託されたバトンの責任は結果よりも重い②
教室に着くと、
俺と恋花は並んで自分たちの席に腰を下ろした。
他の連中は皆、外で過ごしているらしい。
教室には、俺たち以外――
誰の気配もない。
喉が、異様に渇いていた。
俺は五百ミリのペットボトルを掴んだまま、
ほとんど反射で、飲み続ける。
落ち着かない。
妙な緊張が抜けず、手がわずかに震える。
薄い塑料が、
指の力に耐えかねるように、かすかに鳴った。
その様子を、恋花は口を半開きにして、
露骨に引いた顔で眺めている。
恋花はコンビニ袋を広げ、
そこからサンドイッチを一つ取り出す。
封を切りながら、何でもない事のように言った。
「食べる?」
「食べる」
差し出された三切れ入りのミックスサンドから、
一切れだけ受け取る。
「それで。
こんなサービスまでして、俺に話したい事って何だよ」
「笹本さんの事」
「聞いた」
「告白代行?
とか、言わないんだ」
「あり得ないからな。
俺と笹本は、もうそういう関係じゃない」
「……そう、なんだ」
そこで、言葉が途切れる。
沈黙が、机の上に静かに積もっていく。
恋花は――たぶん。
二人きりになれたこと自体は想定通りで、
その先をどう言葉にするかで、足を止めている。
二人三脚で、恋花と笹本はペアだった。
経緯は知らない。
だが、その短い時間の中で、
何かを見たのだろう。
今の笹本か。
それとも、もっと前の、俺の知らない時間か。
あるいは、その両方か。
そしてそれを、当人のいない場所で、
第三者である俺に話していいのか。
――そんな迷いが、わずかに表情に滲んでいる。
この顔を見るのは、初めてじゃない。
俺はサンドイッチを頬張った。
ツナサンドだ。
美味い。
「恋花。
お前は良い子だからさ。
余計なとこまで考えちまうんだろ」
「……え?」
俺は、指を二本、立てた。
「人が秘密を打ち明ける時ってのは、大体二パターンだ。
一つは、尋ねられて断れなくて、仕方なく答える場合。
もう一つは、相手を信用して、自分から打ち明ける場合」
「うん」
「どっちにしても、知り得たことを簡単に他人に話すのは、
相手に悪いって思うだろ」
「うん」
「それでも――」
一拍、置く。
「自分一人じゃ抱えきれないものを知っちまったら、
人は、誰かに手を借りたくなる」
立てた指を、ゆっくり下ろす。
「恋花は今、その二つの間で揺れている」
「……凄いね」
小さく息を吐いて、続けた。
「――正解」
恋花はペットボトルのお茶に口をつける。
その動きにつられて、俺も手元のボトルを持ち上げ――
軽さで、中身が空だと知る。
「笹本から出てくる話なんて、だいたい憂鬱になるに決まってる。
あいつは、生きた地雷原だからな」
「うん」
「だから、話してくれ」
「今、話していいかどうかで揺れてるって言ったでしょ」
「揺れてるなら、なおさら話せ」
少しだけ、言葉を強める。
「お前に一人で背負わせたくない。
それに――」
息を継ぐ。
「恋花がそこまで悩むような話を知った以上、
俺は意地でも、同じ場所に立つ」
「でも……話しても、解決できないと思う。
私と清継君、同じクラスだから」
――同じクラス。
その一言で、
いくつかの記憶が、勝手に結びつく。
あいつが、以前言っていたこと。
俺と恋花と笹本が、
同じクラスになったことを――
『夢かどうか、頬をつねりたくなる話だね』
あの時は、軽口に聞こえた。
だが。
もし、あれが。
ただの比喩じゃなかったとしたら。
――あいつにとっては。
本当に、確かめたくなるほどの“悪夢”だったのかもしれない。
「恋花は、俺に打ち明けるか悩んでるんだろ。
つまり――俺なら何かできるんじゃないかって、少しは期待してる」
「そんなつもりじゃないよ。
ただ……笹本さん、苦しそうだったから。
友達の清継君なら、どうにかしようとするだろうなって」
「苦しそう、か」
なら――期待してくれていい。
「恋花には、誰かの苦しみを背負ってほしくない。
純粋なままでいられるお前に、俺は憧れた」
一拍。
「だから、知ったこと、背負ったもの――全部話せ。
全部寄越せ。必ず、終わらせてやる」
「……清継君、やっぱり変だね。
でも、ありがとう。
何もできそうになくて、ごめん」
「気にするな。
人助けは俺の趣味だからな」
「いつもは趣味じゃないって言うじゃん」
「そうだっけ。
じゃあ、これからは趣味にしてみるよ」
「なにそれ」
……まあ、これは俺なりの照れ隠しだ。
少しばかり、言い過ぎた自覚はある。
だから、雑にでも落とさないと、どうにも座りが悪い。
俺はサンドイッチを頬張った。
――おや。
飲み込もうとした瞬間、違和感が走る。
喉の奥で、何かが引っかかった。
それは胃へ向かうのを拒むように、
踏ん張り、居座り、動かない。
やばい。
俺は慌ててペットボトルに手を伸ばす。
――軽い。
やはり、空だ。
「……え、清継君?」
「…………」
もしかしたら、
死ぬのかもしれない。
格好つけた直後に、喉を詰まらせて窒息死。
あまりにも完成されたオチだ。
ダサすぎて、いっそこのまま死んだ方が楽なんじゃないかと、
本気で思えてくる。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
必死にもがく俺を見て、
何かを察した恋花が、自分のお茶に手を伸ばす。
「ちょっと、もう勘弁してよー」
呆れた声。
だが、その手は迷わず、俺の口元へと差し出された。
――一命を取り留めた。
彼女は、間違いなく命の恩人だ。
「信じられないんだけど……」
「す、すみません」
「もういいわ。
そのお茶あげるから、後でちゃんと買い直してよね」
結果として、
久しぶりの間接キスになったわけだが――
罪悪感のせいか。
あるいは、さっきまでの流れのせいか。
胸は、妙に静かだった。
さて――
本題だ。
笹本についての話を、聞こう。
* * *
最後の種目、
クラスリレーが始まってしばらく経つ。
さすが人気競技だけあって、
周囲から伝わってくる熱気は、ひときわ濃い。
歓声が波のように押し寄せては、引いていく。
しかし俺は、リレーの状況には一切気を払わず、
前髪を指に絡めながら、ひたすら考え事を続けていた。
笹本のことだ。
昼休み、恋花から聞いた。
『蜜色プロジェクト』が解散に至った、本当の理由。
グループは最初、二人で始まった。
そこに、人気者が一人加わったことで――
それまで積み上げてきた関係は、あっさりと形を変えた。
壊れた、のかもしれないし。
ただ、別の形になっただけかもしれない。
だが少なくとも――
当人にとっては、
そう感じるだけの何かがあった。
俺と笹本は、
中学の頃、特別に仲が良かった。
周囲からは、付き合っているんじゃないかと、
そんな噂が立つ程度には。
――そこに、恋花が加わる。
笹本にとって、それは。
きっと、あの時と似た“音”がしたはずだ。
何かが崩れる、予感のようなもの。
恋花は人気者だ。
そして――
俺も、たぶんそういう側にいる。
その二人が並んだとき。
かつてのように、
自分の居場所が押し出されるんじゃないか。
視界の外へ、静かに追いやられるんじゃないか。
――そんな想像を、してしまったのかもしれない。
だから、避けた。
教室を。俺たちを。
あるいは、“あの時の続き”を。
不登校になった理由も、たぶんその延長線上にある。
……推測だが。
けど、大きく外れてもいない気はする。
それでも。
俺や恋花じゃなくても、
笹本を見てくれる奴は、きっといる。
今日の体育大会で――
あいつは、クラスの一員として、
確かにそこにいた。
ちゃんと、見えていたはずだ。
リレーバトンが、途切れることなく回っていく。
歓声が、また一段大きくなる。
――俺の番が、近い。
指に絡めていた前髪を離し、
ゆっくりと、コースに立つ。
「よし……」
「清継君!」
陸上部というだけあって、脚の速い恋花からバトンを受け取る。
アンカーの圭吾まで、残り二人。
俺は、持てる力を惜しみなく解き放つ。
ただ前だけを見て、走った。
「汐森、頑張れー」
――笹本の声が、確かに聞こえた。
昼休み、恋花に言った。
全部寄越せと。
必ず終わらせてやると。
もしも――もしもだ。
俺が考え得るすべての手を尽くしても、
笹本の苦しみに触れられなかったら。
俺と恋花と、笹本がいるこの教室を、
あいつの日常にできないと悟ったなら。
――俺はどうするべきなのか。
歯を食いしばる。
俺もまた、
誰かにバトンを託す覚悟を、持たねばならないだろう――。
「王子! いけえッ!」
「任せてくれ!」
運動能力が平均値の俺は、何人かに抜かれた。
だが――それでいい。
俺の役目は、繋ぐことだ。
王子と、アンカーの圭吾が、すべてをひっくり返す。
結果。
俺達は、クラスリレーで優勝を果たした。
そして最終結果。
二年一組は、総合優勝。
歓声と笑顔が、渦のように巻き起こる。
その中心にいながら――
俺だけが、少しだけ外側に立っていた。
胸の奥に沈む、ひとつの問いを見つめながら。
笹本にしてやろうとしていることは、
本当に、正しいのか。
答えは、まだ出ない。
ただその問いだけが――
勝利の余韻の中で、静かに、確かに、沈み続けていた。




