婚約者と聖女の静かな⋯
翌日の昼休み。
ヴィンセントは、中庭のベンチで本を読んでいた。
春の風が吹き抜け、木々の若葉を揺らしている。
穏やかだった。
平和だった。
誰にも絡まれず、本を読める。
このまま何事もなく一日が終わればいい。
そう思っていた。
「ヴィンセント様」
声をかけてきたのは、シャルロットだった。
今日の彼女は、淡い紫色のドレスを着ていた。銀白色の髪は細い編み込みを交えてまとめられ、耳元には小さな真珠の飾りが揺れている。
その美しさは、周囲の視線を自然に集めた。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
ヴィンセントが隣を空ける。
シャルロットが腰を下ろそうとした、そのとき。
「ヴィンセント!」
アリエが走ってきた。
白い衣装の裾を翻し、短くまとめた赤茶色の髪を揺らしている。細身の体には無駄のない筋肉がつき、走ってきたというのに息ひとつ乱れていない。
「お昼、まだでしょう? 私と食べましょう!」
「……シャルロット嬢と食べる予定だったのだけど」
「じゃあ、三人で食べればいいじゃない」
アリエは、シャルロットの隣に座ろうとした。
しかし、シャルロットが先に手を伸ばす。
「アリエさん。こちらは婚約者との時間です」
「婚約者だからって、独占していいの?」
「ええ。婚約者ですから」
「じゃあ、私は友達として一緒にいるわ」
「友人なら、少し離れた席でもよろしいのでは?」
「嫌よ」
にこやかな笑顔。
しかし、二人の間には見えない火花が散っていた。
ヴィンセントは、ゆっくりと本を閉じた。
(何だ、これ……)
「二人とも、仲がいいね」
「どこがですか?」
「どこがよ!」
二人の声が重なった。
ヴィンセントは、ますます困惑した。
やがて、シャルロットは彼の隣に座り、アリエは反対側に腰を下ろした。
左右を美しい少女に挟まれる。
周囲の生徒たちから、羨望と嫉妬の混じった視線が飛んでくる。
ヴィンセントは、胃が痛くなった。
(目立っている。非常に目立っている)
「ヴィンセント様、午後は私と魔法史の復習をいたしましょう」
「え?」
「以前、興味を持っていらした古代魔術の資料を手に入れました」
シャルロットが、上質な革装丁の本を差し出す。
表紙には、王立図書館でも閲覧制限がかかっているような古代文字が刻まれていた。
「……これ、どうやって?」
「私の家に保管されていたものです」
「国宝級では?」
「そうかもしれませんね」
シャルロットは、涼しい顔をして答えた。
アリエが、すぐに身を乗り出す。
「私も、ヴィンセントに渡したいものがあるわ」
「何?」
「新しい護符。前のものより強いの」
「……」
ヴィンセントは、左右を見た。
婚約者からは貴重な魔導書。
聖女からは高性能な護符。
そして、おそらく午後にはリュシアンが訓練に誘い、ギリアムが意味ありげに頷く。
(……これは、何かの包囲網なのでは?)
彼は本気でそう考えた。
シャルロットとアリエは、ヴィンセントの視線が不安げに揺れたことに気づく。
二人は一瞬だけ目を合わせた。
そして、ほぼ同時に理解する。
――また、何かを警戒している。
シャルロットは、ヴィンセントの手にそっと触れた。
アリエは、彼の前に置かれた飲み物を安全なものと確認する。
二人の動きは、驚くほど自然で、無駄がなかった。
ヴィンセントは、それを見てさらに警戒した。
(連携までしている……)
彼の誤解は、深まるばかりだった。
放課後。
ヴィンセントは、学園の図書館にいた。
高い天井まで届く本棚。
魔法によって自動的に整理される書物。
淡い光を放つ照明石。
ここは、彼にとって数少ない安息の場所だった。
誰もいない席を探していると、リュシアンが手を振った。
「こっちだ、ヴィンセント!」
「……君は、どうしていつも僕を見つけられるんだ?」
「友達だから?」
「理由になっていない気がする」
リュシアンは笑った。
彼の笑顔は、太陽のように明るい。けれど、剣を握るときの表情は鋭く、普段の気さくさとは別人のような緊張感を帯びる。
「なあ、ヴィンセント」
「何かな?」
「お前、何か困っていることはないか?」
「特にないよ」
「本当に?」
「本当に」
ヴィンセントは、本を開いた。
リュシアンはしばらく黙っていたが、やがて真剣な声で言った。
「俺は、お前の味方だからな」
ヴィンセントの指が止まった。
その言葉は、思った以上に胸に響いた。
原作のリュシアンは、自分を討つ存在だった。
それなのに、今は味方だと言う。
どうしても、信じきれない。
「……僕が、君の敵になる可能性は?」
「そのときは、そのときだ」
リュシアンは、まっすぐにヴィンセントを見た。
「でも、今のお前を見て、敵だとは思わない」
ヴィンセントは、視線を逸らした。
窓の外では、夕暮れの光が校舎を赤く染めている。
「君は、変わった人だね」
「よく言われる」
「褒めていないよ」
「知ってる」
リュシアンが笑う。
ヴィンセントも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その表情を見て、リュシアンは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
一度目の人生で、ヴィンセントが最後に見せた表情を思い出す。
あのときも、彼は笑っていた。
誰も責めず。
自分だけが消えれば、すべてが終わるとでもいうように。
(もう、あんな顔をさせない)
リュシアンは、静かに拳を握った。
「ヴィンセント」
「何?」
「これからも、友達でいような」
ヴィンセントは、少し考えた。
それから、ゆっくりと頷く。
「……君がそれでいいなら」
「もちろんだ!」
リュシアンは、嬉しそうに笑った。
ヴィンセントは、そんな彼を見て思う。
(原作とは、ずいぶん違う)
しかし、世界がどれほど変わっても、自分の目的は変わらない。
目立たない。
争わない。
死なない。
そして、できることなら――追放で済ませる。
その程度の願いだった。
だが、彼を取り巻く人々は、すでに別の未来を望んでいる。
彼が生き残るだけではなく。
彼が誰かに愛され、守られ、穏やかに笑える未来を。
ヴィンセントだけが、そのことを知らない。
だから今日も、彼は周囲の優しさを死亡フラグだと誤解しながら、静かな余生を目指して歩いていく。
――その道の先に、かつての処刑台が存在しないことを、まだ知らずに。




