番外編1-④.脳ある悪魔は、優しく微笑む
「それじゃあ清継君。
協力する気になったら、今日の放課後、生徒会準備室に来てくれ」
「どうして生徒会室じゃなく、準備室なんです?」
「新たに盗難被害を訴えている生徒が三人来る予定でね。
生徒会室だと少し手狭だろう?
彼らの証言を、そこで聞いてやってはくれないか」
「……気が向いたら」
「必ず向くさ。
君は良い人だからね」
その一言が、妙に耳に残った。
昼休みが明け、
五限目の授業が始まっても――
来栖先輩とのやり取りは頭から離れなかった。
放課後に、盗難被害を訴える生徒が三人来る――
その事実が、彼の言葉に現実味を与えてしまっている。
本当に、この学校で盗難事件が起きているのだろうか。
朝一番、
圭吾はスパイクが行方不明になったと言っていた。
念のため、昼休みにもう一度様子を尋ねてみたが、
依然として見つかっていないらしい。
ただの偶然だと思っていた。
だが、もし――
圭吾のスパイクも、
恋花の探し物さえも、
すべてが一本の線で繋がっているとしたら。
来栖先輩に協力することが、
結果的に二人の助けになる可能性もある。
そう考えた瞬間、自分の思考が彼の用意したレールに乗せられている気がして、
胸の奥がわずかに軋んだ。
脅しとも取れるやり方に屈したようで、どうにも癪だ。
――まだだ。
もう少し、考える余地はある。
予鈴が鳴り、
やがてすべての授業とホームルームが終わった。
生徒たちは教室を後にし、
部活へ、家へ、街へと、それぞれの放課後へ散っていく。
机や椅子が引きずられる音が遠ざかっていく中、
俺はまだ、自分の席から動けずにいた。
「なあ、恋花。
お前が朝に言ってた忘れ物って、結局なんだったんだ」
「急にどうしたの? ただのケア用品よ。
絆創膏とか、テーピングテープとかをまとめてあるポーチ」
一拍。
「備品にもあるし、無くてもそんなに困る物じゃないけど」
「ポーチの見た目は?
明らかに金目の物が入ってそうとか、ブランド物とかじゃないよな」
そう尋ねると、
恋花はくすりと喉を鳴らして笑った。
「そんな訳ないでしょ。学校に持って来る物よ?
むしろ逆。透明で、中身が全部見えるやつ。
かなり前に均一ショップで買ったの。
……もしかして、盗まれた可能性まで考えてた?」
「ま、まあ……」
「あはは。
さすがに大袈裟すぎ!」
小馬鹿にするような笑い方だった。
盗難事件の存在を知らなければ、
確かにそう聞こえるだろう。
ともあれ、本当に特別な物でなくて良かった。
これで、今のところ俺の知る限り。
事件に巻き込まれた可能性のある二人――
恋花と圭吾の失くした物は、どちらも金目の物ではないことが分かった。
圭吾のスパイクは一見それなりの価値がありそうだが、
本人は今朝こう言っていた。
――結構ボロいやつだったから、捨てられてなきゃいいけど。
ならば、これも除外できる。
問題は、被害に遭ったという来栖先輩の件だ。
盗まれたのは、鍵の入ったホルダー。
仮に偶然拾ったとしても、
普通なら職員室に届けるべき物だ。
それを持ち去るという選択をする人間は、
拾った瞬間から「何か」を考えている。
俺が犯人だったとしても、
ポケットに入れているだけで、常に胸の奥がざわつくだろう。
これほど性質の違う失せ物が並ぶなら――
やはり、圭吾と恋花の件とは無関係なのか。
頬杖をつきながら思考を巡らせていると、
恋花がふいに口を開いた。
「でも、ありがとう。
気にしてくれてたんだ」
「そりゃそうだろ」
肩をすくめる。
「もし盗難被害に遭ってたら、今日は真っ直ぐ帰れない。
恋花のスカートに変態教師の魔の手が迫っては困るからな」
「……何、変な本でも読んでるの?」
「こっちの話だ。
気にしないでくれ」
危ない。
エロ同人誌は、俺の脳内だけに存在するものだった。
とはいえ――
恋花が事件に巻き込まれていないのだとすれば、
俺が来栖先輩に協力する理由も薄れる。
確かに脅された。
だが、鍵を失くしたという事実を知っているのは、
今のところ俺だけだ。
先輩には悪いが、
この情報を盾に脅し返すことも出来る。
目には目を。
歯には歯を。
善人のままでいるのは、時に損だ。
よし。
「俺も帰るかな。
恋花、この後部活か?」
「ううん。今日はグラウンド整備で休み。
ここ最近、雨降ってたから」
「じゃあ、一緒に――」
「あ、でも今日ミーティングあったかも!
先行くね、バイバイ平等院くん」
「だから誰だよ。誰が十円玉だ。
てか、お前さっき部活休みって言ってただろ」
どうやら俺と過ごす帰り道は、
十円の価値にも満たないらしい。
恋花は、俺と肩を並べる未来を拒否するかのように、
そそくさと荷物をまとめて席を立った。
まあ、普段から距離を置かれている。
二つ返事で「いいよ」と言われる方が、よほど不気味だ。
俺も帰ろう。
そう思って、机に掛けていた鞄を手に取る――
その瞬間だった。
違和感。
決定的に、何か違う。
「……何でだ」
自分でも驚くほど上擦った声が出た。
それが聞こえたのか、
教室を出かけていた恋花の足が、ぴたりと止まる。
「……?
汐森、君?」
「無い、無い、冗談じゃない……。
どこだ。落としたのか? そんな筈は――」
自分でも分かるほど、取り乱していた。
気が付けば、
鞄の中身を机の上にぶちまけていたのだから。
筆箱、教科書、ノート、財布。
ありふれた物ばかりが、無遠慮に視界へ散らばる。
その様子に異変を察したのだろう。
教室を出かけていた恋花が、足早に俺の席へ戻って来た。
「ねえ、汐森君。
どうしたのよ、急に。落ち着いて」
「何言ってんだよ……落ち着けるわけないだろ。
無いんだ。無くなってる。
鞄から……弟がくれた、大切なキーホルダーが」
「……え?」
無い。
確かに今朝までは、そこにあった。
弟がくれた、大切な――いや、
もはやお守りと呼ぶ方が正しい物だ。
何年も、肌身離さず付けてきた。
無くては困る、では足りない。
無いという事実そのものが、受け入れられない。
思考が追い付かない。
手が震え、掌に冷や汗が滲む。
呼吸は浅く、速くなり、胸の奥がひくひくと痙攣する。
――おかしい。
大切な物を失くしたとしても、こんな反応は異常だ。
自分でもそう思うほど、制御が利かなくなっていた。
「汐森くん、しっかりして。
ねえ、大丈夫!?」
「はあ……、は……」
指先がじんと痺れ始めた、その時だった。
「清継くん!」
「……!」
不意に、手を握られた。
触れた瞬間、
身体の奥を電流が走ったような感覚に襲われる。
汐森でも、権現坂でも、平等院でもない。
久しぶりに呼ばれた、名前。
――それだけの事で、
荒れ狂っていた心拍が、嘘のように鎮まり始める。
どれだけ俺は浅ましく、女々しいのだろう。
名前ひとつで、
こんなにも縋ってしまうなんて。
恋花と目が合う。
澄んだ茶色の瞳の奥に、
蒼白な自分の顔が、情けないほど鮮明に映っていた。
俺は、その場で膝を折った。
「……すまん。
どうかしてた」
「うん、びっくりした。
ほんとにおかしな薬でもやってるんじゃないかって」
「心配の方向性、間違ってね。
……いや、そうでもないか」
たかがキーホルダー一つだ。
それを失くしただけで、
まるで目の前で大切な人を喪ったかのように取り乱した。
高校生にもなった男が晒すには、
あまりに見苦しい醜態だった。
教室に恋花しかいなかったのは、不幸中の幸い……
いや、むしろ最悪の不幸だ。
恋花にだけは、知られたくなかった。
俺は、多分――普通じゃない。
どこか探るような目が差し向けられる。
「えと……改めて聞くけど。
あのキーホルダー、無くなったんだよね? 弟くんがくれたやつ」
「……ああ」
「そっか」
――それだけ?
きっと、そう言いたいのだろう。
実際、それだけだ。
どれほど引かれた表情を向けられているのか、
怖くて顔を上げられなかった。
いっそこのまま、
幼い子供みたいに鼻水でも垂らしながら、走って逃げ出してしまおうか。
本気で、そんなことを考えた。
すると、恋花が言った。
「探すの、手伝うよ。
今朝まではあったんでしょ」
「……え。いやいや、おかしいだろ。
そこは普通、『それだけで喚くとかガキかよ、きっしょ』って罵って教室出てくとこじゃないのか」
「なにそれ。
そうしてほしいなら、してあげるけど?」
「いや……」
「大切にしてるの、知ってるって言ったでしょ」
恋花は、
少しだけ視線を落として続けた。
「なんかね……気付いてたんだ」
その表情は、どこか寂しげで、
今ここではない、遠い過去を見つめているようだった。
「清継君って、中学生の頃からずっと」
一拍、間を置いて。
「私には話してない事情が、たくさんあって。
知られたくもなくて。
それでも、何かを隠しながら気丈に振る舞ってるんだろうなって」
「……!
そ、そんなことない。
俺は恋花に隠し事なんて」
「ふふ、どうかしらね」
悪戯っぽく笑って、続ける。
「そのキーホルダー、特別なんでしょ?
探しましょう。
まずは教室一面、徹底調査!」
そう言うや否や、彼女は身を屈め、
まるで世界が逆さまになったかのような格好で教室を見回り始めた。
その唐突さに、
俺はしばらく呆然と立ち尽くしてしまう。
――気付かれていた。
恋花が、今までの俺の振る舞いに。
無理に明るく振る舞う癖も、
肝心な話題になると一歩引いてしまうところも。
人は誰しも、
他人に話したくない事情を一つや二つ抱えている。
信頼の上に成り立つ告白もあれば。
口にした瞬間、今まで築いてきた関係が壊れてしまうのではないかと、
怖くなることだってある。
俺は――
家族の話だけは、恋花にしたことがなかった。
ただの一度も。
静かに並び、
恋花と一緒にキーホルダー捜索を始める。
「恋花、その……
隠してたわけじゃないんだ」
「清継君の持ってるエッチな本の話?」
「ちげえよ! なんでここで性癖暴露大会するんだよ。
パワハラ職員だらけの飲み会罰ゲームか」
恋花は口許に手を当てて笑った。
それから、
床に視線を落としたまま、顔を合わせずに言う。
「清継君が話したくないことならいいよ。
詮索はしない。
そういう約束だったから」
「約束……?」
「だから今からするのは詮索じゃなくて、世間話ね。
弟君とは、仲良かったの?」
「ああ……仲は良かったと思う」
春はよく公園でバドミントンをした。
夏になれば虫取りもした。
「あいつ、カブトムシと間違えてカミキリムシをいっぱい取って来てさ。
戦慄したよ。知ってるか?
あれ、噛む力がめちゃくちゃ強いんだ」
「……そうなんだ。
気持ち悪」
秋はどんぐりやイチョウの葉を集めたし、
周りの子と同じように、ゲームだってした。
「家に携帯ゲーム機は一台しかなくてさ。
それを二人で交互に使うんだ。ミスしたら交代。
でも俺、ゲーム得意じゃないから、ほとんどあいつの独占状態で」
自嘲気味に笑う。
「早くミスするように、わざと邪魔したりしてた」
「清継君、大人気ないことするのね」
冬はかまくらを作ったり、
俺たち兄弟に、圭吾も混ざって雪合戦もした。
「圭吾は運動馬鹿だからさ。
二人がかりでも全然敵わなくて。
豪速球が飛んでくるから、よく盾にされたよ」
短く息を吐く。
「……でも、ほんと楽しかったな」
「……え」
恋花が目を見開く。
その様子に、俺の方が驚いてしまった。
「なんだよ」
「いや……清継君って、そんな風に笑うんだなって。
初めて見たから」
「そうか?
俺、結構笑う方だろ」
「うん、そうだね」
少し間を置いて、恋花は続ける。
「……ほんと、私の知らない清継君でいっぱいだ」
「どういう意味?」
「ううん、なんでも」
それから、柔らかく言った。
「それだけ大切な人から貰ったなら、必ず見つけましょ。
私、もう少し教室を見るから。
清継君は、もう一度鞄の中を探して」
恋花は床だけでなく、ロッカーの中、
そして各クラスに備え付けられた落とし物ボックスまで確認しに行く。
そうだ。
必ず見つけなければならない。
大切なお守りだ。
それがあったから、
学校も、バイトも、人助けも――何だって頑張れた。
恋花の優しさにも、応えなければならない。
それから二人で協力して捜索し、
どれくらい時間が経っただろうか。
ここでようやく、
キーホルダーは教室にはない、という結論に至った。
「清継君、今日一日、鞄はどこに持って行ったの?
もう、お昼にトイレでご飯食べに行った時に落としたんじゃない?」
「何で俺がトイレで飯食ってる前提なんだよ」
思わず即座に返してしまった。
「昼休みは食堂に行っただけだ。財布しか持っていない。
今日は移動教室もなかったし、
鞄は一度も教室から持ち出してないよ」
「……じゃあ」
恋花が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「隣の席に私が座ってるのに、
キーホルダーだけがなくなるってこと?」
――確かに、そういうことになる。
今日一日、
基本的に俺も恋花も席を離れていない。
机の周囲で落としたなら、
どちらかが気付いていてもおかしくない。
となれば、いよいよ……
あの古びた人形キーホルダーが呪いのアイテムになり、
自分の意思で歩き出した――
そんな与太話を真剣に検討しなければならなくなる。
……いや。
一つの可能性を除いて。
「恋花。
昼休み、どこで過ごしてた?」
「え? 友達と中庭だけど。
教室に戻ってきたのは、終わる五分前くらいかな。
そういえば清継君、今日戻るの結構ギリギリだったよね」
「……少し、用事があってな」
食堂から戻り、
来栖先輩と渡り廊下で話していた、あの時間。
その間。
俺も、恋花も、教室にはいない。
――まるで、
二人が席を空けるその瞬間を、最初から知っていたかのように。
胸の奥で、嫌な確信が形を成す。
どうやら例の盗難事件は、
もう他人事では済まされないらしい。
俺の大切な物に手を出した奴がいる。
ならば――
それなりの報いを、覚悟してもらおう。




