最期の放課後【後編】
人気者の言葉には、魔法が宿る――
そう信じて、生きてきた。
疲れ切った心を、
たった一言で救い上げることもある。
誰かの背を、
ほんの少し押すだけで、立ち上がらせることもある。
ありふれた愛の囁きでさえ、
口にする人間が違えば、それは“特別な言葉”になるのだと。
誰からも好かれ、
誰からも認められ、
羨望の視線を一身に浴びる存在になれたなら――
その言葉には、きっと“救い”が宿る。
そう、疑いもしなかった。
――もし、それが真実なら。
どうして、俺はこんな結末に辿り着いてしまったのだろう。
「はぁっ……」
息が焼ける。
肺が悲鳴を上げ、喉がひび割れる。
それでも足は止まらない。
夜の街を裂くように、俺は走っていた。
縋るようにスマホを握り、
圭吾へと発信する。
「圭吾……!」
『おい清継、急に走り出してどうした。
可愛い子でも見つけて――』
「違う!
笹本の様子がおかしいんだ。
あいつ、普通じゃない!」
『……あいつは元から普通じゃねえだろ』
「違う、違う違う! そういう話じゃねえんだよ!」
言葉が噛み合わない焦燥が、さらに息を乱す。
「全部、手放したみたいだった。
苦しいとか、後悔とか――そういうのが、何も残ってねえ感じで……」
うまく言葉にならない。
それでも吐き出す。
「やばい気がするんだよ……!」
数秒の沈黙。
やがて、圭吾の声の温度が変わる。
『……マジなやつか?』
「分っかんねえよ!
どこで間違えたんだよ……!
俺は、ちゃんとやったはずだろ……!?」
呼吸が崩れる。
「嫌われてでも、全部背負ってでも――
あいつに寄り添ったんだよ……!
俺の言葉で、救えるはずだったんだよぉ!」
沈黙。
その後、静かに返ってくる。
『清継、落ち着け。
大丈夫だ。俺がいる。
向崎も、水上もいる。お前は一人じゃねえ』
一拍。
『何が必要だ。今すぐ動ける』
その言葉に、わずかに思考が戻る。
だが――遅い。
信号が赤に変わっていることに、気付かなかった。
視界の端で、ライトが弾ける。
「――っ!」
反射的に身体を捻る。
タイヤがアスファルトを擦る音。
寸前で躱した車が、激しくクラクションを鳴らす。
怒号が飛ぶ。
何を言われているのか、もう分からない。
世界が、遠い。
俺はようやく、足を止めた。
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
心臓が、うるさい。
「……今、学校に向かってる」
『学校?
笹本のやつが、そう言ったのか』
「いや――
あいつは最後に、
『せめて、忘れないでいてほしいな』って、それだけ言った」
一拍。
「何かを起こすつもりなら――
“人の目に残る場所”を選ぶはずだ」
喉が焼ける。
それでも、断言した。
「だったら、学校しかない」
『……おいおい、冗談きついな』
圭吾の声が低くなる。
『分かった。タクシー拾って向かう。
お前、一人で突っ走るなよ』
「悪いけど、それは無理だ。
笹本と話すのは、俺じゃなきゃ意味がない」
短く息を吐く。
「お前たちは、校舎全体が見渡せる場所にいてくれ。
着いたら、状況を見て――
その時、一番必要な動きを頼む」
数秒の沈黙。
やがて、圭吾が小さく笑う気配。
『……相変わらず無茶振りすんな、お前。
でも、任せろ』
その一言に、余計な言葉はなかった。
「……頼んだ」
『清継』
呼び止める声
『……気張れよ』
短く、だが強い。
「――ああ」
通話を切る。
画面が暗くなると同時に、
世界が一段、静かになった気がした。
次の瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込み――
「――っ!」
自分を叩き起こすように、叫び上げる。
再び、地面を蹴った。
焦燥が、身体の内側からせり上がる。
意識の輪郭が、どこか曖昧になる。
走るたびに、記憶がぶつかってくる。
あいつの。
笑った顔。
苛立った顔。
どうしようもなく歪んだ顔。
――中学の頃から、ずっと見てきた。
その全てが、断片になって脳裏を掠める。
振り払うように、頭を振る。
違う。今じゃない。
全部――
まだ、終わっていない。
最悪の結末を想像しそうになる思考を、無理やり押し殺す。
そんな未来は、認めない。
認めてたまるか。
視界の先に、見慣れた校門が滲む。
――近い。
もうすぐだ。
間に合え。
ただ、それだけを胸に、
俺は走り続けた。
*
校門のシャッターは、無情にも閉ざされていた。
だが、それで引き返す理由にはならない。
俺は鞄を路上に放り捨て、
躊躇なくゲートによじ登る。
金属が軋む。
やけに大きな音だった。
――構うものか。
そのまま、乗り越える。
着地と同時に顔を上げた。
本来なら、全ての教室の窓を順に確認するつもりだった。
だが――
視界に飛び込んできたのは、二年一組。
俺たちの教室だった。
窓が、開いている。
白いカーテンが、夜風に揺れていた。
その向こう。
――人影。
「……まだ、間に合うぞ、清継……!」
言い聞かせるように呟く。
足が、勝手に動いた。
下足口へ回る。
予想通り、鍵は固く閉ざされていた。
笹本は。
今日一日、この校舎に籠城していたのか。
俺は足元の石を拾い上げ――窓に向かって迷わず振り抜いた。
クラスの嫌われ者どころか、今回はシンプルに犯罪者だ。
破砕音が夜気を切り裂き、
これで自分の人生も終わったな、と一瞬だけ思う。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、ここまで来れば振り切れる。
制服の上着を脱いで肘に巻き付ける。
残った窓ガラスの破片を叩き落とし、内鍵を開け――
躊躇なく校舎の中へ滑り込んだ。
廊下は暗い。
足音だけが、やけに響く。
階段を見上げて、思わず笑いが漏れた。
「……だからエレベーターを付けろって言ってんだよ」
生徒の声に、少しは耳を傾けてほしいものだ。
段を二つ飛ばしに、駆け上がる。
息が荒い。
心臓がうるさい。
それでも止まらない。
「――笹本!」
教室の扉を、叩き壊すように開け放つ。
その音に、彼女の肩がびくりと跳ねた。
ゆっくりと、こちらを見る。
目が合う。
「汐森……。
どうやって入って来たんだい」
「うるせえ黙れ引きこもり陰キャ女め!
俺の計画ぶち壊しやがって!
明日から俺はDVストーカー兼、不法侵入の建造物破壊野郎だぞ!
ここのメニュー全部くださいみたいな欲張りセットで、胃もたれもいいとこなんだよ!」
「はは。いいじゃないか。
代表戸締まり役兼、自宅警備課みたいで――」
「ただのニートじゃねえかあ!」
言葉を投げ合ってはいるが、
頭は冴えていなければならない。
笑い飛ばしていい空気じゃない。
異様だ。
一歩でも踏み違えれば、
すべてが取り返しのつかない方向へ転がり落ちる。
胸の奥が、じわりと圧迫されるような静けさ。
俺は視線を壁の時計へやり、すぐに笹本へ戻す。
距離、立ち位置、窓。
――まずい。
最優先は、彼女を窓際から引き剥がすことだ。
一度、意識して深く息を吸い込む。
「頼む、そこから絶対に動くな。
俺が今から手を伸ばす。
お前は何も考えず、その手を取るだけでいい」
月光が差し込む教室。
開け放たれた窓際に、
ひとりの少女が身を預けている。
普段はフードを深くかぶり、
刺すような視線で世界を拒絶してきた彼女が。
今夜は違った。
冷たさの奥に、壊れそうな柔らかさを滲ませ、
諦観にも似た微笑を静かに浮かべている。
「何も考えず、ね。
――それが出来なかったから、ここにいるんでしょ?」
「どうしてだ。
今日で全部、やり直せるきっかけを掴んだはずだろ」
「ああ、そうだよ汐森。
まさかあんたが、ここまでの芝居を打つなんて思わなかったよ。
完全にしてやられたね」
笹本は、窓枠にかけた指先に力を込める。
「これで私は、わざわざ身体に痣を作らなくていい。
可哀想な自分を、演じ続けなくていい」
一拍。
「――あんたが、全部引き受けてくれたから」
「そのための行動だ。
俺だけじゃない。恋花も、王子も――お前に手を差し伸べてる。
まだ気付かないとでも――」
「気付いてるんだよ! 」
教室の空気が、弾けた。
怒号というより、裂けた内臓をそのまま外へ叩きつけたような声。
反響が、壁にぶつかって崩れる。
その残響の中で、笹本の身体が小刻みに震え出す。
「とっくに……気付いてる……」
声は急激に細くなり、今にも千切れそうだった。
「ねえ、汐森。
いつからだったんだろうね……?
いつから、みんな……私に手を伸ばしてくれてたのかな」
焦点の合わない目が、宙をなぞる。
「高校に入ってからじゃない。もっと前から……
もしかしたら――アイドルをやってた頃にも」
「笹本……」
「私が振り払って、切り捨ててきた人たちもさ」
言葉が、少しずつ歪んでいく。
「本当は……私が気付かなかっただけで。
ずっと、手を伸ばしてくれてたのかもしれない」
喉が詰まる音。
「アイドルグループだって……和解の道はあったかもしれない。
拒絶したあんたも、向崎も、皇も……
話してみたら、やっぱり良い奴でさ」
視線が揺れる。
そこで、何かが決壊した。
「それを知るたびに――怖くなったんだよ!」
叫びが、月明かりを震わせる。
「今までの全部が、私が皆を見てなかっただけの話なんじゃないかって!
私が勝手に壁を作って、勝手に殴って、
勝手に逃げてただけなんじゃないかって!」
指が震える。
窓枠を掴む力が、白く浮き上がる。
「でも――!
今日、あんたがあんな事しなければ……!
みんな、ただの“一ポイント”で終わってたんだ!」
悲鳴が、怒りの形をして落ちる。
「あんたみたいな“一ポイント”があるかよ!」
一歩、踏み出しかけて――止まる。
「ここまで積み重ねてきたもの、全部捨ててるんだぞ!?
全部……全部……!
……あんたを“良い奴だ”って知ってた人間が、
どれだけ消えたと思ってる……」
掠れた声が、落ちる。
「……分かってるのかよ」
その問いに。
俺は、すぐに答えられなかった。
ゆっくりと、呼吸を整える。
「俺はさ……昔の親友で、好きだった子の力になりたかった」
喉が鳴る。
言葉を選ぶ余裕はない。
「だから、今日の俺の行動を後悔してない。
明日の俺がどう思うかは分からないけどな」
一度、息を吸う。
「でもさ、『選択』って、そういうもんだろ。
今のお前が苦しくても、
明日のお前がどうなるかは、誰にも分からない」
一歩、踏み出す。
「それを知るために――
お前は今、俺の手を取るべきなんだ」
短く、しかし確かに。
「理由は、それだけでいい」
笹本は、しばらく何も言わなかった。
やがて――ゆっくりと、首を横に振る。
「……私には、その手が取れないよ、汐森……
今までだって、私は何度も間違えてきた。
話し合えば変えられた未来が、きっとあったんだと思う」
言葉が、胸の奥から零れ落ちる。
「そう考えるとね……
すごく、虚しくて。苦しい」
「お前の苦しみは、一生続くものじゃない。
今は、この時間が人生の全てみたいに思えるかもしれない。
でも――必ず、救いはある」
薄氷を踏むような思いで、
俺は一歩、また一歩と彼女に近づく。
足が震えているのを、
見逃さなかったのだろう。
まるで滑稽なものを見つけたかのように、
笹本は小さく笑った。
「あっははは……必ず救いはある、か。
あんたが言うと、ほんと笑えるね」
笹本は、俺を真っ直ぐに見た。
「ねえ汐森。
あんたは――正しく救われたの?」
問いではない。
確認だった。
「誰かに手を差し伸べてばっかりでさ。
自分は、誰にも助けられてないくせに」
「俺は……」
言葉が詰まる。
「救ってやりたいから、手を伸ばすだけだよ。
見返りなんて、求めてない」
「嘘だね」
即座に吐き捨てる。
「――あんたはさ。
自分の苦しみを誤魔化すために、誰かを助けてるだけ。
“良い人”でいることで、
苦しみしか持たない自分に、意味を与えてる。
そうやって……
自分が救われた“つもり”に、なってるんでしょ」
「違う! 笹本……!
俺は、本当に……お前のことが好きだったんだぜ……?」
息を呑む。
「お前のことばっかり考えてた日もあった。
どうやって話しかけようか、どうすれば笑ってくれるか――
そんなことばっかりだ」
自嘲気味に、続ける。
「でも……
あの頃の俺は、それだけで
お前が、どんな苦しみを抱えてるかなんて、
何一つ、分かっちゃいなかった」
一拍。
ようやく、言い切る。
「……でも今なら、分かる」
声が、沈む。
熱ではなく、重さを帯びて。
「だから救いたいんだ。
お前は――
俺と、一緒なんだから」
生暖かい夜風が、窓から吹き込み、
笹本の前髪を揺らす。
額が露わになるのを嫌う彼女は、
小さな手でそれを押さえ、ゆっくりと首を振った
「私もね……最初は、あんたと一緒だと思ってた」
淡々とした声だった。
「同じ病気を抱えた仲間が出来たんだって。
だから、理解し合えるんだって。
……でもね。違ったの」
視線が、俺から外れる。
「私は……あんたみたいに、
支えられなきゃ生きていけないような、どうしようもない親を持ってない。
生きていくのに必要なものは、ちゃんと与えられてきた。
居場所も、逃げ場も、選択肢も」
言葉を選んでいるようで、容赦はなかった。
「だから。
壊れたものを必死に繋ぎ止めようとして生きてきたあんたとは――
前提が、違ったんだよ」
笹本は、背後に浮かぶ満月を一瞥した。
あまりにも完成された光。
あまりにも、満ち足りている世界。
それが、ひどく不快だと言わんばかりに、
そっと目を閉じる。
「私はね。壊れたんじゃない」
一拍。
「壊したんだ。自分で」
静かな断言。
「同じ場所に立ってると思ってたけど……
私とあんたは、同じ方向を向いてただけだった」
目を開ける。
もう迷いはない。
「本当の人気者の汐森からすれば、
私の悩みなんて、取るに足らないものかもしれないね」
「だったら――!」
「それでもつらいの! 苦しいの!
何でも持ってても、何でも与えられてても、
あんたには理解出来ないくらい――毎日が、息苦しい!
私はね――
『誰からにでも愛されなきゃ、生きていけない病気』なんだよ!?」
言い切ったあとも、呼吸は整わない。
肩で息をしながら、それでも言葉を重ねる。
「私達は、似ているようで違う……あんたのは病気じゃない。
『誰にとっても良い人で居続けなきゃ、自分でいられなくなる呪い』よ」
「な……」
「中学の汐森は、ここまでその生き方に執着してなかった」
遠くを見るような目。
「どうしてかな」
――答えられない。
反論も、否定も、弁明も。
何一つ、浮かばない。
ただ、唇だけが情けなく震える。
笹本は、そんな俺を見つめた。
憐れむように。
けれど、どこかで羨むように。
「ねえ汐森」
静かに、問いを落とす。
「その呪い――誰に掛けられたの?」
「そんな事はどうでも良い!
笹本、この通りだ!
お前が望むなら、どんな事だってする!
どんな言う事だって聞く!」
一歩、踏み出す。
「だから……俺の側に来てくれ!」
無様でもいい。
みっともなくてもいい。
もう、それ以外に残っていなかった。
――だって。
今の笹本の表情は。
あまりにも。
あまりにも、綺麗すぎた。
この世の未練をすべてどこかへ置き去りにしたような、
澄み切った空気を帯びている。
ここで引き止めなければ。
もう二度と、
彼女と交わす言葉は戻ってこない。
そんな確信があった。
笹本は窓際に座ったまま。
まるでブランコにでも乗るように、
ゆっくりと身体を前後に揺らし始める。
――四階。
下は、冷たいコンクリート。
落ちれば。
その先は、考えるまでもない。
分かっているのに。
叫びを押し殺すことも出来ず、
息を詰めたまま。
俺は――ただ、見ていることしか出来なかった。
「笹本……!」
「汐森はさあ、本当に良い人だよね。
じゃあ最後に、こんなお願いをされたら……あんたはどうする?」
その声音は、奇妙なほど穏やかだった。
答えを求めているのではない。
既に決まっている結末を、なぞるだけの確認。
「私ね、汐森の為なら何でもするよ。
どんな願い事だって聞く。本当に、どんな事でもだよ?」
沈黙が、空気の温度を奪っていく。
心臓が、嫌な音を立てた。
「だからさ……」
次の言葉は、
刃ではなく、指で潰すように――
「私と一緒に、死んでくれない?」
「……は?」
理解が、拒絶する。
思考が、意味を受け取る前に、逃げ出そうとする。
だが、言葉はもう、届いてしまっていた。
――待て。
それは、違うだろ。
俺は、救う側だ。
そう信じて、ここまで来たはずだ。
言葉で、引き止める。
それが俺のやり方で――
なのに。
何も、出てこない。
声にならない音だけが、奥で痙攣している。
その沈黙を見て、
笹本はすべてを悟ったように、微笑んだ。
「……そっか」
優しかった。
どうしようもないほど、優しい声だった。
――その優しさが、終わりの合図だった。
次の瞬間。
彼女は、躊躇いなく。
背中から、
世界を手放すように。
窓の外へ、身を投げた。
「じゃあね……汐森」
「待て――!」
一瞬。
音も、時間も、意味も。
すべてが断ち切られた。
彼女の姿は消え、
そこには、夜風に揺れるカーテンだけが残る。
――空白。
思考が、白く塗り潰される。
足が、動かない。
出そうとした一歩が、床に縫い付けられたみたいに動かず、
そのまま机にぶつかり、崩れ落ちた。
腕を振る。
床を掻く。
爪が引っかかり、皮膚が裂ける。
それでも――届かない。
たった数歩が、無限に遠い。
呼吸が乱れる。
視界が滲む。
音が、遠い。
ふと、壁の時計が目に入った。
――二十分と、少し。
まだだ。
まだ、終わってない。
万が一。
言葉が届かなかった時のための、最後の一手。
それは――打ってある。
それでも、もし。
もし、全部が間に合わなかったなら。
その時は。
――俺も一緒に、死んでやる。
這う。
床に身体を引きずりながら、窓際へ。
指先が、ようやく窓枠に触れる。
震える手で、外を覗き込む。
――そして。
視界が、崩れた。
「ああああああああっ――!」
そこに広がっていたのは、
無惨な現実ではなく――
必死に手を振る、圭吾の姿だった。
その隣に、恋花。
そして、水上。
敷き詰められた、跳び箱用のマット。
その中心で。
笹本が、呆然と目を見開いている。
――生きている。
その事実が、遅れて身体に届いた。
膝から、力が抜ける。
支えきれず、俺はその場に崩れ落ちた。
額が、床にぶつかる。
痛みなんて、どうでもいい。
「あ……ああ……っ……」
声が、壊れる。
笑っているのか、泣いているのかも分からない。
何度も、何度も。
床に額を打ち付ける。
血が滲む。
それでも止まらない。
呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
手足が痺れていく。
――遅れて。
ようやく。
生きている、という現実だけが、胸の奥に落ちてきた。
――しばらくして。
足音が、廊下を叩く。
乱れた呼吸と共に、教室の戸が開いた。
「清継、清継! 大丈夫だ! 笹本は無事だ!
今、水上たちが見てる。救急車ももう呼んだ!
――お前が救ったんだよ!」
……救った?
馬鹿を言うな。
俺は、笹本を救えなかった。
あいつは、あの瞬間。
確かに、死を受け入れていた。
結果的に、圭吾たちが下にいたから助かっただけだ。
俺たちが選んだのは、“生かす”という選択肢だったに過ぎない。
――それは、救いなんかじゃない。
命が失われなかった。
ただ、それだけの話だ。
その先に、何が残るのかなんて。
誰も、保証していない。
……それだけじゃない。
もしも、あのまま。
笹本が、死んでいたら。
俺は――
圭吾に。
恋花に。
水上に。
一生、消えない傷を刻んでいたんじゃないか。
「俺が何とかする」
あの言葉で。
あの、何の根拠もない断言で。
俺は、何を背負わせようとしていた?
言葉の魔法?
人気者?
――笑わせるな。
立場があるから、言葉が届くのか。
好かれているから、誰かを救えるのか。
どれだけ願いを込めても、誰かの“特別”になれなければ、
言葉は――無価値な、ゴミ屑なのか。
……違うだろ。
そんなはず、ないだろ。
なのに。
俺の言葉は、届かなかった。
あいつを、止められなかった。
その事実だけが。
胸の奥に、深く沈む。
抜けない棘みたいに、
じわじわと、内側を抉り続ける。
何も考えられない。
考えようとすると、全部が崩れる。
だから。
俺は――
「わあああああああ――!」
子供みたいに、声を上げて泣いた。
みっともなく。
どうしようもなく。
ただ、壊れたみたいに。
* * *
――一週間が、過ぎた。
夜間の校舎侵入。
窓硝子の破壊。
その二つの罪状で、俺は一週間の停学処分を受けていた。
笹本の件は、当然ながら学校でも大事として扱われた。
救急車まで呼ばれたのだ。
隠し通せるはずもない。
だが、表向きの顛末は、ひどく簡潔だった。
以前から「家族とうまくいっていない」と口にしていた笹本が、
精神的に追い詰められ、教室に立てこもった。
俺はその対応のため校舎に侵入し、
事故の過程で、彼女が窓から転落した。
――それだけだ。
事情聴取でも、笹本自身がそう供述したらしい。
あの日のやり取りも。
あの教室で交わした言葉も。
どこにも、残っていない。
俺とあいつの間にあったものは、
最初から存在しなかったかのように、処理された。
あれから、笹本から連絡は一度もない。
これから先も、きっと来ない。
あの日こそが。
俺たちが言葉を交わした、最後の放課後だった。
久しぶりの登校。
教室の空気は、何も変わっていないようでいて――
どこか、よそよそしい。
俺は何も考えないようにして、鞄を机に置いた。
「おはよう、恋花……今日も可愛いな……」
軽口は、反射だ。
「清継君、久しぶり……でもないか。
結構電話してたし。
それにしても、酷い顔ね」
「はは、相変わらず手厳しいね。
俺の顔の酷さは生まれつきだよ。
文句なら生みの親に言ってくれ」
「違う違う。そういう意味じゃなくて……
単純に顔色が悪いってこと。
大丈夫?」
「ああ、大丈夫。元気だよ。
食うもんも五里がほぼ毎日持ってきてくれてたし、心配いらない」
言葉だけは、よく回る。
中身は、伴っていない。
席に着くと、恋花は一瞬だけ、
笹本の席に視線を向けた。
ほんの一瞬。
だが、その“間”だけで分かる。
――あの席は、まだ空白のままだ。
「清継君。
笹本さんのこと……気にしない方がいいよ」
「だから大丈夫だって。
気にしてない、ない。もーまんたい」
「ねえ、清継君。
聞いて」
「聞いてるっての。
俺がお前の言葉一言一句、聞き逃すわけ――」
「聞いて」
短く、しかし強く遮られる。
恋花は俺を真っ直ぐに見つめていた。
逃げ場のない視線だった。
ふざける余地を与えない目。
そんなふうに見られてしまえば、自然と背筋を正してしまう。
「なんだよ」
「笹本さんのこと、気にしないで。
世の中にはね、どれだけ親身に寄り添ってみても、
どうしても分かり合えない人がいるの」
「俺の力不足を、その言葉のせいにしろって?」
「違うよ」
きっぱりと、否定された。
「清継君の想いを込めた言葉が響かなくても、
別の人が、ありふれた言葉を掛けただけで、
その人の心には、簡単に届いたり――」
一拍。
「そういうものだと思うの。
だから今回のことは、清継君の力不足なんかじゃない」
「……結局俺は、何も救えなかった」
言葉が、やけに軽く落ちる。
「威勢だけ良くて、当たり障りのない善人でいようとした結果がこれだ。
クラスからの人気まで失って、手からたくさん溢れ落とした。
……笑っちまう」
「私は、救われたよ?」
――その一言で。
心臓が、強く脈打った。
反射的に顔を上げる。
逃げ場のない距離で、
澄んだ茶色の瞳と、まっすぐに視線がぶつかる。
恋花は、確かめるように。
それでいて、どこか労わるように。
ゆっくりと、言葉を重ねた。
「私は救われたの。
清継君が“必ず解決してやる”って言ってくれた時、
背負ってたものが、すっと軽くなった」
小さく、息を吐く。
「……前にもあったよね。こういうこと。
一度や二度じゃない。
去年も、付き合ってた時も」
一拍置いて。
柔らかく、微笑む。
「清継君は、いつも手を差し出してくれた。
だから私は、何度も救われてきたんだよ」
少しだけ、声が落ちる。
「そんな清継くんが、私は――大好きだった」
過去形。
それでも、胸の奥に優しく触れる。
「だから……自分を責めないで?」
「……」
言葉が、出てこない。
けれど。
胸の奥に、確かに何かが落ちてきた。
――ああ。
多分、今。
俺も、救われた。
あの日の選択を。
ずっと、どこかで疑っていた。
もしも、あのまま。
あいつの人生が、あの瞬間で閉じていた方が――
それが、救いだったのではないかと。
そんな考えが、頭から離れなかった。
答えは、今も出ない。
きっと、これから先も出ない。
それでも。
少なくとも。
俺の選択で、恋花が救われたのなら。
それだけで。
――十分だと、思えた。
ふと、思う。
『言葉の魔法』なんてものは。
きっと――
特別な人間だけが持つものじゃない。
誰もが持っていて。
簡単に、誰かを傷つけて。
簡単に、誰かを惑わせて。
それでも時に、誰かを救ってしまう。
そんな、不確かなものだ。
だからこそ。
そこに宿るものは、“価値”じゃなくて――
“誰に届いたか”だけなのかもしれない。
もう、十分、魔法には触れてきた。
恋花も、圭吾も、水上も、五里も、王子も、先生も――
俺に言葉をくれた人間は、皆。
俺にとっての、“魔法使い”だった。
顔を伏せる。
何かを返さなければならないのに、
何一つ、言葉にならない。
その時だった。
教室の戸が、静かに開く。
ざわめきが、遅れて広がった。
「笹本さん……!?」
「――!」
反射的に、振り向く。
そこに立っていたのは。
やつれた顔に、濃い隈を浮かべた――笹本 悠里。
どうやら、俺と同じでしばらく登校していなかったらしい。
その姿を確認するや、
ある女子生徒が駆け寄り、笹本に飛び付いて抱きしめた。
「おかえり」と。
その、たった一言で。
笹本の瞳から、静かに涙が零れ落ちた。
――初めて、見た気がする。
飾りでも、嘘でもない。
ただ、そこにあるだけの。
本物の涙を。
きっと。
ようやく、受け取れたのだろう。
自分に向けられていた、手を。
この日から。
笹本はフードを被ることをやめた。
――これから先。
お前が、どうか。
幸せでいられることを。
俺は、ただ――願っている。
◇ ◇ ◇
電話が鳴った。
『水上、決めた事がある』
「自首ですか。
どうぞ」
『何のだよ!?
まだなにもしてないだろ』
「これからしでかすみたいなので、
先に促しておいた方が良かったかと思いまして」
『生きててごめんなさいって交番行けば良いのか。
さすがにお巡りさんも悲しくなるだろ』
今日は清継先輩から、電話が来る気がしていた。
だから課題も早めに終わらせて、
お風呂入って、歯磨きして寝る準備万端!
――ってしていたら、本当に電話が掛かって来ました。
超能力ですね。
私はベッドで転がりながら、尋ねる。
「またこんな時間に……
何用ですか」
『もう八月に入る。
恋花との復縁期限であるクリスマスまで、もう時間は無い。
ここから先、俺は流れに任せるのではなく、攻めに転じようと思うんだ』
まあ、そんな事だろうと思った。
「急な心境の変化ですね。
焦らなくても良いと思うのですが」
私は、どうしたいのだろう。
清継先輩が、恋花先輩を諦めるのを待っているのだろうか。
口では応援すると言いながら。
内心では、清継先輩を近くでコントロールできるポジションにいたいだけなのではないか。
なんだか、自分に腹が立つ。
清継先輩は少し笑った。
『焦ってないさ。笹本の件で、大切な人が離れるのはやっぱり嫌だと思った。
後悔する前に、恋花とも向き合っておきたい。
それに、あいつが俺を振った理由、多分他に何かある』
「良い人過ぎてつまんないってやつですね」
『ああ』
清継先輩は、
ちゃんと好きな人と向き合おうとしている。
――なのに私は、なんて姑息で小さな人間なんだろう。
私も、私に出来ることをしなければ。
立ち上がり、自室の窓を見る。
「私もそう思います。
清継先輩が振られたのはそんな理由じゃない筈です」
『え』
「この前、四人でファミレスに行った時のことです。
私が高校入学後、初めてお二人のやり取りを見ました。
その時、私が感じたことを正直に伝えます」
『なんだよ、怖いなあ』
私もいつか、この気持ちと決別しなくてはならない時が来る。
だから意を決して、言った。
「恋花先輩、
清継先輩のこと、好きだと思いますよ」
『……は?』
窓に映る私の顔は、
本当にどうしようもない人間を見るようで。
耳に残る清継先輩の間抜けな声を。
抱きしめるように――私は唇を小さく締め上げた。
第二章、言葉の魔法 完
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第二章、読了ありがとうございます。
ここまで読み進めてくださった方は、
きっと本作に、何かを見出してくださった方なのだと思います。
ラブコメを冠しながら、この主題。
昨今のWEB小説は――
一話ごとの即時的な快楽。
明快なカタルシス。
ながら読みでも追える速度感。
そうしたものが、求められているのかもしれません。
ですが。
私は、「何者かになるため」に文章を書いているわけではありません。
だからこそ、
これからも本作でしか書けないものを、
静かに書き続けていこうと思います。
どうか――
最後に辿り着くその時まで、
隣を歩いていただけたなら、嬉しいです。
るろ




