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来たる日の始まり


 いつも通り、少しだけ寝坊気味に目を覚ます。

 いつも通り、ソーセージ定食を作る。

 いつも通り、誰もいない家を出る。


 いつも通り登校して。


 すれ違う生徒たちに、爽やかな挨拶を返しながら。

 いつも通り、校舎の四階まで階段を上る。


 ――教室の戸を開けた瞬間、違和感があった。


 今日は風が少し強い。

 空も曇っていて、どこか重たい。


 そのせいで、空気が沈んでいるのか。


 ――いや、違う。


 それだけじゃない。


 俺が教室に入ったというのに、

 誰も、こちらへ歩み寄ってこない。


 一歩、踏み出す。


 圭吾。五里。恋花。王子。


 視界に入るいつもの面々が、

 揃って視線を伏せていた。


 まるで――何かを言い出せずにいるみたいに。


 胸の奥が、ざわつく。

 言葉にならない、嫌な予感。


 それでも。


 俺は何も知らないふりをして、

 静かに自分の席へ向かう。


 ――その途中で、足が止まった。


 笹本の席。

 そこに、人だかりが出来ている。


 初めて登校してきた日の光景を、

 そのままなぞるように。


 ただ――違う。


 あの時とは、決定的に。


 鞄を机に置く。

 その瞬間、視界の奥にいた“それ”を、はっきりと認識した。


 ――おかしい。


 笹本の様子が。


 手足に走る、青い痣。

 腫れた頬。

 左目の周囲に滲む、赤。


 痛々しい、なんて言葉じゃ足りない。


 一目で分かる。


 これは、事故じゃない。

 誰かに、やられた傷だ。


 輩に絡まれたか。

 ――あるいは、家で。


 考えた瞬間。


 体が、先に動いていた。


 取り巻いていたクラスメイトを、押しのけるようにして、前へ出る。


 ――その日。


 俺は、初めて。

 恋花への挨拶を、忘れた。


「笹本……! 何があった。

 ――いや、言わなくていい。ひとまず俺と外に出よう」


 笹本は、ゆっくりと顔を上げた。


 どこか疲れ切った、

 芯の抜けたような声で応える。


「やあ、汐森……どうしたんだい?

 この前までは、授業に誘ってきたじゃないか」


「冗談言うな」


 即答だった。


「授業なんて学校なんて、今はどうでもいい。

 荷物を纏めたら、いつもの公園に行こう。

 俺たちが時間を潰してきた場所だ。俺もすぐ準備する」


 言い切る。

 考えるより先に、言葉が出ていた。


「……唐突だね」


 笹本は、少しだけ目を細める。


「せっかく来たのに、すぐ帰るのは、もったいない気がするよ」


「その言い回し――  

 お前の怪我は家で起きた出来事だと、そう解釈していいのか」


「想像に任せるよ」


 逃げるような、曖昧な返答。


 ――数日前。


『家族とうまくいっていない』


 そう聞いた。


 だが、それはせいぜい一般家庭で起きる、

 些細な親子喧嘩くらいの話だと思っていた。  


 これほどの事態になる前に、笹本からSOSはあったか。

 

 いや、なかったはずだ。  


 おかしい――


 その点に関しては、

 特別に敏感なはずの俺が、見落としていたのか。くそ。


「とにかく行こう」


 強引に笹本の手を引く。


 このクラスの奴らは誰も、笹本の手を取ろうとはしなかった。


 口では『どうしたの』と、

 寄り添うように心配している素振りを見せていても。


 実際には、ただ奇妙な姿に興味を抱いていただけだろう。


 過去に、そんな奴らを何人も見てきた。

 ……俺も、同じだったから。


「汐森君……」


 女子の一人が、遠慮がちに声をかけてくる。


「そんな急に言われたら、笹本さん困っちゃうって」


「少し黙ってろ」


「え……? 

 でも笹本さんだって……」


「黙れって言ってんだろが!」


「ひっ」


 教室で初めて声を荒げた。


 いつもなら、穏やかで優しく、ノリの良い――

 誰もが望む人気者の自分を演じていた。


 だが今はどうでもいい。

 そんなものは今、この場では無意味だ。


 俺の異様な様子に、教室は静まり返る。


 誰もが口を噤まざるを得ない沈黙の中。


 笹本は、わずかに口元を緩めた。


「らしくないね。

 皆、あんたを怖がるだろうさ」


「お前を見せ物にしていられる、

 このクラスの連中の方が――よっぽど怖いよ」


「別にいいよ」


 あっさりと、言う。


「こんな姿のやつを、珍しがらない方が難しい」


 ――誰でもよかった。


 俺じゃなくてもいい。

 誰か一人でいいから、笹本の手を取ってくれれば。


 ここから連れ出してくれれば。


 こんな場所にいれば、余計な憶測だけが増えていく。

 まともに授業なんて受けられるはずがない。


 せめて。


 せめて一人くらい、俺と同じ温度でいてくれれば。


 お前だけは俺と同じ気持ちでいてほしかった。

 ――恋花を睨む。


 《《あいつ》》は、目を逸らした。


「行こう、笹本。

 今日は、お互い体調が優れないってことにしとけ」


「ああ……」


 笹本は、わずかに間を置いてから頷く。


「そうだね」


 歯切れの悪い返事。

 それでも、鞄に手を伸ばす。


 俺も、自分の席へ戻る。


 その途中で。

 隣にいる恋花へ、小さく声を落とした。


「なあ、恋花」


「……うん」


「前に、お前。

 笹本が苦しそうだって、言ってたよな」


「……うん」


「なら、今のお前の行動は、正しいのか?」


 少しの間。

 沈黙が落ちる。


 それから。


「……私は」


 ゆっくりと、言葉を選ぶように。


「静観するのが、今は正しいと思った。

 彼女が、それを望んでる気がするから」


「は?」


「後で話すね。ちゃんと、話すから。

 ……笹本さんを、救ってあげて」


 一拍。


「……きっと、それは清継君にしか出来ない」


 ――どういうことだ。


 確かに、笹本は。

 過度に踏み込まれることを、嫌う。


 心配されることすら、鬱陶しがる節がある。


 だが。

 だからといって。


 誰も手を差し伸べずに済む状況ではないはずだ。


 本人の気持ちを汲むことだけが正義ではない――

 それが分からぬ恋花じゃない。


 他に、何か意図があるのか。


 眉をしかめ、俺は他の連中に目もくれず、

 笹本の手を取り教室を後にした。


 予鈴の音が校舎に残響する中、


 俺たちは、校門へと足を進める。

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