最期の放課後【前編】
七月ともなれば、日は長い。
部活動を終える頃になっても、
空はまだ橙色を保ったまま、街をやわらかく照らしている。
街灯がぽつぽつと灯り始める時間帯。
本来なら、帰宅を急かされるはずの光景だ。
けれど、この季節だけは違う。
それはまるで――
今日一日をやり切った学生たちを、等しく照らすスポットライトのようで。
終わりではなく、続きを許す光だった。
きっと、皆も同じように感じているのだろう。
家路へ向かうというより、
これからどこへ遊びに繰り出そうか――
そんな軽やかな足取りが、あちこちに散っている。
……俺一人を、除いて。
胸の奥に沈みかけたその事実を、
無理やり掬い上げるように――
「いやあ、にしても!」
やけに大袈裟な身振りで、圭吾が声を張り上げた。
「この四人で帰りが一緒だなんて、いつぶりだよ!?」
「圭吾先輩。《《四人で》》って言ってる時点で、分かってて言ってますよね。
中学以来しか、あり得ないじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどさあ」
肩をすくめながら、圭吾は笑う。
「でもさ、清継と向崎、それに俺と水上だぞ?
今となっちゃ激レアメンバーだろ。あとで写真撮ろうぜぇ」
軽口に、恋花が一拍置いてから口を開く。
「瑞希ちゃん、ごめんね。急に誘ったりして。
予定とか、なかった?」
「ああ、いえ。全然大丈夫です。
今朝の清継先輩の“武勇伝”を聞かされてしまえば、
さすがに心配になりますし」
「あはは……私も同じこと思って」
恋花は苦笑して、肩を落とす。
「放課後、殻に閉じこもってた清継君を、ようやく引きずり出せたところなの。
あのままだったら、普通に教室で寝泊まりしてたと思う」
「それは、だいぶ重症ですね」
水上が、わざとらしく俺の顔を覗き込んでくる。
少し間を置いてから、明るい声で。
「清継先輩、生きてますか〜?」
……軽い。
心配しているというより、呆れている調子だ。
まあ、無理もない。
俺は、水上が合流するまでのあいだ、
ずっと教室に引き籠もっていた。
机に突っ伏したまま、
時間の感覚も曖昧になって――
部活帰りの恋花が来て、半ば強引に引きずり出されなければ、
本当に、そのまま夜を越していたかもしれない。
何せ――心はもう、ボロ雑巾だ。
朝の一件を経て、
笹本は、皆に心を開く“きっかけ”を手に入れた。
身体のアザの責任は、
すべて俺に押し付けられ。
叩かれるべき、分かりやすい悪人が一人――出来上がった。
そのおかげで、彼女が積み重ねてきた嘘は、
ひとまず帳消しになる。
――いつだったか、あいつは頭を抱えて言っていた。
「私は、どうすれば良いんだ」と。
きっと、やり直すための“理由”が欲しかったのだろう。
この茶番の代償として。
俺は今日一日、触れてはならず、話しかけてもいけない――
禁忌の存在になった。
……まあ、いい。
その代わりに、
笹本を救うための“決定打”は打てたはずだ。
後悔はない。
――多分。
いや、少しはある。
精一杯、か細い声を絞り出す。
「お構いなく……
じきに、良くなりますので……」
「うわ、蚊の羽音みたいな返事ですね。
間違って叩かれないようにしてくださいよ?」
「大丈夫……今日はもう、十分叩かれたから……」
一拍。
「“汐森は女に手を上げるクソ野郎”だってさ。――はは」
「「……」」
……滑った。
少しでも空気を軽くしようとした自虐だったが、
返ってきたのは、葬式みたいな沈黙だけだった。
冗談にするには、まだ生々しすぎるらしい。
これが本当の虫の息、ってね。へへ。
重く沈みきった空気を振り払うように、
圭吾がぱん、と手を叩いた。
「そ、そうだ! せっかくまた四人なわけだしさ。
中学の時みたいにファミレス行こうぜー」
「懐かしいですね!
あの時は清継先輩が恋花先輩に熱烈アタックして、
やっとご飯OKもらえた日でしたよね。
……あれ、でも何で私と圭吾先輩まで一緒だったんでしたっけ」
その言葉に、
記憶の底が、ぬるりと持ち上がる。
あの日の空気。
あの時の声。
俺は、躊躇いなく復唱した。
一言一句、違えずに。
「『汐森君と二人きりは嫌だから、
あと二人くらいお友達を連れて来てよ。
それから今日で誘われるの十回目だから言うけど、もう誘わないで貰える?
正直、しんどい』」
「……私、そんな事言った?」
「言ったよ!
俺、びっくりしすぎて失神しかけたもん。
あの日はな、最後のお情けで承諾された“悲しみの晩飯”だったんだぞ」
一拍。
「何も喉を通らないし、涙で全部、やたら塩辛く感じたわ」
「そ、そうだっけ……ごめんごめん」
恋花は、軽く笑って取り繕う。
その仕草は、今も昔も変わらない。
けれど。
その笑顔の裏で――
当時の俺がどれだけ必死だったかなんて。
きっと、もう。
覚えてはいない。
すると、後頭部で手を組みながら、
圭吾が呆れたように口を挟んだ。
「でもよー向崎。何でその日が最後にならなかったんだ?
お前、その後も普通に俺達と遊ぶようになったしさ。
なんなら清継と二人で帰ったりもしてたろ」
「そ、それは……」
恋花は一瞬だけ視線を泳がせ、
それから観念したように、言った。
「清継君が……思ってたより、ずっと良い人だったから」
「――!」
俺と水上は、同時に肩を跳ねさせた。
――良い人だったから。
その言葉が、胸の奥で鈍く反響する。
それを理由に、俺は数ヶ月前、
確かに振られたはずだった。
当てつけか――
いや、違う。
恋花はそんな真似をする人間じゃない。
あの日のあいつは、
逃げずに俺と向き合って、
言葉を選びながら、それでも誠実に別れを告げてきた。
今さら、軽口で蒸し返すはずがない。
だからこそ、分からない。
思考が円を描き始めたその時――
圭吾だけが、
釣り糸を垂らすような笑みを浮かべていた。
「そっかー! まあ清継の唯一の取り柄だもんな。
流石の向崎さんも、それには振り向かずにいられなかった訳だ」
「別に」
即座に返す。
「ナルシストで、人間として終わってるだけの人だと思ってたら、
そうじゃなかっただけ」
乾いた言葉だった。
褒めているようで、どこか線を引く響きがある。
「ふーん。
じゃあ、もしかして今日もまた清継に振り向くきっかけの日になったり?」
「は? それはない」
刃物のように、
余計な期待を断ち切る。
「怖……」
圭吾が肩をすくめた、その瞬間。
恋花の視線が、ぴたりと刺さった。
それ以上は、許さない――そんな無言の制止。
圭吾の軽口は、ようやく止まる。
……だが、圭吾。
よくやった。
このやり取りで、一つだけ分かったことがある。
信じ難いが。
恋花が俺を振った理由は、
単に「良い人過ぎてつまらない」――それだけではない。
可能性が、残っている。
なら、何だ。
やはり顔か。
顔が気に入らないのか。
それならいっそ、毎日殴って、
好きな形に作り替えてくれと頼もうか。
――いや。
問題があるとすれば、
間違いなく、この思考回路だろう。
自分で考えていて、たまに引く。
それでも。
不思議なものだ。
胸の奥に溜まっていた澱が、
ほんの少しだけ、動いた気がした。
――少し、息がしやすい。
俺も、切り替えよう。
「よし、じゃあ今日は清継を励ます会にして、盛大に俺に優しくしてくれ」
「おお?
清継先輩、ご馳走様です!」
「水上、お前は人の話聞いてんのか。
俺は優しくされるのに金払わなきゃいけないのかよ。つらいよ」
「価値あるスマイルお届けしますよ」
「金取る笑顔に価値なんかねえよ!」
ファストフード店でも無料で提供されるはずの笑顔を、
まるで値札付きで売りつけてくる。
――いや。
今どきは、その“無料”の方が異常なのかもしれない。
“スマイル=言い値”。
そんなメニューがあっても、おかしくはない時代だ。
恋花はそんな水上の肩に軽く触れ、柔らかく呟いた。
「瑞希ちゃんの分は私が出すから、気にしないで」
「え! いやいやいや。
そんなつもりで言ったわけじゃないので、いいですよ!」
……こいつ、
俺の時とはまるで反応が違う。
まあ、元々圭吾以外の会計は俺が持つつもりだったから、
別に構わない、と考えていたのだが――
「これから一週間、清継君に付き添う約束してるから。
ついでにこの人にも、正しい先輩の在り方を見せておきたいし」
「え……一週間、ですか?」
「うん。笹本さんに泣かされたらそうするって約束してたの」
「い、意外ですね。
最近の恋花先輩なら、
清継先輩が泣いていたら、動画撮影するとか言いそうなのに」
「あはは。
さすがにそんな酷いことは言わないよ」
――いや、言ってただろ。
後輩の手前、口には出さないが。
にしても。
恋花の「一週間、側に居てあげる」という口約束が、
こんな形で生きてくるとは思わなかった。
『私は精肉店じゃないから、あなたみたいな豚お断り』
――そう言われそうで怖くて、
ずっと触れずにいたのに。
ここから、逆転の芽があるのか。
俺たち四人は、
まるで昔からの親友だったかのように、
肩を寄せて、街へと歩き出す。
傍から見れば。
元カップルが復縁を目論んでいることも、
残りの二人がそれを手助けしていることも、
きっと、分からない。
そして、ふと思う。
この輪の中に、
俺の知らない関係が、まだ潜んでいるのではないかと。
圭吾と水上は、
いつからあんな距離感だったのか。
水上にとって恋花は、
どんな位置にいる先輩なのか。
――いや。
やめよう。
そういう無粋な考えは、
今だけは、要らない。
この一瞬だけは。
ただの、何でもない放課後として、
受け取っていたい。
俺は、ずっと――
こういう時間の中に、
いたかった気がするから。
*
ファミレスに入ったものの、
腹はあまり減っていなかった。
俺はガーリックトーストと小エビのサラダ――
まるでOLの昼下がりのランチみたいな組み合わせ――に、
ドリンクバーを添えて注文する。
他の三人は思い思いに頼み、
テーブルはあっという間に、
ちょっとした祝席みたいな賑やかさになった。
この中に誕生日の方はいらっしゃいませーんかー?
いません。
会計は結局、圭吾と恋花の二人がしてくれた。
軽口の延長みたいな流れだったが、
その実、ちゃんとした“励ます会”の一部だったのだろう。
結果的に便乗する形になった水上は、
どこか落ち着かない様子で肩をすくめている。
「すみません、圭吾先輩、恋花先輩。
私まで奢って貰ってしまって。
この後デザート、どうですか? 何でもお返ししますよ」
「気にするな、水上。
後輩として可愛がられるうちに可愛がられておけ。
上司に甘えるのも立派なスキルだ」
「清継先輩は私と同じ立場でよく言えますね。
じゃあ、これからは清継先輩にだけ甘えることにします」
「俺はお前を早く自立させたいから、甘えなど許さん」
「五秒で方針変えないでください」
そんなやり取りに、笑いが零れる。
――その時だった。
ポケットの中で、
スマホが小さく震えた。
通知音はない。
着信だ。
誰だ、とも思わずに手を伸ばす。
画面を見た、その瞬間。
息が、止まった。
背中を、冷たいものがなぞる。
――笹本 悠里。
どうして。
今さら。
こんなことは、初めてだった。
中学の頃、あれだけ一緒にいた時でさえ、
あいつが自分から電話を掛けてくることなんて、
一度もなかったのに。
本当は、無視するつもりだった。
だが、胸の奥に引っかかるざわめきがあって、
指は勝手に通話ボタンを押していた。
「……」
『やあ、汐森』
「笹本……」
『やってくれたね』
「何の事だ」
『勿論、今朝のことさ』
――違う。
声の質が、違う。
電話越しだからではない。
あいつの中で、
何かが決定的に変わっている。
そう確信できるほどに、その響きは“楽しげ”だった。
「何が言いたい。
俺は、お前のくだらねえ嘘が気に入らなかっただけだ。
少しは痛い目を見ればいいと思った。それだけだ」
『いや、違うね。
あんた、全部仕組んだだろ』
「――!」
思考が、一瞬だけ白く飛ぶ。
どこで。
どこで綻びが出た。
俺は演じ切ったはずだ。
自分でも嫌になるほど、徹底的に。
だからこそ――
「そう思いたいだけだろ。
お前が」
『まさか』
くすり、と笑う気配。
『私はね、あんたが本気で潰しに来たんだと思ってたよ』
一拍。
『でもさ、どうしても引っ掛かったんだ。
誰にでも良い顔してたいあんたが、あんなやり方するか?
――らしくない、ってね』
胸の奥に、冷たい水が流れ込む。
理解された。
いや、もっと厄介な形で――“読まれた”。
『じゃあ、誰のための行動なんだろうってさ。
気になって、皇 美姫を問い詰めた』
「……あいつが、喋ったのか」
『いんや』
即答だった。
『あいつは最後まで、「清継君は関係ない」って言い張ってたよ』
一拍。
そして――
『だから、少し試してみた』
その言い方に、背筋が凍る。
『本当の事を喋るまで、痛め続けるってね』
「お前……!」
『でさ。あいつ、なんて言ったと思う?』
間を置かず、答えが落ちる。
『――気が済むまで、どうぞ、だってさ』
「……!」
喉が、詰まる。
想像できてしまうからだ。
あいつなら、本当にそう言う。
『普通はさ、そこまでやられたら怒るんだよ。
信じろって、言い返すんだ』
静かな声が、
じわじわと締め付けてくる。
『でもあいつは違った。最後まで変わらなかった。
だから分かった。ああ、これは“嘘を守ってる”んじゃない。
“誰かを守ってる”んだなって』
息を吐く気配。
『皇 美姫。いい奴だよ』
その一言に、妙な実感がこもっていた。
『……やっぱり、嫌だな』
ぽつり、と。
『話してみて、良い奴だって分かるの』
胸の奥で、何かが軋む。
「……どこだ」
声が低くなる。
「お前、今どこにいる」
『さあね』
はぐらかすような声音。
その背後で、風が鳴る。
開けた場所――高いところか。
『今まで、私が切り捨ててきた連中も――
もしかしたら、話せば分かり合えたのかも、って思えてきてさ』
言葉が、ゆっくりと崩れていく。
『そう考えるとさ。
なんか、全部どうでもよくなってくるんだよね』
「ふざけるな……!」
思わず、声が荒れる。
「今どこにいるんだって聞いてんだろ!」
数秒の沈黙。
風の音だけが、やけに鮮明に耳に残る。
やがて――
『私みたいな奴はさ、別に愛されなくていいんだよ。
でも――』
一瞬だけ、間が空く。
『せめて、忘れないでいてほしいな』
その言葉が、妙に澄んでいた。
『じゃあね』
――ぷつり。
通話が、途切れる。
世界が一瞬、音を失ったように感じた。
「……っ」
次の瞬間、
身体が勝手に動いていた。
誰かの呼び声も、
心臓の音も、もう届かない。
ただ一つだけ、頭の中で鳴り続けている。
――間に合え。
それだけを握りしめて、
俺は走り出した。




