「重要なのは、しなやかさだよ」②
「『一ヶ月だけでも登校してみて。
皆、笹本さんを受け入れてくれるから。
それでも愛されないなら――その時は、来るかどうか、自分で決めていい』って」
本当に賭けだ。
しかし、こうでも言わなければ、
笹本は聞く耳を持たなかっただろう。
——俺と恋花が同じクラスであることも、
もう察していただろうから。
笹本が残した『あいつの言葉が偽善かどうか、確かめてから辞めよう』とは、
このことだったのか。
「笹本が登校してから、どれくらい経ちましたか?」
「来週で、ちょうど一ヶ月かな」
近島先生は窓の外へ目を向けた。
「それからどうするかは、笹本さんが決めること。
だから今は――まだ、先生と笹本さんとの交渉の途中なんだ」
そこまで言ってから、困ったように笑う。
「ね?
汐森君みたいには、出来てないでしょ」
「そんなことありません」
思ったより早く、言葉が出た。
「俺は、先生のおかげで、もう一度笹本と言葉を交わせる機会を得た。
あいつとは、中学の時にちゃんと話せないまま終わったから」
一度、飲み込む。
「もっと話せば、分かり合えたのかなって。
ずっと、心残りだったんです」
だから。
「俺も協力します。
必ず、笹本がいる教室を――二年一組の日常にしてみせます」
また、威勢のいいことを言ってしまった。
恋花にも、似たようなことを言った。
全部寄越せ、と。
必ず終わらせてやる、と。
他人に良い顔をした以上、
その責任は、果たさなければならない。
……そう思っている。
近島先生を安心させたくて、口にしたはずだった。
だが。
先生の表情には、なぜか、少しだけ複雑な影が差していた。
「先生はね。
汐森君の負担を、減らそうとしたつもりだったんだけどなあ」
「負担……ですか?」
「うん」
先生は、小さく頷く。
「汐森君って、頑張りすぎるから。
迷ってる人を見ると、放っておけなくて。
苦しそうな子がいたら、自分のことみたいに抱え込んじゃう」
少しだけ、寂しそうに笑う。
「――そういう、優しい子だから」
その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。
「これじゃあ、やっぱり。
先生はまだ、駄目だね」
どうして先生が「駄目」なのか。
その意味が、すぐには分からなかった。
ただ。
先生の目に映る自分を、少しだけ知りたくなった。
「『良い人』でいることって――悪いことなんでしょうか」
恋花は言った。
良い人すぎて、つまらない、と。
笹本は言った。
本当の自分を知られるのが怖くて、
踏み込まれないように、『良い人』を演じているのだ、と。
そして、先生は。
俺に負担を掛けたくないと、そう言った。
なら。
俺の生き方は――
先生の目には、どう映っているのだろうか。
近島先生は、ゆっくりと首を横に振る。
背後から差し込む陽光が、
やわらかく、眩しい。
俺は自然と目を細めていた。
穏やかで、柔らかく、
どこか慈しむような声で、先生は言う。
「悪いことじゃないよ。
汐森君の凄いところで、汐森君らしさで――生き方だと思う」
一拍。
「でもね」
ほんの少しだけ、声の色が変わる。
「そうでなきゃいけない、って思い込んでないか。
それが、先生は心配なの」
言葉はやわらかいのに、逃げ場がない。
「芯を持つことは大切。
でも、その芯が真っ直ぐであればあるほど――
折れた時、元に戻すのが難しくなるの」
「じゃあ先生は、真っ直ぐ生きるなと?」
「ううん」
すぐに、首を振る。
「大事なのは、“しなやかさ”」
そう言って、ポケットからボールペンを取り出し、差し出した。
「――これ、持ってみて」
「なんですか、いきなり」
「ボールペン。
これ、折れると思う?」
「そりゃ……力を加えれば」
「じゃあ、これがゴムで出来てたら?」
一瞬、考える。
「……折れないですね。曲がるだけです」
「そう。
曲がっても、元に戻るよね」
ボールペンを受け取り、軽く指で弾いてから、またこちらに返した。
「重要なのは、しなやかさだよ。
曲がっても――折れなければいいの」
「……!」
その言葉を、正面から受け止める。
呼吸が、少しだけ浅くなる。
「少し上からに聞こえたら、ごめんね」
困ったように笑う。
「でも、汐森君の“良い人”は、少し真っ直ぐすぎる。
いつか、折れてしまわないかが、心配で」
その言葉は、責めるものではなく。
ただ、見守る側のそれだった。
「だから、少しずつでいい。
柔らかい考え方を、持てるようになってほしいなって」
一瞬、言葉を探すように視線を落とす。
「難しいことだし、きっかけもいるかもしれないけど」
「……イメージ、出来ません」
正直に言う。
「うん。それでいいよ。
今は分からなくても、
どこかで、思い出してくれたらいいから」
「……はい」
短く答える。
それで十分だと、言われた気がした。
「なんだか、授業みたいになっちゃったね」
先生は、照れたように笑う。
「汐森君が聞きたかったことって、これで全部かな?」
「はい。
お時間いただいて、ありがとうございました」
「うん。気をつけて帰ってね」
俺は先に立ち上がり、一礼する。
少しだけ、頭の中が重い。
考えることが増えたせいかもしれない。
――整理しながら、帰るか。
扉に手を掛けた、その時。
「さっきさ」
背後から、声が届く。
「汐森君、五里君のこと――
愛されるべき人だったから、正しく愛されただけ、って言ってたよね」
振り返らずに、答える。
「ええ」
一拍。
それから、静かに。
「汐森君も、同じだからさ」
言葉が、背中に触れる。
「自分のこと、ちゃんと愛してあげてね」
――その瞬間。
胸の奥が、強く締めつけられた。
息が、うまく吸えない。
唇が震えて、俺は返事を返す事が出来なかった。
* * *
翌日。
教室に着いたなら、まずは愛の挨拶だ。
「おはよう、恋花。
今日も可愛いな」
「おはよ……うわ、後ろ寝癖」
「マジかよ」
今日は少し寝過ごして、準備を雑に済ませた。
慌てて頭を撫でつけるが――
多分、直らない。
諦め。
何事も、しなやかに。
……いや、違うか。
自分で自分にツッコミを入れながら、視線を巡らせる。
笹本の席。
数人のクラスメイトに囲まれて、そこだけ少し賑やかだ。
――良い傾向だろう。
笹本も、もう教室の一員だ。
そう思って、歩み寄る。
「おっす、笹本。おはよう」
「やあ汐森。
おはよ」
その時だった。
近くにいた女子が、俺にだけ聞こえるように小声で言う。
「ねえ、汐森君。聞いてあげて。
笹本さん、最近……家族とうまくいってないんだって」
「何、それ。マジなん?」
視線を向けると、笹本は――黙って、頷いた。
せっかく、ここまで来たのに。
また、別の問題か。
恋花も、近島先生も、きっと心配する。
――俺は、どうする。
『手を差し伸べるか』
『様子を見るか』
一瞬。
本当に、一瞬だけ迷って。
俺は――前者を選んだ。
「なあ。
俺も同じだから、お前の気持ちは分かる。
何でも話してくれ」
言い切る。
間を置かずに。
それが正しいと信じるみたいに。
周りの連中は、ほっとしたように笑って、
「汐森君がいるなら安心だよね」
そう言い残して、自分の席へ戻っていく。
――任せた、という空気。
押し付けられたわけじゃない。
でも、自然とそうなる。
その直後。
笹本は、鋭く舌打ちをした。
はっきりと、聞こえる音で。
俺は多分、選択肢を間違えた。
それから。
教室に笹本がいる光景は、少しずつ、日常になっていった。
もう珍しくもない。
特別扱いされることもない。
友人も、それなりに出来たように見える。
――順調、のはずだった。
だが。
その安堵は、長くは続かなかった。
翌日。
教室の扉を開けた、その瞬間。
俺の足は、止まった。
視界の中央。
笹本の姿が――ある。
いる。
それ自体は、もう当たり前のはずなのに。
何かが、おかしい。
一歩、踏み出す。
違和感の正体が、ゆっくりと輪郭を持つ。
首筋に。
腕に。
制服の隙間から覗く肌のあちこちに。
まるで。
隠す気もないみたいに。
笹本の全身は、青黒い痣で覆われていた。




