婚約者と聖女
午後。
ヴィンセントが図書室で古い魔術史の本を読んでいると、侍女が来客を告げた。
「シャルロット・ルヴェリエ様がお見えです」
ヴィンセントは、本を閉じた。
シャルロット・ルヴェリエ。
原作における、もう一人の悪役。
ヴィンセントの婚約者であり、大公家の令嬢。
銀白色の長い髪と、紫水晶を思わせる瞳。すっと伸びた背筋と、無駄のない所作。細身でありながら気品に満ちた立ち姿は、まるで冬の宮殿に置かれた精巧な彫像を思わせる。
美しい。
しかし、原作では冷酷で高慢な令嬢として描かれていた。
ヒロインのアリエを敵視し、ヴィンセントとともに彼女を追い詰める存在。
ヴィンセントにとっては、できる限り距離を置きたい相手だった。
「お通しして」
やがて扉が開き、シャルロットが入ってくる。
淡い水色のドレスが、歩くたびに静かに揺れた。首元には小粒の宝石が飾られているが、派手さはない。彼女の容姿と立ち居振る舞いそのものが、十分な威厳
を持っているからだ。
「ごきげんよう、ヴィンセント様」
「ごきげんよう、シャルロット嬢」
ヴィンセントは丁寧に礼をした。
余計なことは言わない。
それが安全だ。
だが、シャルロットは彼を見つめたまま、静かに告げた。
「こちらへ」
「……はい?」
「膝をお貸しします」
「え?」
ヴィンセントの思考が止まった。
シャルロットは、ソファに腰を下ろし、自分の膝を軽く叩く。
「お疲れでしょう。少し休んでください」
「いや、僕は別に疲れていないけど」
「では、疲れていなくても構いません」
紫色の瞳が、逃げ道を塞ぐように細められる。
「私が、そうしたいのです」
ヴィンセントは困惑した。
原作のシャルロットは、ヴィンセントと共にヒロインを追い詰める冷たい女性だったはずだ。
それなのに、なぜ膝枕を提案してくるのか。
(……何かのイベントか?)
シャルロットの指が、銀色の髪をそっと撫でる。
ヴィンセントは体を硬くした。
(まずい。何を考えている?)
「緊張なさらなくてもよろしいのですよ」
「いや……その」
「私の前でまで、無理に気を張る必要はありません」
シャルロットは、穏やかな声でそう言った。
その表情は優雅で、落ち着いている。
けれど、彼女の胸の内には、かつての記憶が渦巻いていた。
血に濡れた処刑台。
最後まで誰にも恨み言を言わず、すべての罪を背負ったヴィンセント。
自分たちを守るために、誰にも真実を告げずに消えていった彼の姿。
(今度こそ、死なせない)
シャルロットの指が、髪を撫でる。
(あなたがどれほど逃げようとしても、私はあなたを離さない)
だが、ヴィンセントは彼女の優しさを別の意味に受け取っていた。
(……やはり怪しい)
膝枕をされながら、彼は真剣に考える。
(原作では、婚約者からこんな扱いを受けた記憶はない。これは、何かの死亡フラグかもしれない)
シャルロットは、彼の緊張した顔を見下ろした。
その瞳に、ほんの少しだけ悲しみが浮かぶ。
「ヴィンセント様」
「何かな?」
「もっと、私を頼ってくださいませ」
ヴィンセントは、目を閉じた。
(……頼ったら、何かを要求されるのでは?)
「善処するよ」
慎重な返事だった。
シャルロットは、微笑む。
その微笑みは美しく、そしてどこか執着に似た色を帯びていた。
「ええ。ゆっくりで結構です」
彼女は、ヴィンセントの髪を撫で続けた。
逃げられないように。
今度こそ、彼をこの世界につなぎ止めるために。
数日後。
ヴィンセントは、街へ出ていた。
公爵家の嫡男としての視察――という名目ではあるが、本人の目的は書店だった。
人目を避けるため、質素な外套を羽織り、銀髪も目立たないように整えている。
しかし、顔立ちが整いすぎているせいで、かえって人目を引いた。
青灰色の瞳は冷たく見え、黙って歩いているだけで近寄りがたい雰囲気がある。
(この顔、便利なのか不便なのかわからないな)
そんなことを考えていたときだった。
「そこの男、今すぐ離れなさい!」
通りの向こうから、少女の声が響いた。
ヴィンセントが振り返る。
そこには、赤茶色の髪を短くまとめた少女がいた。
健康的な肌。
大きく澄んだ瞳。
修道服を思わせる白い衣装の上から、動きやすい革のベルトや手袋を身につけている。
華奢な聖女という原作の描写とは異なり、彼女の身体には鍛錬によって培われたしなやかな筋肉があった。細身ではあるが、肩や腕には確かな力強さが宿っている。
アリエ。
原作のヒロインであり、聖女。
ヴィンセントは、すぐに距離を取ろうとした。
しかし、その前にアリエが動いた。
「人の話を聞かないなら、こうするしかないわね」
次の瞬間。
彼女は、目の前にいた大柄な男の腕を掴み、軽々と持ち上げた。
「え?」
男の体が宙に浮く。
そのまま、近くの壁へ叩きつけられた。
轟音。
石壁にひびが入る。
周囲の人々が、一斉に沈黙した。
ヴィンセントも、言葉を失った。
「……聖女って、そういうものだったか?」
「失礼ね!」
アリエは振り返り、頬を膨らませた。
「私は話し合いをしようとしたわ。三回も」
「三回……」
「ええ。だから、これは正当防衛よ」
正当防衛の規模ではない。
ヴィンセントがそう思っていると、アリエは彼の前に歩み寄った。
近くで見ると、彼女の瞳は金色に近い琥珀色を帯びている。活発そうな表情の中に、強い意志と、どこか不器用な優しさが見えた。
「あなた、ヴィンセント・アストレアでしょう?」
「……そうだけど」
警戒するヴィンセントに、アリエは小さな護符を差し出した。
「これを持っていて」
「これは?」
「悪意のある魔法を防ぐ護符よ。あなたに必要だから」
ヴィンセントは、護符を見つめた。
(なぜ僕に?)
原作では、アリエはヴィンセントを恐れ、敵視していたはずだ。
それなのに、彼女は自分を守ろうとしている。
どう考えても不自然だった。
「……何か、条件があるのかな?」
「条件?」
「僕に何かをさせるために、先に恩を売っているとか」
アリエの表情が固まった。
ほんの一瞬。
その瞳に、深い痛みが走った。
けれど、すぐに彼女は笑う。
「ないわ」
護符を、ヴィンセントの手に押しつける。
「あなたが無事なら、それでいいの」
ヴィンセントは、ますます警戒した。
(それが一番怪しいんだけど……)
一方、アリエは心の中で拳を握りしめていた。
(今度こそ、あなたを守る)
かつて彼女は、ヴィンセントを悪だと信じていた。
彼の行動の裏にあったものを知らず、彼を断罪する側に立った。
その結果、彼がどれほど多くのものを守っていたのかを知った。
だから今度は、力をつけた。
神聖魔法だけではない。
剣も、体術も、身体の鍛錬も。
誰かに守られるだけの聖女ではなく、自分の手で彼を守れる存在になるために。
ヴィンセントは、護符を外套の内側にしまった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
アリエは満面の笑みを浮かべた。
その背後では、先ほど壁に叩きつけられた男が、恐る恐る逃げていく。
ヴィンセントは、ひとつの結論を出した。
(原作と違う。確実に違う)
しかし、それでも。
(まあ、護符は役に立ちそうだし、もらっておこう)
彼は深く考えないことにした。
――その護符が、彼を狙う暗殺者の魔法を幾度も防ぐことになるとは、まだ知らずに。




