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——決別


 ブランコに腰を下ろす。


 少し遅れて、笹本も隣に座った。


 何も言わない。


 けれど、その一連の動きはあまりにも自然で、

 確認の言葉すら必要なかった。


 ――いつも通りだ。


 中学の頃から。


 こうして並び、同じ揺れの中で、同じ時間を消費してきた。


 会話があってもなくても、

 それだけで成立してしまう関係だった。


 この公園は、互いの“病気”を打ち明けた場所だ。


 逃げ場のない弱さを晒して、

 それでも隣に座り続けることを選んだ場所。


 だからこそ――


 終わらせるなら、ここがいいと思った。


 始まった場所で、同じ揺れに身を預けたまま。


「呼び出して悪かったな。

 帰るところだっただろ」


「いんや?

 家にいても、特にすることないし」


 鎖が軋む。


 風に煽られて、

 規則性のないリズムで揺れるその音が、

 会話の隙間を埋めていく。


「……家族とうまくいってないからか?」


「それも、あるね」


 短い返答。

 曖昧で、逃げ道のある言い方。


 一拍、間を置く。


 踏み込むかどうかを、

 ほんの一瞬だけ迷って――


「――本当か?」


 口に出していた。

 言葉の長さに見合わない重み。


 疑っているというより、

 確かめずにはいられなかったのだ。


 彼女の言葉が、どこまで“真実”なのか。

 どこからが“演出”なのかを。


 気配で察したのか。


 笹本は、ためらいもなくこちらを見た。


 覗き込む、というより――


 測られる。

 値踏みされる。


 心の奥に手を差し入れられて、

 形を確かめられるような視線。


 逃げ場がない。


 喉の奥が、ひくりと鳴る。

 俺は無意識に、息を呑んだ。


「……顔のアザ、痛むか」


 問いかけると、

 笹本は自分の頬に残る痣を、ゆっくりとなぞった。


 爪も立てず、力も込めず。


 ただ、そこに“ある”ことを確かめるように。


 それでも視線だけは、逸らさない。


 ――見ている。


 俺を。


 俺の反応を。


 その奥に何があるのかを、確かめるみたいに。


「汐森には、どう見える」


「……ある意味、自傷行為の跡に見える」


「はは。《《ある意味》》か」


 笹本は小さく笑った。


 誤魔化すようでもあり、

 開き直るようでもあり。


 けれどどちらにも寄り切らない、

 中途半端な笑みだった。


「どうやら、怪我じゃないって気付かれたみたいだね。

 いや、気付いたのは向崎か。

 よく私の特技を覚えていたもんだよ。

 昔、アイドル時代の企画で何回か披露しただけなのに」


 軽い。


 あまりにも。


 まるで種明かしをする奇術師みたいに、

 何でもないことのように言う。


 ――ああ、そうか。


 もう、疑いようがない。


 あの痣は、暴力の痕じゃない。

 化粧で作られたものだ。


 こいつは、俺たちを騙していた。


 いや――


 「見てくれる誰か」を。


 胸の奥で、何かが冷えていく。


 同時に、別の何かがゆっくりほどけていくのも分かった。


 ムカつく。


 裏切られた気もする。


 悲しくもある。


 ――なのに。


 息が、少しだけ楽になる。


 胸の奥に張り付いていたものが、

 音もなく剥がれ落ちていく。


 安心している。


 そんな自分に、少しだけ嫌気が差した。


 ――本当に、殴られていたわけじゃなかった。


 その事実が、

 何よりも先に来てしまう。


 遅れて、胸を撫で下ろす。


「……お前が、傷つけられたりしてなくて良かった」


 それは、正直な言葉だった。


 正直すぎて、

 少しだけ、浅く響いた。


「何だい、それ。

 この期に及んで、私の心配かい。

 もう少し怒ったらどうなんだ」


「怒ってるよ。

 キレ散らかして、お前の持ってるキャンディ全部、

 口に突っ込んでしまいそうだ」


「それはやめてほしいな」


「でもさ――帰る家があって、本当に良かった」


 どんなに辛いことがあっても。

 どんなに間違えたとしても。

 帰れる場所があるなら、人はまた立ち上がれる。


 それを、失っていなかった。

 奪われていなかった。


 それだけで、もう――


 笹本は何も言わない。

 揺れるブランコの鎖だけが、かすかに軋んでいた。


 俺は膝の上で拳を握る。

 怒りを押し込めるためでも、涙を堪えるためでもない。


 ただ、この感情を――

 零さないために。


「なあ、笹本。もうやめないか」


 声は、思っていたよりも静かだった。


「こんなやり方、終わりにしよう。

 嘘で注目を集めても、お前が削れるだけだ。……何も残らない」


「はは……“終わりにしよう”?」


 乾いた笑いが、風にほどける。


「じゃあさ、私からも一つ。

 汐森、あんたもやめなよ」


「……何をだ」


「その生き方」


 一拍。


「誰にでも“良い人”でいようとして。

 それで――満たされることなんてないだろう」


「俺はこの生き方に誇りを持ってる。

 苦しんでなんかいない」


「嘘だね」


 間を置かず、切り落とす。


「誇りなんかじゃない。

 あんたが守ってるのは――自分が壊れないための、都合のいい形だよ」


 言葉が、刺さる。


「頑張って、頑張って、まだ頑張って。

 そうすればいつか、“望んだもの”が手に入るって信じてる。

 だからやめられない。

 それだけでしょ」


 喉が、詰まる。


「綺麗事を並べるな。

 あんたは“良い人”でいることで、自分を保ってるだけだ」


 返す言葉が、出てこなかった。


 全部が正しいとは思わない。

 けれど――否定しきれない。


 俺は、この生き方の先に何かを期待している。


 報われる日を。

 報われていい理由を。


 だからこそ。


 それが叶わないと知ったとき、

 同じ言葉を、同じ顔で言えるのか――


 分からなかった。


 沈黙する俺を見て、笹本は静かに言葉を重ねた。


「生き方を変えるなんて、簡単じゃない。

 やめようとした瞬間、さ。

 今まで積み上げてきたものが、全部――ゴミクズみたいになる気がする」


 一拍。


「何も残らない。

 自分が、空っぽだったって思い知らされるみたいで……怖いんだ」


 その言葉は、

 まるで俺の胸の奥から引き抜かれたみたいだった。


「だから、引けない。

 間違ってるって分かってても、私たちは手放せない――そうでしょ?」


「……」


 喉が、重い。


 それでも、絞り出す。


「……だけど、笹本。

 どうして、こんなやり方なんだ」


 問いは、責めるためじゃない。

 理解したいという、最後の足掻きだった。


「お前はようやく、クラスのみんなに受け入れられ始めたじゃないか。

 ちゃんと、認められてた」


 声が、わずかに震える。


「それなのに……

 どうして今さら、こんな形で注目を浴びようとした?」


 笹本は薄い笑みを作って、声を震わせる。


「認められて、

 受け入れられたからじゃないか……」


「……なに?」


 ブランコの鎖を指先で弄ぶ。


「しばらく学校来てなかった奴がさ。

 久しぶりに顔出したら――みんな、ちゃんと見てくれた。

 声もかけてくれたし、気も遣ってくれた」


 小さく、息を吐く。


「最初はね。

 物珍しかっただけだと思うよ」


 それでも、と続ける。


「それで、良かったんだ。

 だって、あんたや向崎がいるクラスなんだから」


「……俺と恋花れんかが?」


「ああ。

 それに、皇美姫すめらぎみきもね」


 一拍、間が落ちる。


「始業式の日、私が学校を休んだのは、ほんとにただの風邪だった。

 クラス名簿を見たのは、その日の夜だよ。

 去年同じクラスだった子が、写真を送ってきてさ」


 唇を、噛む。


「……最悪だった」


 吐き捨てるように。


「人気者ばっかりの教室で、

 私のこと、ちゃんと見てくれる人なんて――どれだけいるのかって」


 視線が、ゆっくりと落ちる。


「あんたも、もう向崎の方を見てるしさ」


 声が、わずかに擦れる。


「私の居場所なんて、最初から無かったんだなって」


 それだけで。


 ――行けなくなった。


「それでもお前は、正しく愛されたからクラスに受け入れられた。

 ……そうだろ」


「ああ」


 即答だった。


「だから、当たり前になった。

 誰も、特別扱いなんてしてくれなくなった」


 一拍。


「気づいたら――誰も、私を見てなかった」


 声が、揺れる。


「だったらさ……」


 指先が、鎖を強く掴む。


「あんた達みたいなのが揃ってる場所で、

 私が“私”でいるには――こうするしかなかったんだよ!」


 ほとんど叫びだった。


「可哀想でもいい。痛い奴でもいい!

 それでも――」


 言葉が、詰まる。


「私を見ててほしいんだよ……」

 誰も、いなくならないでほしい……」


 最後は、もう掠れていた。


「ねえ、汐森。

 ……私、病気なんだよ?」


 胸を、殴られたみたいだった。


 幼い頃から、誰よりも人気者であれ。

 誰よりも愛される人間であれ。

 そう刷り込まれてきた笹本にとって、その言葉は今や――解けない呪いだ。


 アイドルとして過ごした時間は、拍手と歓声を与える代わりに、

 “離れていく恐怖”だけを、深く刻みつけた。


 人は去る。

 愛は移ろう。

 それを誰よりも早く、誰よりも痛く知ってしまったのだ。


 この強烈なトラウマを抱えた彼女を、どうすれば救えるのか。


 人気者で、良い人でいようとする俺は――

 いったい、何をすればいい。


 その答えを探す間もなく、


 ぽつり、と。


 雨が、降り始めた。


「汐森……私はもう、疲れたよ。

 あんたの言う通り、このままで私が満たされることは、永遠にない」


 鎖をなぞる指先が、力なく揺れる。


「もう、全部辞めてしまいたい」


「……近島先生との話か」


「何でも知ってるんだね」


 小さく笑う。

 その笑みは、もう人に見せるためのものですらなかった。


「あの人の言った通り、私は一か月で受け入れられた。

 もし、あれが嘘だったらさ……」


 一瞬、息を止める。


「楽にやめられたのに」


「……何をやめるんだ。学校か?」


「全部さ」


 即答だった。


「私は、生きてるんじゃない。

 ゆっくり死んでるだけ」


 一拍。


「でも――死にたいわけじゃない」


 息が、白くほどける。


「生きていたくないんだ」


「……!」


 音が消えた。


 これは、逃げじゃない。

 弱音でもない。


 立っていられなくなった人間の言葉だ。


 ここを逃せば、終わる。


 二度と――届かない。


 恋花も。

 先生も。


 全部、無駄になる。


 ――それでも。


 それでも。


 俺が、やるしかない。


 俺は、ブランコから立ち上がった。


 きしり、と鎖が鳴る。


 俯いたままの笹本を、見下ろす形になる。

 並んでいた視線が、初めて上下に分かれた。


 ――逃がさない。


 もう、目を逸らさせない。


 ここから先は、

 “良い人”じゃ、届かない。


「なあ、笹本」


 一拍。


「もし俺が、お前のアザが全部嘘だって――

 みんなにバラしたら、どうする?」


「……は?」


「ただ構ってほしかっただけでしたってさ。

 全部、晒してやるんだよ」


 次の瞬間だった。


 笹本がブランコを蹴って立ち上がる。

 距離が一気に潰れ、胸ぐらを掴まれた。


「ふざけんな……!

 そんなこと、許すわけないだろ!」


 引き寄せられる。


「あんたは私を、これ以上苦しめたいのか!?」


「勝手に苦しみ始めたのは、お前だろ!」


 声が荒れる。

 抑えが利かない。


「いい加減にしろよ!

 俺も、恋花も、王子も、先生も――ちゃんと見てるだろうが!」


 指が食い込む。


「目を逸らしてんのは、

 お前の方じゃねえのか! ああ!?」


「そんな哀れみ、いるか!」


 ほとんど悲鳴だった。


「結局あんたも、自分の生き方に縛られてるだけだろ!

 “救う側”の顔して、私みたいなのに手を伸ばしてるだけだ!」


 息がかかる距離。


「気付けよ。

 あんたは、ずっと差し出す側で――

 一度も、受け取ってない」


 胸の奥に、鈍い痛みが走る。


「そんな奴が……」


 声が、歪む。


「ただの一ポイント風情が、偉そうに語るな!」


「……お前こそだ。

 可哀想な自分演じて、

 手を伸ばされるのを待ってるだけじゃねえか」


 喉が低く鳴る。


「俯いてるから、気付けねえんだろ」


 言葉を叩きつける。


「とっくに――俺以外も、お前に手、伸ばしてんだよ!」

 どうして分かんねえんだよ……!」


「……」


「お前の側には味方がいたんじゃないのか。

 クラス名簿をくれたその子だって――」


「違う!」


 即座に遮る。


「当てつけだよ。

 “人気者ばっかりだ”って、見せつけたかっただけだろ」


 吐き捨てる。


「他に、どんな意味があるって言うの?」


 ――本当に、分からないのか。


 本当に何も……。

 

 俺は、笹本の胸ぐらを掴み返す。


「……お前と、また同じクラスになれて嬉しいって」


 言葉を、置く。


「そう、言いたかったんだろう?」


 空気が止まった。


 笹本の瞳孔が、はっきりと開く。

 理解が追いついていない顔だった。


 ——多分、その写真をくれた子は、

 俺がこの前、教室で怒鳴りつけてしまった子だ。


 初登校の日から、

 ずっと笹本の席の近くにいた。


 声を掛けすぎるでもなく、離れるでもなく、

 ただ、そこにいる距離で。


 今になって、ようやく分かる。

 あれは、ずっと気に掛けていた人間の距離だった。


 俺は、笹本の胸ぐらを掴んだまま、強く引き寄せる。


「笹本。今ならまだ、やり直せる」


 言葉を噛み締める。


「その友達にだけは、俺から話を通してやるから――

 お前はゆっくり、身体のアザを消していけばいい」


「……その子が、周りに言いふらさない保証は?」

 私は、もう、誰も信用できない」


 一拍。


「蜜色メンバーだって、最後は私を裏切った。

 ……あんたもだよ、汐森」


 視線が、突き刺さる。


「今はこうして話してても、

 最後には、私を裏切るかもしれない」


 雨脚が、強まる。


「だから、このやり方が一番なんだ……」

 可哀想な奴でいい……

 それなら、誰も離れていかない……」


 言葉が崩れる。


「もう、私の側から……誰も、いなくならないでくれぇ……!」


 雨が、メイクを溶かしていく。


 頬を伝う黒い筋が、

 アザと涙の境界を曖昧にする。


 小さな体で、

 それでも必死に、こちらを見上げている。


 縋るように。


 その姿は、

 言葉を持たない者が、最後に発する救難信号のようだった。


 ――これしか、表現できないんだ。


 俺が、笹本の胸ぐらから手を離そうとした、その瞬間。


 かしゃり。


 雨音の隙間を縫うように、

 小さく、乾いた音が鳴った。


「……お前」


 笹本の右手が、わずかに持ち上がっている。


 濡れた指の中に——スマホ。


「……何のつもりだ」


 声が、わずかに揺れる。


「汐森。

 あんたが学校で余計なこと喋ったら、この写真をばら撒く」


「……それで、何になる」


 答えは返らない。


 ただ、彼女は首をわずかに傾けた。


「分からないの?」


 静かに言う。


「泣いてる私の胸ぐらを掴んでるあんた——

 それ、外から見たらどう見える?」


 視線が刺さる。


 一瞬で、理解させられる。


「な……」


 完全に、詰まされた。


 この構図じゃ——

 俺が、加害者だ。


 笹本は、薄く不敵な笑みを浮かべた。


 俺の動揺を、確かめるように。


「最近ね」


 まるで、天気の話でもするみたいに言う。


「あんたが私と一緒にいるって、クラスでも有名なんだ。

 だから――」


 一拍。


「付きまとわれてたことにするよ」


 軽い。


 あまりにも軽くて、現実感がなかった。


「それで、あんたの好意を拒否したら殴られたって言うの。

 この怪我も、全部あんたのせいにする」


「……はは」


 言葉が、音を立てて崩れていく。


 足場が、消える。


「お前、ほんと……まともじゃないな」


 息が、続かない。


「もう、お手上げだよ」


「あんたはさ。

 もう私に構わなくていいよ」


 雨が、少し強くなる。


「ずっと遠くから、見ててくれればそれでいい」


 睫毛の奥の瞳は、揺れていなかった。


 一度も。


「私は、この生き方を変える気はないから」


 ——ぷつり、と。


 何かが、切れた。


 力が抜ける。

 立っている意味さえ、分からなくなる。


 その様子を、確かめてから。


 笹本は、静かに言った。


「汐森。

 あんたは、私の親友だった。

 特別だったよ」


 一瞬の過去形。


「でも、それも今日で終わり。

 ――さよなら」


 振り返らない。


 一度も。


 雨の中へ、消えていく。


 俺は、その場に立ち尽くしたまま。

 何も出来なかった。


 遅れて、膝が崩れる。


 ぬかるみに落ちる感触だけが、やけに鮮明だった。


 ――決別。


 俺と笹本の、かつて特別だった関係は、

 ついに破綻を迎えた。


 だが、嘆くべきではない。


 笹本を救うためには、この道しかなかったのだから。


 ここまでの選択は、全て計算の範疇にある。


 ――雨に濡れた顔を上げ、灰色の空を見つめる。


 雨が、視界を滲ませる。

 涙かどうかは、分からなかった。


 それでも、奥に宿る光は、まだ失われてはいなかった。

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