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「重要なのは、しなやかさだよ」


「教材室……ここか」


 室名札を確かめてから、扉に手を掛ける。


 軋む音とともに、ゆっくりと開いた。


 長らく、人の手が入っていないのだろう。


 窓際のカーテン、

 そのわずかな隙間から差し込む斜光が――

 空気の中に滞った埃を照らし出し、静かに舞わせている。


「狭いな」


 奥行きは、ほとんどない。


 傷だらけの机が無造作に並び、

 その上に、さらに机が積み重ねられている。


 整えられることを諦めたように、均衡を欠いたまま。


 窓際には椅子が幾つも重なり、

 不自然に背を高くしていた。


 逃げ場を失ったものたちが、

 上へ上へと押し上げられているようにも見える。


 傍らの古びたラックには、

 いくつかの教科書が収められている。


 数科目分。


 どれも、人目を避けるように、ひっそりと。


 ガラス戸に手を掛ける。


「……固っ」


 立て付けが悪いらしい。


 諦めて、わずかな隙間から中を覗き込む。


 並んでいるのは――


 俺の世代より、二つほど前の教科書だった。


 誰かに使われることもなく、

 更新されることもなく、

 ただ、ここに置かれ続けている。


 教材室とは名ばかりで、実態は倉庫に近い。


 忘れられたものが、

 忘れられたまま積み上がる場所だ。


「さて……」


 重ねられた椅子から、二つを引き抜く。


 放課後、ここに来たのは人を待つためだ。


 先に着いたなら、

 準備を整えておく――


 それくらいの気遣いは紳士の心得だろう。


 できることなら、

 掃除までしてやりたいところだが。


 椅子を置き、窓を開ける。


 外気が、ゆるやかに流れ込んでくる。


 六月も、もう終わる。


 柔らかな風が、木と花の匂いをわずかに含みながら、

 滞っていた空気を押し流していく。


 外のグラウンドには、陸上部の姿がちらほら見え始めていた。


 ――その中に、恋花もいる。


 俺の“復縁タイムリミット”は、もう半年を切っている。


 だが。

 順番は、間違えない。


 今は、先に片付けるべきものがある。


 椅子に腰を下ろした、その瞬間。

 出入り口の扉が、軋んだ。


 振り向く。


 ――視線の先。


 駆けつけるように息を整えた、

 近島先生が立っていた。


 黒いカーディガンの襟元が、わずかに揺れている。


「ごめんごめん。

 ちょっと職員室に用があって、遅くなっちゃった」


「いえ、俺も今来たところですから」


「お? その歳で、素敵な言葉を知ってるね」


「はい。三時間待っても同じ言葉が使えるので、重宝してます」


「ん?

 ごめん先生、汐森君が何言ってるのか、よく分かんない」


 ――だろうな。

 多分、説明しても伝わらない。


 遅刻した相手を三時間待つんじゃない。

 予定時刻の三時間前に来ているだけだ。


 結果として、常に「今来たところ」になる。


 完璧な時間管理。


 あるいは――

 待つことに、慣れすぎただけか。


「気にしないで下さい。

 それよりもお忙しい所、お時間作ってくれてありがとうございます」


「ううん、大丈夫。

 もしかして椅子出してくれた? ありがとう」


「いえ。

 雑巾掛けと窓拭きまで出来ず、すみません」


「あはは。

 汐森君って面白いよね」


 俺は平静を装い、

 淡々と、まるで機械のように会話をする。


 さもなくば。

 近島先生との二人きりの空間で気が狂いそうになる。


 ――はあ、先生、可愛い。


 窓際の椅子に腰を下ろすのを確認して、

 俺は小さく咳払いした。


「お呼び立てしたのは、

 先生にお尋ねしたい事があったからです」


「うん。

 そう言ってたね」


「お尋ねします。

 先生には、いま彼氏はいらっしゃるんですか?」


 ――おや?


 違う。


 違う違う違う。

 何でこうなるんだ、俺ええええええ!!


 聞きたかったのは、それじゃない。

 いや、それも気になるけど!


 落ち着いていたつもりが、

 先生が教室に入ってきた瞬間から、俺の理性はすでに蒸発していた。


 ――どうする。


 冷や汗が背中をつたう。

 心臓が爆散しそうだ。

 

 【急募】ここから先生とお付合いする方法求む。


 駄目だ、

 脳内スレッドも理性を見失っている。


 まずは強引にこれまでをリセットする方法を……


 やがて。


 近島先生は苦笑を浮かべ、首を傾げた。


「汐森君、本当にそんなこと聞くために呼んだ訳じゃないよね……?」


 ——俺は深く息を吸い、動揺を胸に押し込め、

 顔色一つ変えずに答えた。


「まさか。

 まずは軽いジョークで場を和ませようと思ったまでです。

 どうやら、驚かせてしまっただけのようですが」


「ほんとにびっくりしたよ。

 ホームルームの後に、

 あんなに真剣な顔で“少し時間もらえますか”なんて言われたらさ。

 てっきり深刻な相談かと思うじゃない」


 近島先生はそう言って、小さく笑った。


 午後の光が窓から差し込み、

 先生の髪の輪郭を柔らかく縁取る。


 その笑顔ひとつで、空気が少しだけ緩む。


 ――一番驚いているのは、この俺だ。


 これ以上この空間に留まれば、

 理性が少しずつ摩耗していくのが分かる。


 早く用件を済ませなければ。


 わざとらしく背筋を正し、二度目の咳払いをひとつ。


「では、本題になります。

 先生が笹本を……笹本悠里ささもとゆうりを、

 学校に登校できるよう働き掛けてくれたんですか?」


 一瞬、空気が止まる。


 先生はまばたきをひとつしてから、静かにこちらを見た。


「……また急だなあ。

 笹本さんから聞いたの?」


「いえ。俺と笹本は中学の頃、結構仲が良かったんです。

 あいつが相当な強情者なのは知っているので……

 登校するようになるには、何かしらの“きっかけ”が必要だったはずだと思いまして」


 一拍、置く。


「やはり、先生が?」


 ――本当は。


 配信のことも。

 過去の軋轢も。


 他人の口から拾い集めた断片を、

 無理やり繋ぎ合わせてここに辿り着いた。


 だが。


 それをそのまま口にする資格は、俺にはない。


 近島先生は視線を落とし、

 少しだけ考え込むようにしてから、困ったように眉を下げた。


「連れ出した、って言えるほどじゃないかな。

 先生は――汐森君みたいに、上手く出来なかったよ」


「俺みたいに?」


「そう。

 五里ごり君が学校に来てくれるようになったのは、

 汐森君のおかげだったから」


「違いますよ」


 即答だった。


「五里は、目の前にバナナぶら下げたら、

 ジャングルの奥底から出て来ただけです」


 先生は、ふっと笑って、首を傾げる。


「不思議な言い回しをするね」


 一拍。


 そのまま、少しだけ声を落とした。


「でもね。

 登校してきた後、五里君と少し話す時間があって」


 視線が、ほんのわずかに遠くを見る。


「その時、言ってたの。

 『清継さんに救われました』って」


「――あいつが、ですか?」


「うん。

 前の学校でも、勝手な噂で怖がられて、

 ずっと一人だったんだって」


 言葉が、ゆっくりと置かれていく。


「汐森君は、そんな五里君に手を差し伸べた。

 それで今、同じ教室にいる。

 同じクラスメイトとして、ちゃんとそこにいる」


 やわらかく、しかし逃がさない声音で。


「――それって、すごいことだよ」


 俺は視線を床に落とした。


 しばらく、そのまま考えて。


 ――小さく、頭を振る。


「やっぱり、買いかぶり過ぎです。

 あいつは、愛されるべき人だったから、正しく愛されただけです。

 俺の力じゃない」


 先生は小さく笑い、少しだけ目を細めた。


「大人だね」


 ぽつりと、零すように。


「そうさせてあげなくちゃいけなかったのは、

 本当は私の仕事だったんだよ?」


 一拍。


「でも、新任の私は、何から手を付けたらいいのか分からなくて。

 すぐにでも動かなきゃって焦るばかりで……気づいたら、何も出来てなかった」


 視線が、わずかに落ちる。


「出遅れちゃったなって。

 私って駄目だなあって、何度も思ったよ」


「行動さえ起こせばいいって訳じゃないでしょう」


 思ったより強い声が出た。


「先生は出遅れたんじゃない。

 いっぱい、模索してたんだ」


 言いながら、自分でも少し驚く。


 それでも、言葉は止まらなかった。


 近島先生の曇っていた表情が、

 少しずつ、ほどけていく。


「汐森君は凄いね」


 やわらかく、しかし真っ直ぐに。


「いつも周りを見てる。

 必要だと思った言葉を、ちゃんと選んで投げられる

 悩んでる子の心の声を、誰よりも早く拾って。

 必要なら、道化役にだってなる」


 微笑む。


「こう見えて先生、生徒のこと、ちゃんと見てるんだよ?」


「……!」


 言葉が、刺さる。


 逃げ場を塞ぐように。


「だから私も、汐森君を見習って、笹本さんに会いに行ったんだ。

 最初は、全く相手にしてもらえなかったけど」


「そう、でしょうね」


「『絶対にあんたのクラスになんか行くものか』って、

 はっきり拒絶されちゃってさ」


 苦笑が、少しだけ混じる。


「どうしようかなって、ずっと考えてた」


「そんなあいつを、どうやって――」


「ほとんど、賭けみたいなことをしたの」


 一拍。


 言葉を選ぶように。


「『一ヶ月だけでも登校してみて。

 皆、笹本さんを受け入れてくれるから。

 それでも愛されないなら――その時は、来るかどうか、自分で決めていい』って」


 本当に賭けだ。


 しかし、こうでも言わなければ、

 笹本は聞く耳を持たなかっただろう。


 ——俺と恋花が同じクラスであることも、

 もう察していただろうから。


 笹本が残した『あいつの言葉が偽善かどうか、確かめてから辞めよう』とは、

 このことだったのか。


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