人は、依存できる物を特別と思う
四階までの距離が、やけに長い。
終わりの見えない螺旋を、
同じ場所に留まったまま上っているような感覚だった。
足が重い。
疲労じゃない。
もう少し手前の、
名前のつけにくい何かが、足首に絡みついている。
もう、普段通りに話せるか分からない。
あいつは、自分を見てほしい。
注目してほしい。
構ってほしい。
そのために、あいつは――
あの“傷”を作った。
ようやく階段を上りきる。
息を整え、手を教室の戸に掛ける。
真っ先に目が行くのは、あいつの席。
今日も笹本は“人気者”らしい。
そして。
昨日はなかったはずのアザが、
そこにあった。
――戻っている。
「……はあ」
「清継さん、おはようございます。
お疲れのようですね」
「おはよう、五里。
この学校、エレベーター付けるべきだな。
もう足が終わってる」
「ええ、同意見です」
一拍。
「ですが、お疲れなのは……それだけではないでしょう」
視線が合う。
「笹本のこと、あまり思い詰めないでください」
少しだけ、言葉に詰まった。
驚いた。
五里には、俺と笹本の関係も、
何があったかも話していない。
なのに、気遣いの言葉が返ってくるとは。
「……よく見てるんだな」
「清継さんの事は、年中見てますから」
視線が、じっと俺を追ってくる。
思わず眉をひそめる。
「それはキモい」
短く返して、席に向かう。
五里に気を遣われるくらい、顔に出ていたか。
ああ、いけない、いけない……
さて、改めてお隣さんに愛の挨拶をば。
咳払いを一つ。
「おはよう恋花。
今日も可愛いな」
「おはよう清継君。
どうしたの、酷い顔よ……?」
「はは、やっぱりそう見える?」
「あ、ごめん。
生まれつきだったかしら」
……こいつ。
五里とは真逆じゃねえか。
いや、これは彼女なりの不器用な愛情表現なのだ。
恋花検定、名誉会長の俺が意訳してやろう。
『私は、あなたに気遣いしなくても良いくらい、身近な存在。
いつでも隣にいるから安心して。
清継君、愛してる。ちゅ』
――よし。
元気出てきた。
俺は鞄を机に置き、席に座る。
そのまま頬杖をついた。
「今日も、笹本は注目の的だな」
「うん。
昨日のメッセージ見た?」
「見たから電話したいって返信したんでしょ」
「そうなの?
ごめん、それ見てない」
「……びっくりだよ。
返事待つのに、朝まで起きてたよ」
「いや、既読つかないなら、途中で諦めなさいよ。
そっちの方がびっくりだよ」
ふむ、確かに。
じゃあすぐに寝れば良かった。
今日、足取りが重かったのは、睡眠不足のせいだったかもしれない。
視線だけを恋花に向ける。
「笹本の怪我、どうしてメイクだって気付いた?
俺には分からなかったぞ」
「待って……お昼に話そ。
教室じゃ誰に聞かれるか分からないから」
「ああ……」
予鈴が鳴る。
会話を断ち切るには、
ちょうどいい音だった。
*
昼休み。
中庭のベンチに、恋花と並んで座る。
空は、今日も曇っていた。
昨日と同じだ。
きっとまた、誰かの悪事のせいだろう。
半額シールの貼られた惣菜パンをかじる。
「それで。
朝の話だけど」
「うん」
恋花は、少しだけ間を置いてから口を開く。
「笹本さんね。
アイドルやってた頃、特技がメイクだったの」
「メイク?」
「うん。色んなやつ。
お母さんが舞台役者で、小さい頃から教わってたみたい」
――思い出す。
水上が言っていた。
母親の影響で覚えたメイク動画が、人気だった、と。
「その中にね」
恋花が続ける。
「今の笹本さんみたいな、アザとか……怪我のメイクもあったなって」
「悪趣味だな」
「ハロウィンの季節だったから」
「……そうか」
それだけなら、まだ仮説に過ぎなかった。
だが――昨夜、見てしまった。
痕一つない顔で、
母親と肩を並べて歩く笹本を。
あれを否定するには、あまりにも現実が鮮明すぎた。
それでも。
どこかでまだ、
あれは別人だったのではないかと考えている自分がいる。
我ながら、往生際が悪い。
「はぁ……」
「最近、溜め息多いね」
「分かるくらい俺のこと気に掛けてるの」
「わわ、違う違う。
隣でそんなのされると、
こっちの幸せまでどっかいっちゃいそうで……不快だったから」
「はいはい。お前は可愛いな」
「んなあ!?
もういい、知らない」
そっぽを向かれる。
――助かる。
この軽口がなければ、
息の仕方を忘れていたかもしれない。
俺は惣菜パンをかじる。
味が、やけに薄い。
「私は、どうしたら良いんだ――か」
「え?」
「昨日、笹本が言ったんだ。
あいつの中でも、何か揺れてるのかもしれない」
「そうなの、かなあ。
清継君はどうするつもりなの」
「今日の放課後、あいつと話す。
……もしかしたら、それで終わるかもしれないけど」
「終わるって……それでもいいの?
笹本さん、特別なんでしょう?」
「そう見える?」
「見えるよ」
一瞬、言葉を探す。
けれど、誤魔化す意味はないと思った。
「特別だよ。
色んな話をしたし、他の奴には言えないことも知ってる。
一緒にいる時間も、好きだった」
一拍。
「――笹本が、好きだった」
「……そう」
恋花は、それ以上踏み込まない。
その距離感が、ありがたかった。
「でもさ。
あれは多分……前向きな“好き”じゃなかったんだよ」
視線を空に向ける。
曇り空は、相変わらず答えをくれない。
「お互いが、お互いを“理解者だ”って思い込みたかっただけでさ。
そうであってほしいって、期待して――
都合のいい部分だけ見て、慰め合ってた」
軽く息を吐く。
「見えてないところで、ずっとズレてたのに。
それに気付かないフリしてた」
身体を伸ばす。
関節が、やけに大きく鳴った。
「だからもう、終わりにしたい。
すれ違ったままの関係を続けるのは、やめる」
ゆっくりと言葉を置く。
「笹本には、今みたいな生き方をしてほしくない。
あいつ、自分でどうしたらいいか分からなくなってんだ」
「うん……」
「だから、ぶつかる。
逃げずに」
「怖くないの?」
「怖いよ」
即答だった。
「まず笹本が怖い。普通に殺されそう」
「そこ?」
「そこ」
少しだけ、空気が緩む。
「でもさ。
特別だから、ちゃんと終わらせたいんだよ」
一瞬だけ、言葉が詰まる。
「たとえ――
友達でいられなくなっても」
胸の奥が、鈍く軋む。
それをごまかすように、笑った。
「だからさ。
もし喧嘩別れしたら、慰めてくれよ。一週間くらい引きずると思う」
「なにそれ、ださ……」
正論である。
ぐうの音も出ない。
しかも元カノに頼んでいる時点で、だいぶ終わっている。
我ながら、救いようがない。
その自覚ごと抱えて、俺は恋花の視線を受け止めた。
冷たい。
だが――
どこか、逃がしてくれている温度だった。
やがて、恋花が口を開いた。
「良いよ?
清継君が笹本さんに泣かされたら、隣で動画撮ってあげる」
「酷過ぎんか」
「でも、側に居てあげるって言ってるの。一週間でしょ?
良いよ。だから後悔ないようにしてね」
——え、一週間、側に居てくれるのか。
そこまで頼んだ覚えはないのに。
じゃあ毎日誰かと喧嘩別れしても問題ないのか――
などと馬鹿なことを考えて、すぐに打ち消す。
そんなことをしたら、半月も経たずにぼっちだ。
俺の交友関係は、思っているより脆い。
動揺のせいで、返事が一拍遅れる。
「あ、ああ……。
いいのか、ありがとう。しっかり殴られてくる」
「何で喧嘩前提なの。
ほんとにもう」
「はは。お約束かと思って。
――うし、じゃあ頑張ってみるか」
立ち上がる。
恋花の方を見て、ほんの少しだけ笑った。
「それからさ。
特別なのは、恋花も同じだから」
言ってから、少しだけ間を置く。
「だから……お前との関係も、
ちゃんと決着をつけたいと思ってる」
恋花は、大きく目を見開いた。
何かを言いかけて、やめて。
結局、ただ一言だけ落とす。
「……うん」
その声は、思ったよりも静かだった。
* * *
笹本は誰からも愛され。
人気者で、特別でありたがる。
見ていてほしい。
離れないでほしい。
忘れないでほしい。
そういう、当たり前で、
けれど際限のない願いを――
少しだけ強く、抱えすぎている。
それが傲慢だとは思わない。
ただ、重すぎるのだ。
本人が、潰れてしまうくらいに。
だから。
――終わらせてやらなければ、と思った。
けれどそれが、本当に“救い”になるのかは、
正直、分からない。
それでも。
ここで引くことだけは、
違う気がした。
「汐森、待たせたね」
「ああ、笹本。
いや、俺もついさっき来たところだよ」
互いに嘘をつく。
それくらいの距離感が、
今の俺たちにはちょうどいい。
――俺とお前は、特別なんだから。
その言葉を、今度は逃げずに使うために。




