悪役貴族に転生した……はずだった
目を覚ましたとき、ヴィンセント・アストレアは、自分が見知らぬ天蓋付きのベッドに横たわっていることに気づいた。
ぐっすり寝たはずなのに、なぜか酷く疲れている。
白い天井。
淡い青色のカーテン。
窓の向こうに広がる、見覚えのない庭園。
そして、鏡に映った自分の姿。
黒に近い銀髪が、朝の光を受けて淡く輝いている。前髪の隙間から覗く瞳は、冷たい印象を与えやすい青灰色。整った鼻筋と薄い唇、まだ少年らしさを残しながらも、将来の美貌を予感させる端正な顔立ち。
貴族の子息というより、絵画の中から抜け出してきたような容姿だった。
だが、ヴィンセントはその姿を見て、喜ぶどころか顔を引きつらせた。
「……嘘だろ」
知っている顔だった。
正確には、読んだことのある小説に登場する人物の顔。
ヴィンセント・アストレア。
王国有数の大貴族、アストレア公爵家の嫡男。
そして――物語の終盤で断罪され、処刑台へ送られる悪役貴族。
「よりによって、こいつか……」
ベッドの上で、ヴィンセントは頭を抱えた。
転生ものの物語は、これまでにも読んだことがある。
主人公として生まれ変わり、知識を活かして成功する。あるいは、悪役令嬢になって破滅を回避する。
そうした話なら、まだ理解できる。
しかし、自分が転生したのは、原作で徹底的に嫌われていた悪役だった。
ヒロインを虐げ、周囲を見下し、権力を振りかざす冷酷な公爵令息。
最後には多くの悪事を暴かれ、婚約者にも見放され、かつて敵対していた聖騎士に敗北する。
そして、処刑。
物語としては、わかりやすい因果応報だった。
だが、当事者になると笑えない。
「……目立たないようにしよう」
ヴィンセントは、しばらく考えたあと、静かに結論を出した。
「誰かを虐げない。余計なことをしない。権力争いに関わらない。ヒロインにも近づかない」
原作のヴィンセントは、何かにつけて人の恨みを買っていた。
ならば、その逆をすればいい。
自分から争いを起こさず、誰にも敵意を見せず、必要以上に人と関わらない。
それでも原作の強制力とやらが働いて破滅するのなら、せめて罪を軽くしておく。
最悪の場合、爵位を失って追放される程度で済めばいい。
処刑されるよりは、ずっとましだ。
「僕は、穏やかに生きたいだけなんだ」
そう呟いたとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「兄上。起きていらっしゃいますか?」
幼い声だった。
ヴィンセントが返事をすると、扉が開く。
入ってきたのは、十歳ほどの少年だった。
淡い金髪は丁寧に整えられ、柔らかな光を帯びている。髪の間から覗く瞳は、ヴィンセントと同じ青灰色だが、兄よりも明るく、澄んでいた。まだ幼い輪郭にはあどけなさが残っているものの、姿勢はよく、貴族の子どもらしい気品を身につけている。
異母弟、レオン・アストレア。
原作では、ヴィンセントと家督を争う人物だった。
やがて兄を追い落とし、公爵家の実権を握ろうとする――そう描かれていたはずだ。
「おはようございます、兄上」
レオンは、少し緊張した様子で頭を下げた。
ヴィンセントは、慎重に微笑む。
「おはよう、レオン」
まずは敵意を見せない。
それが、彼の新しい人生の第一歩だった。
しかし。
「……兄上?」
「何でもない」
ヴィンセントは、内心で深く息を吐いた。
(原作では、こいつとも距離を取ったほうがいいんだろうな)
その一方で、レオンは兄が自分に微笑みかけてくれたことを、ひどく嬉しそうに受け止めていた。
その瞳の奥に、かつて兄を失った者だけが抱く、痛切な記憶があることを――ヴィンセントはまだ知らない。
アストレア公爵家の大広間は、広く、静かだった。
長い食卓には白いクロスが敷かれ、銀の食器と繊細な装飾の施されたティーカップが並んでいる。壁際には大きな窓があり、整然と剪定された庭園と、遠くに広がる公爵領の街並みを見渡すことができた。
ヴィンセントは、食事を終えるとすぐに席を立った。
今日の予定は、図書室で読書。
原作の知識を整理し、今後起こる出来事を確認するためだ。
何より、図書室は人と関わらずに済む。
それが一番重要だった。
「兄上」
背後から、レオンの声がかかる。
ヴィンセントが振り返ると、レオンは椅子の横に立っていた。
小さな手を胸の前で握り、真剣な顔をしている。幼い顔立ちには似つかわしくないほど、思い詰めた表情だった。
「どうした、レオン?」
「今日、父上が兄上を午後の領地会議に呼ぶとおっしゃっていました」
「領地会議……」
ヴィンセントの眉がわずかに下がる。
公爵家の嫡男である以上、将来に備えて領地経営を学ぶ必要がある。父親や家臣たちからそう説明されれば、断るのは難しい。
しかし、会議に出れば出るほど、自分の存在は周囲に知られる。
発言すれば目立つ。
黙っていれば無能と思われる。
原作のヴィンセントが、権力と政争に深く関わっていった理由も、そのあたりにあるのだろう。
「兄上は、お断りできないのですか?」
レオンが尋ねた。
「そういうわけにはいかないだろう。僕は嫡男だからね」
「でも、兄上はまだ学生です」
レオンは、少しだけ声を強めた。
「領地のことは、家令様や財務官様がきちんと見てくださっています。兄上が毎回、会議に出る必要はないと思います」
ヴィンセントは、目を瞬かせた。
十歳の子どもが、公爵家の政務について意見を述べている。
もっとも、内容そのものは間違っていない。
アストレア公爵領は広大で、長年仕えてきた家臣たちが管理している。家令、財務官、代官、騎士団長。それぞれが専門の役割を担っており、まだ少年であるヴィンセントがすべてを背負う必要などない。
「それで、どうするつもりなんだ?」
ヴィンセントが尋ねると、レオンは少しだけ胸を張った。
「家令様にお願いしました」
「お願い?」
「兄上が学業に集中できるように、会議への出席は本当に必要なものだけにしてほしい、と」
「……家令に?」
「はい」
レオンは慌てて付け加えた。
「僕が決めたわけではありません。兄上の予定を確認して、家令様が父上にお伝えくださるそうです」
ヴィンセントは黙り込んだ。
レオンが公爵家の実権を握ったわけではない。
家臣たちを自由に動かす権限があるわけでもない。
ただ、自分にできる範囲で大人に相談しただけなのだ。
兄に余計な負担をかけたくない。
その気持ちが、まっすぐに伝わってきた。
「余計なことをしたでしょうか」
レオンが不安そうに尋ねる。
ヴィンセントは、しばらく弟を見つめた。
原作では、レオンは自分の家督を狙う敵だった。
兄を蹴落とすために、さまざまな策略を巡らせる人物として描かれていた。
だが、目の前の少年は、ただ自分を心配している。
「……いや」
ヴィンセントは手を伸ばし、レオンの頭にそっと触れた。
淡い金髪は、見た目よりも柔らかかった。
「助かったよ。ありがとう」
「本当ですか?」
「ああ。本当に」
レオンの表情が、ぱっと明るくなる。
まるで、ずっと欲しかったものをようやく与えられたかのようだった。
「では、兄上は今日、図書室に行かれるのですね?」
「そうしようと思っている」
「でしたら、僕もご一緒してよろしいですか?」
「もちろん」
「昨日、家令様に帳簿の読み方を教えていただいたのです。少しだけ、わからないところがあって……」
レオンはそう言いながら、小さな革張りの帳簿を抱え直した。
ヴィンセントは、それを見て少し驚いた。
「帳簿を?」
「はい。将来、兄上のお役に立てるように」
その言葉は、あまりにも自然だった。
レオンは、自分が公爵家を支配する未来を語っているのではない。
兄を支える未来を語っている。
ヴィンセントは、わずかに目を細めた。
(……原作と違う)
しかし、すぐに考え直す。
(いや。まだ判断するのは早い。原作でも、こうやって僕を油断させていた可能性はある)
ヴィンセントは、自分の疑念を顔に出さないようにした。
「では、一緒に行こうか」
「はい!」
レオンは嬉しそうに頷いた。
兄の隣を歩くことができる。
それだけで、胸が満たされるようだった。
ヴィンセントは、弟と並んで廊下を歩く。
公爵家の廊下には、歴代当主の肖像画が並んでいる。重厚な額縁の中で、先祖たちは威厳に満ちた表情を浮かべていた。
その下を、二人の少年が歩いていく。
十歳のレオンは、兄に気づかれないようにそっと手を握りしめた。
(今度こそ、兄上のそばにいる)
彼は、かつて兄が自分のために何をしたのかを知っている。
だからこそ、今度は自分が兄を守る番だった。
たとえ、まだ何の力も持たなくても。
たとえ、できることが大人に相談することだけでも。
そして、そんな弟の決意を知らないヴィンセントは、別の結論にたどり着いていた。
(……ひとまず、会議をひとつ回避できた)
それだけで十分だった。
穏やかな余生への道は、思ったより順調なのかもしれない。
――少なくとも、彼はそう思っていた。




