3-1:しんえんをのぞいたり、しんえんじゃなかったり
歩いても歩いても歩いても。
辿り着かない。
ただ黄色い壁だけだ。
いや、そもそもゴールなんてあるのだろうか?
帰りたい。
帰る場所が本当にあればの話だが。
——前略。
また落ちた。
とは言っても、今回は半分故意だ。いや、逆に言えば半分は故意では無いけれど。
来たくて来る人間が何処にいるだろうか?
溜息。
「ふふん、嫌そーな顔」
横から笑われた。
そう、今回は同行者がいる。
変わらない猫耳帽子と小さな腰掛け型のバック、動きやすそうなスニーカー。今日は古着らしい柄のシャツに、丸くて薄青の伊達眼鏡を襟に付けている。
白黒めぐるさんだ。
「二週間?一週間だっけ。短期間に三回目。れべるぜろもそろそろ慣れたものかな?」
目的は二つある。俺の後遺症を確認するのが一つ。もう一つは、ばっくるーむの開拓。
花屋敷さん曰く、「安全に帰宅出来るルートもれべるも未だ大いに情報が足りていないのです」との事。
安全に帰宅するためのルート検討で危険な目にあったら本末転倒だろうとは思うけれど。
準備してからここへ来るのと油断している時にここへ来るのなら、圧倒的に後者の方が不利だ。
「——右、行き止まり」
耳元の有線イヤホンからは標識の声。ミュートだけど手繰さんもいる。花屋敷さんと、未だ出会っていないもう一人はお休みらしいけれど……今日も今日とてナビゲートしてくれている。
有線は引っ掛ける危険性があるけれど、無線より速く、混線せず、安定して繋がるからと買わされたもの。
服の中にコードを通せばいいよというのはめぐるさんからの教えだった。
「りょうかーい。扉あったら教えてねー」
俺はミュートだ。耳だけの状態だから、めぐるさんが返事をする。
彼の後遺症は、電波を繋いでいる時に、ここの音や映像がダイレクトに届くものだと言うけれど。
どんな感じで映像が届いているのだろうか。
俺たちには見えない道の先が見えているのだから、少なくとも、俺たちの視点を介しているものではないらしい。やはり俯瞰的な視点?どこかに第三の目になりうる監視カメラか何かがあるのだろうか。
キョロキョロと天井を見回しても、何も変わらないただ黄色い壁。
よく見ると矢絣に似た模様が書かれているが、パターンなだけの意図はなさそうな柄だ。
歩く度に、柔らかいカーペットの上を土足で踏んづけているという日本人特有の罪悪感が芽生えているのは、こんな悪夢みたいな場所にすら慣れてきた証拠だろう。
「今日は運が悪いなー……ぜーんぜん見つかんないね、のーくりっぷ先」
「はやく見つけてくれ……そろそろ頭痛がしてくる。れべるぜろはうるせえんだよ」
「こればっかりは運だからなー。安心安全にゆっくり歩くとどうしても探索速度は落ちちゃうし」
めぐるさんはそう言って伊達眼鏡のフレームを軽く叩いた。伊達なんて邪魔なのではと思いつつ、人のオシャレに口を出す余裕ほどは無いのだ。
それよりも。
手繰さんの話通りなら、ここ『れべるぜろ』の地形は流動的。らしい。
標識が今見ている——と、思われる俯瞰視点も、俺たちが一歩進むごとにリアルタイムで書き換わっているのかもしれない。終わりのない迷路を、目隠しで歩かされているような徒労感が足の裏からじわじわと這い上がっている。
「……あ?」
ふと、標識がイヤホン越しに声を漏らした。
「ひーくん?」
「いや、一つ先の十字路の左、なんか変だ」
「変?」
俺が呟くのと同時に、めぐるさんはすん、と鼻を鳴らした。
後遺症。
感情や痕跡を嗅覚で辿れる、らしい。
「匂いは特にしないけど……話くんは?なんか気になる部分とかある?」
「なんにもわからないよ、俺は……」
「後遺症のヒントもなし、と。えんてぃてぃの匂いはしないし、行ってみよっか。ナイフの用意だけしててね」
二週間前の講義を思い出す。
――絶対に感覚を信じないでね。
手繰さんが言っていた三つ目の鉄則が、黄色い壁の奥からリフレインしている。
「ひーくん。変っていうのはどういう感じ?」
「あー……伝わるかわかんないけどさ、見えてるのに見えない、みたいな。とにかく異質と感じるんだよ」
「見えてるのに見えない?」
俺はポケットの中で万能ナイフのグリップを握り直した。
蛍光灯のジジ、というノイズが耳鳴りに似ていて、嫌でも耳に入っていく。
慎重に十字路へと向かう。異音は無い。
めぐるさんを先頭に、曲がった先。
「……あれ」
俺の口から、自然と声が漏れていた。
黄色い壁の一角。
床から一メートルほどの高さの場所に、大人の頭程度の、どす黒い歪みなようなものがぽっかりと浮き出ている。
本当に、それだけなのだ。
それだけで済ますには済まされない事象なのに、そうとしか説明ができない。
そうとしか感じられないのだ。
何事もないようにただあるだけ。
「うわぁ、気味悪いね。ひーくんどう?見えてる?」
「見えてるけど見えてねえ。俺視点じゃさっきと変わりなく見えてるよ」
「紛らわしいなーもぉ……たぐー居る?こういう黒い歪みっぽいのーくりっぷポイント、都市伝説の方で情報ある?」
「調べるってさ」
標識から返答。
逐一チャットを確認するのは手間なため、中継地の彼がチャットの内容を読み上げてくれているのだ。
「あー……白、その染みから何の匂いがする?」
「匂い?これから?」
めぐるさんが不可解そうに、またすん、と鼻を鳴らした。
その表情が、一瞬で引き締まる。
「……無味無臭」
めぐるさんはそう言って、襟にかけていた薄青の伊達眼鏡のフレームを小さく直した。
その瞳の奥には、好奇心よりも明確な警戒の色が浮かんでいる。
「れべるぜろの壁ってさ」
めぐるさんが一歩後退る。
恐怖ではなく、警戒の割合のほうが近そうな動きではあった。けれど、着実に距離を取る。
「薄汚い、ちょっと湿った匂いとか、カビ臭い匂いが常にしてるんだよ。 無味無臭って、そういうことだよ」
「あそこだけ、空間が無い、ってこと……?」
「たぶん。……話くん、運動神経って良い方だよね。これ、あそこに投げてみて」
彼女は胸ポケットからペンを取り出した。
百円ショップにも売っているような、在り来りな黒いペン。
「わかった。……えいっ、と」
軽い力で投げつける。
そのペンは、目論見通りその黒に命中した。
命中して、消えた。
「……吸い込まれたね。やっぱり判定が無いんだ。ひーくん見てた?」
「見てた。タグからも返答。【おそらく、Backroomsにおけるノークリップの変異種】【虚空】【文字通り、虚ろな空で何もない。光も闇も、天井も床も壁もない】【落ちたら最後、出る術も死ぬ術もなく落下し続けるだけ】【危険度MAX】……だとよ。離れろ」
「ふうん」
ふうん。
めぐるさんは本当に軽くそう返した。そして、バックからチャック付きのビニール袋に入った一本のクレヨンを取り出す。赤色。
どす黒い歪みの走る壁から距離を保ったまま、床のカーペットに大きく『×』の字を描きつけた。
手慣れたものだ。こうして彼女たちは、地雷原に一つずつ標識を立てて、現実世界へと生還してきたのだろう。
「このクレヨンの文字が消えなきゃ良いんだけどねー。さ、話くん、迂回しよっか。たぐーもありがとね」
クレヨンで描かれた真っ赤な字を背に、俺たちは元来た通路へと引き返した。
何も変わらないように。当たり前のように。
ただ壁に黒い歪みが浮いているだけ。音もしない。引き寄せられるような重力もない。
けれど、もし躓いて倒れ込みでもした先があそこだったら。文字通り終わりだったのだ。
「怖い?」
「そりゃ……」
「ま、そっか。別に今日はれべるぜろの開拓も目的の一つだから、無茶せずにのんびり行こうね」
今日は、か。
俺は笑顔を返して、それ以上は何も言わずついて行った。
「めぐるさん。今までああいうのって見たことある?ああいう、罠みたいな……異物」
「んー、あれは初めて見たけど。でも、急に現れる部屋とか、絶対アーモンドウォーターが落ちてる十字路とかはたまに見るよ」
「そんな、ゲームみたいな……」
「ほんとだよねー」
軽口を叩きながらも、俺たちの足は止まらない。
角を曲がり、また同じような黄色い壁の直線に入る。蛍光灯のジジ、ジジという細かなノイズ。
ここまで道が似通っていると、方向感覚も、水平感覚さえおかしくなりそうだ。
「……あ、話くん。あれあれ」
前を歩いていためぐるさんが、急に足を緩めた。
彼女の視線の先。
数十メートル先の、狭い十字路。
その真ん中に、ぽつんとなにか置かれている。
「さっき言ってたやつ?」
「そうそう、噂をすればってやつ?」
近づくにつれて、その物体の輪郭がはっきりしてくる。
床の汚いカーペットの上に、不自然に直立した白いアルミ缶。
めぐるさんがしゃがみ込み、慣れた手つきでそれを拾い上げた。缶の表面を指で軽く擦る。
「ぱっと見は平気そう。話くん、これバックに入れられる?」
「うん、入りそう」
受け取った缶は、冷蔵庫から出したばかりのように冷えて、結露が指を伝って落ちる。
なぜ、誰もいないこんな場所に、冷えた飲料水が生えてくるのだろうか。
仕様書、変容、アップデート。手繰さんの言葉が脳裏をよぎって、頭を振った。
「いつも通りなら、ここを右に行けばれべるわんへのポイントがあるはず。不思議だよね、変わる部分と変わらない部分があるって」
独り言のように呟いた彼女。
俺は缶をリュックのサイドポケットにねじ込み、彼女の背中に続く。
角を曲がる。何も変わらず続く狭い通路。
の、左の壁。
自動ドアのような風体の扉があった。
「あっ……なるほど、今回はそっちね」
彼女は自動ドアの前に立つ。
が、特段それは動く様子は見せなかった。
「ひーくん。進んで大丈夫?わんの、旧みたいだけど」
「あー……電波悪くなるかもしれないけど、どうする?」
「あっちならまあ、一応無事なルートはあるし……話くんへの解説も兼ねて行こうかな」
「了解。タグ、今のうちにチャットに書き込んどけ。チャットのほうが繋がりやすいだろ」
よくわからない会話をしている。
取りあえずと、俺は自動ドアの向こうを覗き込む。
自動ドアには似つかない曇りガラスのその向こうは、濁った闇でよく見えない。
「話くん。今から行くのは、れべるわん。ただし、この前行ったれべるわんとは違うわんでーす」
ぴっと彼女はまた猫耳帽子の耳部分を立てた。どこからどう見ても猫だが、彼女の中では完全な犬らしい。
「なんていうのかな。ばっくるーむもね、れべるが派生しているの。今回行くのは、スタンダードじゃない方」
「スタンダードじゃない方?」
俺の疑問に答えたのは、耳元の有線イヤホンから響いた標識の声だ。
どうやら、手繰さんが入力した言葉を読み上げているらしい。
「【れべるわん、旧】あー、これはおれたちが勝手に名付けてる。旧っていうのは、派生系の合図。【通常のれべるわんと大きな違いは無いが、廊下が生成されることがある】【光がもっとも安全】【絵画に触るなどをすると、別のれべるへのーくりっぷした報告が複数】……だそうだ」
「懐中電灯が必要ってわけね」
光が最も安全。
俺はリュックからずっしりとした重みのそれを取り出す。前回貰った懐中電灯は、電池を交換済みだ。
試しに一度電源をつければ、カチリという音とともにしっかりとした光が照らし出される。眩しいので、一度消すが。なかなか高性能だ。
「準備は良い?行こうか」
めぐるさんは躊躇なく自動ドアの隙間に指をかけた。
軽い力でぐっと横へスライドされる。
「……っ、冷た」
思わず身震いする。
流れ込んできたのは、まるで冬の真夜中の地下駐車場に迷い込んだかのような、ひんやりと張り詰めた空気。
けれど、扉の先は何も見えない。
闇だ。
「うん、空間の匂いがする。少なくともさっきの深淵じゃあない。のーくりっぷ出来るよ」
「のーくりっぷ……また、落ちなきゃいけないのか」
「わたしは落ちる感覚はないんだけどなー。ここは個人差だから……どんまい」
めぐるさんはそう言うと、吸い込まれるように真っ暗な曇りガラスの向こう側へと一歩を踏み出した。
「じゃあ、お先に」
彼女の小柄な背中が闇に溶けて消える。
俺は生唾を飲み込み、懐中電灯を強く握りしめて後に続く。
ドアを跨いだ瞬間、浮遊感はいつもよりかはなかった。
ただ、一歩踏み出した足の裏が、さっきまでの柔らかいカーペットではなく、冷え切ったコンクリートのザラついた感触を捉える。
捉えたは良いものの、体の中が落下する感覚に襲われて、尻もちをついた。
振り返ると、今しがた潜ったはずの自動ドアは綺麗さっぱり消え失せていた。あるのは、湿ったコンクリートの冷たい床、壁、そして剥き出しのケーブルに豆電球。
見えなくもないが、決して明るいとは言えない暗さだ。
「――話くん、ライト付けて」
後方からめぐるさんの声。
慌ててスイッチを入れる。
カチリ、と静かな音が闇を裂き、鋭い白光が前方を照らし出した。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
そこは、見渡す限りの広大な地下駐車場だ。
けれど、車の一台も止まっていない。天井には無数の太い配管がのたうち回り、周期的にトタン、と水滴が落ちる音がする。足元には水溜りも見える。幸い俺の近くにはなかった。
「れべるわんと似てる」
「ま、旧だしね」
「旧っていうのは、何を以て?」
「んー、たぐーがなんか、統合される前の古いデータって言ってたけど……ひーくん知ってる?」
彼女が自身のヘッドホンに向かって話しかける。
ジジ、ザザ。
耳元のイヤホンから、砂嵐のようなノイズが走った。
「あー……聞こえ……か?旧……波が悪……チャット……が良いな」
「ありゃ。話くん、チャット見られる?わたしは警戒しておくからさ」
「わかった。ありがとう、めぐるさん」
めぐるさんが懐中電灯の光をコンクリートの回廊の奥へと走らせるのを横目に、俺はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面の輝度が、この薄暗い闇の中で嫌に眩しく目を刺す。
アプリの【通信時チャット】の画面を開いておく。大した情報はないが、一応【無事れべるわんの旧にのーくりっぷ済み】とだけ打っておいた。
「今のところえんてぃてぃの匂いはしないし……物資を探しつつ、目標は廊下にしようか」
「こっちの旧にも、アーモンドウォーターとかが現れることがあるの?」
「うん。廊下以外はあんまり変わんないよ。とりあえずは進まなきゃね」
それはそうだ。
めぐるさんのスニーカーが、水溜りを避けて規則正しい音をコンクリートに響かせる。
俺は片手に懐中電灯、もう片手にスマホを持ったまま、数歩後ろを付いて歩いた。画面の端では、電波強度を示す棒が二本。立ったり消えたりを繰り返している。
「光がもっとも安全、ねぇ……」
めぐるさんが天井を見上げる。
剥き出しの配管の隙間で、数メートルおきに小さな豆電球が頼りなくオレンジ色の光を放っていた。
暗い。
けれど、先ほどの虚空に比べれば、光があるというだけで安心感が胃の腑に落ちてくる。
「ま、沿って行こうか。あっちかなあ」
しばらく歩いていると、めぐるさんが不意に足を止め、すんと小さく鼻を鳴らした。
懐中電灯の光が、コンクリートの支柱の影を鋭く照らし出す。
そこには、これまで延々と続いていた無機質な駐車場の壁とは明らかに異質があった。
幅は人が四人通れる程度の広さ――学校の廊下程度。
コンクリートの壁がそこだけ綺麗に切り取られたようになっており、その奥へと白い道が続いている。
「……これかな、廊下」
明らかに異質。
けれど、たしかにそこにある。
その廊下は、今いる場所よりも煌々と電気がついていた。豆電球ではなく、LEDにすら見える。
「たぐー、ひーくん。見えてる?入っていいかな?」
入力中、の文字。
標識がなにか喋るのと同時に強まるノイズ。
【大丈夫。多分】
画面に浮かんだ手繰さんの文字を読み上げると、めぐるさんは「たぐーの『多分』は心臓に悪いなあ」と苦笑しながらも、躊躇なくその白い廊下へと足を踏み入れた。
俺もその背中に続く。
「……絵?」
絵だ。
落書きではない。
なぜかそう思う。
その廊下は、あちらこちらがアートで彩られていた。




