第二章 黒い頁
王室年代記官セヴラン・モールは、竜が降りた朝、年代記塔の地下で一枚の頁を眺めていた。
羊皮紙は煙で黒ずんでいた。余白に先王ローデリク二世の小さな印章があり、本文は先代年代記官、つまりセヴランの父の筆跡だった。
〈炉仔三頭、ケルンへ移送。口輪の第三弁は飼育官ドーンの案に従う。実演後、目撃者を残さぬこと。竜襲として記録し、討伐令の根拠となす〉
日付は、竜が最初に人の村を襲ったとされる日の二十一日前だった。
公刊された『ローデリク治世録』では順序が逆になっている。ケルン渡りが焼かれ、王が民を守るため敵巣から幼竜を捕らえた。教科書にも、戦没者碑にも、そう刻まれた。王国は被害者として十七年戦い、竜を滅ぼしたことになっている。
セヴランは黒い頁を二重の革表紙へ戻した。父は死ぬ前、これを彼に渡した。
――年代記官は、起きたことを書く者ではない。王国が耐えられることを書く者だ。
若い王カイウス四世は、祖父の罪を知らない。少なくとも、すべては知らない。竜討ちの勝利を正統性の柱にして即位してから、まだ三年だった。穀物税への反乱が北で続き、軍は先王の栄光を旗にしてまとまっている。ここで王家が戦争を仕組んだと明らかになれば、真実に耐える前に国が裂ける。
塔の上から足音が降りてきた。
セヴランは革表紙を壁の隠し棚へ入れ、公式年代記を机に広げた。入ってきたのは王の侍従長だった。
「陛下がお呼びです」
謁見室で、カイウス王は窓を背に立っていた。二十六歳の顔は眠れぬ夜で青白い。刑場に伏す竜の背が、王宮から黒い丘のように見えた。
「盟約は本物か」と王が尋ねた。
「原本に疑いはありません」
「失効してはいないのか」
「年代記上は、竜の側が破棄したことになっております。ですが盟約本文に、戦争による失効条項はない」
王は唇をかんだ。
「鱗の記憶というのは」
「伝承です」
「事実なら?」
セヴランは窓外を見なかった。
「竜が死ねば消える、と申しております」
「それまでに法院が見る」
「証拠として退けられれば、見ないまま判決に至ることもあります」
王が振り向いた。賢くない王ではない。その一言が何を意味するか理解した。
「法を曲げろと言うのか」
「法には、もともと曲がる余地がございます。死者の像は供述か、物証か。修道女の言葉は翻訳か、伝聞か。真正を証明する者は被告自身しかいない。疑問はいくらでもあります」
「祖父は何をした」
問いは唐突だった。
セヴランは長く王家に仕えてきた。幼いカイウスが年代記塔へ忍び込み、英雄譚の挿絵をせがんだ日も知っている。真実を告げることが誠実で、黙ることが臆病だとは思わなかった。国を壊す真実もある。何万の人が一つの嘘の上で暮らしているなら、その嘘はすでに屋根や橋と同じ重さを持つ。
「陛下が裁かれるべきことは、何も」
「祖父について聞いた」
「記録を調べます」
王は失望を隠さなかった。
その日の午後、セヴランは法院から召喚状を受けた。訴因となった三事件の日付、軍の配置、王命の有無について、専門家として証言せよとある。
彼は公式年代記を読み返した。ケルン渡りの項には、父が選んだ文章が並ぶ。
〈冬至月二日、三頭の竜、宣戦なく村を焼く。老幼を分かたず九十七名を殺す。王、悲報に接し、同八日、竜巣討伐を命ず〉
だが黒い頁だけが危険なのではなかった。冬至月二日に村で聞こえるはずのない鐘、飛ぶはずのない蜜蜂、掲げられるはずのない夏至祭の旗。死者の最後の一分が本当に残っているなら、改竄した日付そのものが証人になる。
セヴランは暖炉へ火を入れた。
革表紙を持って地下へ戻り、黒い頁を炎の上へかざした。羊皮紙の端が熱で反った。
それでも手を離せなかった。
父の罪を守りたいからではない。王家を愛しているからでもない。自分が三十年かけて整えた歴史が、一頭の獣の皮膚に負けることが耐えられなかった。
結局、セヴランは頁を燃やさず、革表紙を別の場所へ移した。塔の最上階、戴冠式用の白紙の年代記、その背の中へ隠した。
竜は判決を望んでいる。
ならば判決を急がせればいい。死刑という結論だけは、検察官も王家も竜自身も望んでいる。
同じ結論へ急ぐ者たちが、途中の事実に足を取られる必要などない。セヴランはそう考えた。




