙間風が入るほどではないが、きっちり閉じられている感じがある。


 体を起こそうとして、右手首に違和感が走った。


 縄だ。


 強く縛られているわけじゃない。逃げようと思えば多少は動ける。だが、それが逆に嫌だった。

 これは拘束というより、お前が危険な時だけ押さえられるようにしてある、そんな結び方だ。


 部屋の隅には桶がひとつ。布切れ。小さな水差し。

 床には藁が敷かれ、その上に薄い毛布が投げられている。


 最低限の手当てはされている。

 でも、自由にしてやる気はない。


 高い位置に小さな窓があった。そこから細い光が差している。朝か昼かはわからない。ただ、森の中よりずっと静かだった。


 ここは村の中だ。


 そう結論づけたところで、扉の向こうから声がした。


「……まだ起きねえのか」


「娘の話じゃ、化けたとか何とか」


「馬鹿言え。そんなもんあるか。ただの旅人だろ」


「ただの旅人が、あれを一人でやれるかよ」


 そこで会話が途切れた。


 俺は息を殺す。


 旅人。

 少なくとも、正体不明の怪物としてその場で処理はされていないらしい。


 だが、安心はできなかった。


 助かったかではなく、どう扱うかを相談している声音だった。

 無事を喜ぶ響きはない。困惑と警戒と、少しの計算だけが混じっている。


 扉の向こうで足音が鳴る。鍵の音、そして重い木の扉が軋みながら開いた。


 入ってきたのは、五十くらいの男だった。痩せている。農夫みたいな服を着ているくせに、泥よりも先に、目の冷たさが目についた。


「起きたか」


 男はそう言って、俺の顔色を見た。

 病人を見る目じゃない。値踏みする目だ。


「水だ」


 差し出された椀を受け取る。喉は渇いていたが、一気には飲まない。少しだけ口をつけた。


「……森で倒れてた。嬢ちゃんも一緒だった。覚えてるか」


 覚えている。

 でも、あえて少し間を置いた。


「…森で、獣に襲われた」


「それで?」


「倒した。そこまでは」


 男の眉がわずかに動く。


「一人で?」


「たぶん」


「たぶん?」


「途中から、記憶が曖昧だ」


 嘘ではない。全部言っていないだけだ。


 男は黙ったまま、俺の細い腕を見た。次に肩。首元。どこかに変化の名残がないか探しているみたいだった。


「お前、どこから来た」


「……知らない」


 今度は本当にそうだ。

 俺はこの世界の地理も常識も何もかも知らない。


 男の目が細くなる。


「名前は」


 名前。

 喉の奥がひっかかった。前の世界の名前を言うべきか、一瞬だけ迷ったが、結局、口にした。


「……ユウ」


 仮でもいい。今はそれで十分だ。


「そうか、ユウ、か」


 男は頷いたが、覚える気がある頷きじゃなかった。

 名前を覚えたんじゃない。呼ぶ必要がある対象として認識しただけだ。


「嬢ちゃんがな、お前が助けたって言ってた」


 そこで初めて、俺は男の顔をしっかり見た。


 言葉の形は礼に近い。

 でも響きは違う。


 助けてくれたのかではない。

 本当にそうなのかと探っている声だった。


「……その子は?」


「無事だ。今は家にいる」


 家にいる。

 その言い方は妙だった。

 普通なら休んでるとか親のところにいるとか、もっと人の気配がある。なのにこの男の口ぶりは、物の置き場所を言うみたいに平坦だった。


「会わせてくれ」


 俺が言うと、男は少しだけ笑った。


「まだ無理だ」


「なんで」


「嬢ちゃんが怯えてる」


 その答え自体は自然だ。

 でも、その後の沈黙が長すぎた。


 怯えている。だから会わせない。

 それだけならわかる。けど男は、俺が納得するかじゃなく、どこまで反応するかを見ていた。


「お前も、しばらくはここにいろ。頭も打ってる。森も危ない」


 部屋を出る前、男はちらっと扉の外に目をやった。


「……それに、今は外を歩かない方がいい」


 扉が閉まり、再び鍵がかかる。


 外を歩かない方がいい。

 それは親切な助言にも聞こえる。だが違う。


 外を歩かれると困る時の言い方だ。


 俺は浅く息を吐いた。


 状況を整理する。


 一つ。俺は保護されているようで、実質的には閉じ込められている。

 二つ。村人は獣の件を初めて知った反応じゃない。

 三つ。少女は無事だが、自由かどうかはわからない。

 四つ。この村は何かを隠している。


 そこまで考えた時、窓の外から子どもの笑い声が聞こえた。

 一瞬だけ、普通の村の音に思えた。


 けれど、すぐに消えた。


 笑いは短すぎた。途切れ方が変だった。

 遊んでいて自然に止まったんじゃない。誰かに止められたような、不自然な消え方だった。


 夕方になった頃、もう一度鍵が鳴った。


 今度は女だった。年配で、無表情なまま木椀を置いていく。中身は薄い粥。香りはするが、味はほとんどなかった。


「…あの子は」


 聞きかけると、女は手を止めた。


「娘さん、です」


 言い直したのは、相手に合わせたからじゃない。

 どこまで普通の村人を演じるか、一瞬迷ったからだ。


「娘さんは、落ち着いた?」


「ええ」


「会えない?」


「今は」


 短い。

 必要以上に俺と会話を続けたくない感じが露骨だった。


 女が出ていこうとしたその時、扉の外にもう一つ影が差した。


 小さい。


 俺の心臓が一瞬だけ跳ねる。


 少女だった。


 けれど女は何も言わず、わざと少しだけ扉を開いたまま廊下の向こうへ歩いていく。完全に二人きりにはしない。その中途半端さが、余計に気味が悪かった。


 少女は入口に立ったまま、こちらを見ない。


 あの森で見た怯えが、まだ肩に残っていた。


「……」


 何か言おうとして、やめる。

 俺もすぐには声を出せなかった。


 やっとのことで口を開く。


「助かったんだな」


 少女は小さくうなずいた。


「……あなたが、やったの」


「たぶん」


「たぶん、ってなに」


「途中から、自分でもよく覚えてない」


 それを聞いて、少女は初めて少しだけ顔を上げた。

 怯えと困惑と、ほんの少しの怒り。そんな目だった。


「……あの人たちの前で、変なこと言わないで」


「何を」


「見たこととか。森のこととか。あれのこととか」


 声が細い。けれどはっきりしていた。


「どうして」


 少女は唇を噛んだ。

 言いたくないんじゃない。言えない顔だ。


「ここ、へんだから」


 それだけ言って、彼女は一歩後ずさった。


「へんって、何が」


「......全部」


 廊下の奥で足音がした。少女の肩が跳ねる。


「夜、窓を見て」


 それだけ残して、彼女は去った。


 扉が閉じる。鍵の音。


 夜、窓を見て。


 俺はその言葉を頭の中で繰り返した。


 日が落ちるまでの時間が妙に長く感じた。

 外からはほとんど物音がしない。畑仕事の声も、家族の笑い声も、犬の吠え声もない。村なのに、生きている音が薄すぎる。


 やがて窓の外が暗くなった。


 立ち上がり、高い窓の下に置かれた木箱へ足をかける。頭痛は残っていたが、耐えられないほどじゃない。


 外をのぞく。


 見えたのは、家の裏手だった。柵。細い道。土。

 その向こうを、提灯の灯りがいくつか動いている。


 村人たちだ。


 その数は多くない。五、六人。

 全員が無言で歩いていた。


 先頭の男が何かを持っている。長い棒。

 後ろの一人は縄。

 さらにもう一人は、大きな籠。


 昼間見た顔も混ざっていた。


 助け合う村人の姿には見えない。

 何かを捕まえに行く列だった。


 その時、最後尾の男が低く言った。


「今夜は東だ」


「昨日ので一匹減ったからな」


「娘の方はまだ使えるのか」


「村長が決める」


 息が止まりそうになった。


 昨日ので一匹減った。

 娘の方はまだ使える。


 言葉が意味を結ぶ。


 あの獣は、偶然森にいた化け物じゃない。

 この村は、あれを知っている。

 しかも、数として把握している。


 使える。

 あの子を、そういう言い方で呼んだ。


 その瞬間、背筋を冷たいものが走った。


 少女は被害者ではある。

 でも同時に、この村の仕組みの中に組み込まれている。


 村人たちは灯りを揺らしながら闇の中へ消えていく。


 俺は窓枠を掴んだまま、動けなかった。


 整理しろ。

 落ち着け。

 点を線にしろ。


 森の異常な獣。

 それを当然みたいに扱う村人。

 少女の「逃げて」。

 閉じ込められた俺。

 そして今の会話。

 答えはもう、ほとんど出ていた。


 この村は、獣に襲われている側じゃない。


 この村は、あれを知っている側だ。


 木箱から降りた時、扉の向こうで、また鍵の金属音が鳴った。


 見張りだ。


 俺は暗い部屋の真ん中で立ち尽くしたまま、ゆっくり息を吐いた。


 助かったわけじゃない。


 取り込まれたんだ。


 そして明日の朝を待てば、おそらくもっと悪くなる。

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