人は皆、生来のボランティアワーカー
昼休みが終わる前に、教室へ戻る。
五分前行動は社会人の基本だ――
そんな顔で、皆が口を揃えて言う。
けれど。
始業五分前にタイムカードを切ったところで、
給料が一円でも増えるわけじゃない。
仮に、将来の俺がどこかで週五日働くとしよう。
年間の勤務日数は、およそ二百六十日。
そのすべてで五分前行動を律儀に守れば、
積み重なる無給の時間は――二十二時間。
丸一日だ。
人は知らぬ間に、
視えざる何かのために、
丸一日ぶんのボランティアを差し出していることになる。
それを当然のように受け入れている人間は、
きっと生まれながらのボランティアワーカーなのだろう。
……少なくとも、俺はまだ、その境地には至れていない。
思考を断ち切るように、視線を上げる。
教室の前方――黒板いっぱいに、白い文字。
『職員会議で少し遅れます。
それまで自習お願いします!』
近島先生の字だ。
妙に整っていて、妙にやわらかい。
見ているだけで、胸の奥に溜まっていたささくれが、
少しずつほどけていく気がする。
これをいつか消さねばならない生徒は、
きっと断腸の思いで黒板消しを握るのだろう。
教室の空気は、
昼休みがそのまま延長されたかのように緩んでいた。
椅子を引く音、
紙をめくる音、
どこかひそやかな笑い声。
俺は自分の席に腰を下ろし、
ごく自然な動作を装って、隣へ視線を流す。
「なあ、恋花」
名前を呼ぶ声だけが、
ほんのわずかに――自分でも分かるほど、慎重になる。
「次の授業、夏休みのボランティア先決めるだろ。
もう考えてるのか?」
「あ、清継君帰ってきたんだ。
今日は何階のトイレでご飯食べて来たの」
「いや、トイレ徘徊が趣味みたいに言うなよ。
トイレソムリエかよ。
言っとくけど俺、一度も個室で昼飯食ったことないからな」
「そうなんだ。
中庭見てもいつもいないから、
ぼっちが恥ずかしくてトイレに隠れてるのかと思ってた」
……言いたい放題である。
ぼっちは別に、恥ずかしいことじゃないだろうに。
今どき回転寿司だって、お一人様歓迎の時代だ。
誰といるか、何人でいるかなんて――
案外、誰も見ていない。
見ているのは、たいてい自分だけだ。
「人数が多けりゃ偉いわけじゃないだろ。
本当にぼっちなのは、誰かといないと自分を保てない奴だよ」
言ってから。
ほんの一瞬、空気が沈む。
教室のざわめきが、
一拍遅れて、耳に戻ってきた。
「清継君さ」
恋花が、少しだけ首を傾ける。
「前に私をお昼に誘う時、何て言ってたか覚えてる?」
「……え?」
「一人じゃ寂しいから、一緒に食べようぜって」
「……あ」
あれ、マジじゃん。
俺、普通に恥ずかしい真のぼっちだったわ。
これ以上、それっぽい言葉で誤魔化しても、
ただの負け惜しみにしかならなそうだ。
素直に口を噤む。
その沈黙の中で、ふと一つの疑問が浮かんだ。
「ん? 恋花。
中庭を見てもいつもいないって……
昼休み、俺のこと探してくれてたのか?」
「なっ……!」
分かりやすく、身体が跳ねる。
一瞬だけ視線が泳いで、
次の瞬間には、逃げ場を塞ぐみたいに机へと落ちた。
恋花は、机の上にあった消しゴムを掴むと――
ためらいもなく、投げた。
「うるさい、黙れ!」
「あだっ」
額に、綺麗に直撃した。
感情のままに放られた消しゴムは、
自分の運命を嘆くみたいに床を跳ね、軽い音を立てて転がっていく。
恋花が反射的に掴んだのがシャープペンシルじゃなくて、本当に良かった。
床に転がる“物体”が、もう一つ増えていたところだ。
俺は額をさすりながら、
床に転がった消しゴムへと手を伸ばす。
――拾う理由は、特にない。
ただ、放っておくことが、どうにもできなかっただけだ。
「……ふむ」
恋花のあの反応。
どうやら彼女は、本当に昼休みに俺を探していたらしい。
何のために?
用があるなら、別の時間に話しかければいい。
わざわざ、あの時間帯に探し回る理由は――。
もしかして、五里と同じように。
最近、俺が一人でいることを、気にしているのか。
――それとも。
水上や階堂が口にしていた、あの言葉が。
『恋花先輩、清継先輩のこと好きだと思いますよ』
……いや。
「いや、いやいやいや。
それはないだろ。あり得ない」
「え、何急に。
あり得ないくらいキモいんですけど」
――しまった。
どうやら、ぼっちを極めすぎたらしい。
独り言と、脳内の会議の区別が、曖昧になっていた。
今は眠っていてくれ、マイ・イマジナリーフレンド。
姿勢を正し、拾った消しゴムを軽く放る。
恋花の机に、小さく音を立てて戻った。
――その瞬間。
背後から、両肩をがっしりと掴まれる。
「清っちー!
課題のボランティア、行くとこ決めたー?
ちょっち助けてよー」
「げ……階堂」
振り向くまでもない。
声より先に、香りが来る。
甘ったるい香水の匂いが、遠慮なく鼻腔を殴りつけてきた。
この手の人種は、「適量」という概念を持たない。
もはや身だしなみではなく、自己主張の一種だ。
実は風呂キャン界隈で、
体臭をごまかしているんじゃないかと疑うレベルの香水の付け方。
もはや歩く芳香剤である。
階堂はそのまま、
背後から俺の顔を覗き込むようにして言った。
「清っち、なんでそんなダルそうなん?
唯菜たち、友達っしょ」
「俺とお前が友達なら、同学年全員友達になるだろ。
せいぜいクラスメイト、よくて知り合いだ」
「薄情すぎん? 一緒に帰った仲じゃん」
「おまっ……」
やめてくれ。
明らかに、あしらうための言い方をした。
それでも引かないのは、鈍いのか――
それとも、分かっていて踏み込んでいるのか。
俺が恋花とやり直したいと思っていることを知っていて、なおこの距離感。
誤解を招きかねない言葉を、何の躊躇いもなく投げてくる。
――口にルーズソックスでも突っ込んで、黙らせるべきか。
そんな思考が冗談でなく過る。
苛立ちを隠しきれず、階堂を睨んだ――その時だった。
隣で、恋花がふっと微笑む。
「階堂さんと清継君って、仲いいんだ。意外だね」




