3-2:かいがかんしょう
「不思議な場所……個展みたい」
めぐるさんがそう呟いて、ライトを天井に向ける。
「額縁があるかと思ったら、グラフィティみたいに直接描かれてたりもする……現代アートなのかな?あんまり詳しくないんだけどなー……」
数歩離れた先の天井には、ペンキかなにかで描かれた文字と、独創的な絵。高速道路や空き地にある、ストリート的な落書きを思い出させる。
ただ、人の名前ではなさそうだ。
そういうものよりかは、なぜかはわからないが、どこか高尚なものを感じる。
……文字通り、芸術のようだ。
「えんてぃてぃの匂いも、嫌な匂いもしないけど……このまま探索してく?」
「うーん……」
振り向く。
白い廊下の直ぐ先には、薄暗くいコンクリートの地下駐車場。ひどく冷たく、湿気は不快で、そしてどこか恐ろしい。
そこと比べると、随分ここは明るくて安心する。
暗闇は、人間の根本的な恐怖の理由に成り得るのだろうか。
「ここもまだ、れべるわん……の、旧、なんだよね?」
「多分。のーくりっぷするような感じしてないよね?道も繋がってるし……」
「じゃあ、あそこに居る敵もここに来たり、現れたりすることもあるの?」
「どうだろう?旧ってレア枠なのもあってさ、まだ色々わかんないんだよね。そういう意味では今日来られてラッキーだったけど」
レア枠、ね。
元の懐中電灯を一度足元に落とした。
煌々と輝くこの廊下の中では、強力なライトの白光すらその輪郭を失って、ただの白い丸に溶けている。それくらい、この空間は、れべるわんとしては不自然なほどに明るい。
「旧も、性質と安全な脱出ルートはわかってるよ。ただ、それはあっちを通らなきゃいけないけどさ」
彼女がコンクリートを指した。
「ジメジメして怖いけど帰れなくはないルートが有るのと、ぜーんぜん怖くないけどルートが未知なの、どっちを選ぶ?」
にこにこ。
彼女は笑っている。
こちらを試すような悪戯っぽさもあるけれど、それでも「私がいるからどうにでもなるよ」という不思議な頼もしさが同居していた。
慢心ではなく、本気でそう思ってしまうのだ。
「開拓が、目的なんだよね?進もう」
「おっけー!」
めぐるさんは嬉しそうに一歩を踏み出し、白い廊下の壁沿いを意気揚々と弾むような足取りで歩き始めた。
煌々とした光が彼女の猫耳帽子を白く縁取って、付属のピアスは反射する。
「一体誰が描いたんだろうね。人間?えんてぃてぃ?……同一人物なのか、それとも複数なのか……」
彼女が目を向けるのは、装飾はそこそこに、至って普通の額縁にセットされた抽象画。加えて言うなら、油絵に見える。というのもまあ、凹凸があってタッチがわかりやすいからという理由だけであって、実際どうなのかはわからない。
右も左も、天井も、油断すれば足元さえ絵に溢れているのに、【絵画に触る等の行為でのーくりっぷする報告がある】とは。気を引き締めなければいけない。
そう思う反面、美術館を鑑賞するようにめぐるさんは絵を見ながらゆっくりと歩いていた。
「んー……印象派、ってやつ?雑だねー」
「はは……」
美術には詳しくない。
同調しつつ、別の絵を見る。
「……乾ききってない」
思わず声が漏れた。
めぐるさんが「え?」と聞き返して、こちらにやって来る。
「この絵……まだ、乾いてない」
ライトを向ける。
アクリル絵の具だろうか、不透明の、中学だかで使った記憶がある絵の具。
それがまだぬめっている。白い光に当たって光沢が見える。
「うそ、ほんとだ」
めぐるさんは少しだけ顔を近づけ、すん、と一嗅ぎをして辺りを見回す。
右を見ても、左を見ても、煌々と眩しい白い廊下と、無数の絵画が続いているだけだ。 人の気配も、足音も、あの不快な這いずる音さえもしない。
「匂いもしないのに」
ぽつり、と彼女は呟いた。
彼女の嗅覚と直感が「普通ではない」と警鐘を鳴らしているのだろうか。
「……あ、スマホ」
ぶぶ、と僅かな振動が手に伝わる。
画面を見ると、電波強度のアンテナが一本点滅している。手繰さんからのチャットだ。
【リアルタイム生成の可能性あり】【とにかく触らないで】【どうなるのかわからないから】
どうなるかわからない、とは。
情報が好き勝手に流れてくる彼女でさえも未知なのか。
「……ばっくるーむらしくなってきたね」
めぐるさんはそう苦笑いしながらも、壁や絵画との距離をしっかりと保ちながら進んでいく。
俺も彼女の足跡を正確になぞるように歩いた。
絶対に、壁にも、額縁にも、床の落書きにも触れてはいけない。
「……?」
ふと、先導のめぐるさんが立ち止まった。
廊下の先、地面を見ている。
「紙切れが落ちてる」
ぴっと彼女が顎で指す先。
二つに折りたたまれた、手のひら前後のサイズの白い紙が廊下の中心にぽつんと落ちていた。
「あれも展示品?そういう展示もありなの?」
独り言のようにめぐるさんが笑う。
それを聞き漏らさなかったのか、直ぐに手繰さんがチャットを送ってきた。
【メッセージが残されていたという報告有り】【立体的な展示報告は現状無し】
「んー……なるほどね」
読み上げるとめぐるさんは困ったように首を傾げた。
あれはメッセージのように見えなくもないが、丁寧に二つ折りされていて、内側に何が書かれているのか、いや、そもそも本当に書かれているのかはわからない。
「拾う?」
「拾えるなら拾いたいけど、あれが展示品じゃないって確証がないからなあ……」
「今後立体的な展示物が現れるかもしれないから?」
「惜しいけど、違うよ」
めぐるさんはそう言って、小さく人差し指を立てた。
「【立体的な展示報告は現状無し】というのが、本当に無いのではなく、一気に死ぬほどのれべるに取り込まれるから報告が無い可能性ってのがねー」
「……なるほど。生きて情報を持ち帰れた奴が、一人もいないかもしれないってことだね」
俺の言葉に、めぐるさんは「正解」とばかりに指をパチンと鳴らした。音は静かな廊下に虚しく響く。
「下手すると、のーくりっぷした先はあの真っ暗闇だったりして」
さっきの、虚空。
ひたすら底のない深淵。
あそこに落ちたら終わりだ。この二折の紙切れ一枚のために命を賭けるのは、あまりにもハイリスクすぎる。
「……脅かさないでよ、めぐるさん」
「あは、ごめんごめん! でも、そういう『最悪』を常に頭の隅に置いておくのが、ここでは一番長生きできるコツなんだよ」
めぐるさんはそう言ってケラケラと笑うと、少し真面目な顔に戻って折りたたまれた紙を見つめた。
「でも、匂いはしない。つまりあれがトラップだとする場合、触った瞬間に発動する可能性が高いよね」
「さっきの穴とは違って、だね?」
「そゆこと。……まあ、あんまりそういうのってないから、可能性は低いけど……」
少し考える素振り。
それから、彼女はズボンのポケットから飴玉を取り出した。
「これ投げて、ぶつけられる?さっきみたいに」
「了解」
あの闇の中にペンを投げたように。
軽く腕を振って飴玉を紙に投げつける。
こてん、とそのままぶつかって、転がって行った。
「物ならセーフってわけねー?」
めぐるさんはそう言うと、小さなバックからドライバーを取り出した。
至って普通の、百円ショップとかにすら売っている、マイナスとかプラスとかが複数セットになっているもの。
「これでもアウトな時はアウトだけど。手伸ばすから、離れてね」
彼女は身体を伸ばし、紙から最大限距離を取ったまま、慎重にドライバーを動かす。
かさり、と紙がズレる音。
「……大丈夫だったね」
何も起きない。
空間が歪むことも、足元が抜け落ちることもなく、紙切れはあっけなく開かれた。
「なんて書いてある?」
「えっとね……」
めぐるさんが向きを調整し、内側のページを俺たちに見えるように開く。
「……はろー、うぇるかむ、……矢印?」
「矢印?」
↑。
真っ直ぐ、この先だろうか?目線を上げて廊下を見るが、なにも変わらない、と思う。
「うえ……?」
めぐるさんが困惑しつつも上を見上げた。
「あ」
彼女から漏れ出た声。
俺も合わせて見上げる。
そこには、スプレーで書かれている絵があった。
絵、というよりかは、黄色く、楽しげに縁取られた文字にも見える。
「さっきまでこんなのあったっけ……?」
「無かったと思う、けど」
めぐるさんは動かない。ただ見上げている。
「匂いがしない。えんてぃてぃも、別のれべるみたいな匂いも、なにもしないの。どういうこと……?」
めぐるさんの嗅覚は、感情や異物の痕跡を捉えるはずだ。
それが無いということは、危険が存在しないのか、それとも危険という概念すら超えた何かがあるのか?
俺も天井の文字をじっと見上げる。
「ひーくん、見えてる?」
めぐるさんが珍しく、不安げに低く呟いた。
彼女のヘッドホンからは、僅かにザザッ……ザザザッ……と、砂嵐のような激しいノイズだけが響いている。
完全に通信が死んでいるのだろうか。
いや、違う。 スマホを見ると、画面が青く明滅していた。
「なんだ、これ……!?」
明らかに異様な挙動だ。
スマートフォンの画面そのものがバグっている。
色も文字もブレて動き回る画面の中で、辛うじてひとつのメッセージが読み取れた。
【ふぁんだ】
「ふぁん……?って、めぐるさん」
「あは、そういうこと……」
めぐるさんの乾いた笑い声。
彼女の視線を追いかけて、俺はもう一度天井を見上げた。
黄色いスプレーで描かれた絵。
最初はただのグラフィティだと思っていた。けれど、それはたぶん、手描き特有の歪んだ、丸い——
『:)』
ただの記号だ。笑顔を模した、たった二文字の海外圏でよく使われる顔文字。
なのに、それを見た瞬間、背筋の凍るような悪寒が頭頂部から一気に駆け抜けた。
「……遅かったみたい」
めぐるさんがぽつりと呟く。
彼女の鼻が、ぴくりと小さく動いた。
「なにが、匂う……?」
「甘い匂い」
いつもの余裕ある笑顔じゃない、腹を据えたような、覚悟の目。
それでも笑っていた。
彼女は、真っ直ぐに、笑っていた。
「ゴム臭い風船。酸っぱくて甘ったるいショートケーキ。ちょっとだけカーペット。それから、生臭い血肉」
確かめるみたいに彼女は鼻を動かしては言葉にする。
「ひーくん、連絡よろしく」
めぐるさんがヘッドホンに語りかける。
なんの、と俺が聞く前に、地面がぶれた。
ぶれる。
テレビのノイズみたいに、アンテナが強風で揺れた時のように、ぶれたのだ。
「話くん」
言葉が鼓膜を打った直後、視界が強烈に明滅した。
空間そのものが古いブラウン管テレビのノイズのように激しく縦揺れする。
さっきまで煌々と廊下を照らしていた整然とした白いLEDの光が、唐突に狂ったように明滅を始めた。
「くるよ、のーくりっぷ」
ばちっ、ばちっと耳を刺す高周波のスパーク音。
同時に浮遊感が襲う。
のーくりっぷの時と同じ感覚だ。
足の裏から地面の存在がふっと消え、全身の血が一気に頭へ駆け上るような不快な落下の感覚。
視界を埋め尽くしていた眩しい白光が、次の瞬間にはどろりとしたカラフルな原色へと明滅して変わっていく。
「逃げ切ろうね」
めぐるさんの言葉が届いた瞬間、世界が上下左右の概念を失って反転した。




