言葉の魔法
◇ ◇ ◇
私は白い紐を、笹本さんの細い足首に回した。
指先に触れる骨の輪郭が、やけに頼りない。
まるで、少し力を込めただけで欠けてしまう陶器みたいに、
脆く感じられた。
きつくならないよう、少しだけ余裕を持たせて結ぶ。
互いの足首が、ひとつの輪の中に収まる。
砂の匂いと、ジャージ越しの体温。
触れているわけでもないのに、妙に近い。
「それじゃあ、最初は走らなくていいから。
歩いてみよっか」
「わかった」
「せーの」
――踏み出した、はずだった。
次の瞬間、地面が近づく。
世界が、一拍だけ遅れてついてくるみたいに、
すべてがゆっくりと流れた。
「「へゔぁっ」」
私たちは、揃って前のめりに崩れ落ちる。
まるで、出来の悪い静止画みたいに。
顔から、地面に。
鼻は――ちゃんと、ついているだろうか。
触れて確かめる。
けれど、感覚が曖昧で、よく分からない。
頬に砂が貼りついて、ざらざらとした違和感だけが残る。
膝には、じわりと遅れてくる痛み。
私は思わず声を上げた。
「何で結んだ方の脚から出さないの!
普通そっちから行くよね!?」
「あんたにとっての普通なんか知ったことか!
私は左脚から出すって、最初から決めてたんだけど」
「じゃあそう言ってよー……」
噛み合わない。
言葉も、動きも。
やっぱり、笹本さんとは気が合わない。
どうして清継君が、こんな子と普通に話せるのか、
純粋に不思議だった。
――いや。
考えるまでもなく、
あの人の女の趣味が、悪いだけだ。
地面にうつ伏せになったまま、私は声をかけた。
「怪我、してない?」
「え」
「何よ」
「いや……そんなこと言われると思ってなかったから。
……大丈夫」
「そ。じゃあ次は、私がちゃんと合わせるから。
もっかい頑張ろ」
身体を起こして、笹本さんに手を伸ばす。
彼女は、信じられないものを見るみたいに目を丸くして、
少しだけ遅れて、こちらを見返してきた。
――そんな顔、されるほどだろうか。
「ありがと……」
ためらいがちに、手が重なる。
思っていたよりも軽いそれを引いて立ち上がると、
ジャージに付いた砂が、ぱらぱらと落ちた。
一呼吸。
顔を見合わせる。
「じゃあ、歩こうか」
「うん」
今度は、さっきよりも慎重に。
私たちはゆっくりと、グラウンドの隅を歩き始めた。
中央からは絶えず笛の音。
男子の声と歓声が、少し遅れて届いてくる。
どうやら一組男子は、ドッジボールで決勝まで進んだらしい。
ちょうど今、二試合目を終えたらしい集団が、
まとまってテントへ戻っていくのが見えた。
私たちも一度戻って、何か声をかけるべきだろうか。
――笹本さんを見る。
目が、合った。
……やめておこう。
これから二人三脚をするのに、
ここでまた何か言われたら、今度こそ本気で引きずる気がする。
気を紛らわせるように、会話を探す。
そして、思いついたのが――
「笹本さんって、アイドルやってたの」
「誰に聞いたんだい?
今さらそんなこと」
「匿名のナルシストK君から」
「汐森だな、あの野郎。
人の経歴べらべら喋りやがって」
「いや、違くて。別に清継君は……」
「嘘の目だね」
間髪入れずに、刺される。
「いいよ別に。隠してるわけじゃないし」
……ごめん、清継君。
まさか“ナルシストK”で通じるとは思わなかった。
心の中でそっと謝る。
――その瞬間。
テントの方から、くしゃみが聞こえた。
たぶん今あの人は、
「またどこかの女子が俺の噂でもしてるな」とか、
そんなことを本気で思っている。
間違いなく、思っている。
私は苦笑を浮かべた。
「ごめん、清継君から聞いた」
「だろうね」
あっさりと認めてから、
「『蜜色プロジェクト』って知ってる?
可愛い名前でしょ」
――その名前を聞いた瞬間。
足が、もつれた。
心臓が、内側から跳ねる。
地面が、またしてもすぐそこまで迫っていた。
「「へゔぁっ」」
二度目の転倒は、さすがに様にならない。
私たちはまた、顔から地面に滑り込む。
砂がジャージにまとわりつき、
痛みよりも先に、どうしようもない恥ずかしさが込み上げた。
「向崎! 今のはあんたが戦犯!
鼻がすり下ろされたわ!」
「笹本さんって、下の名前なんて言うの……」
「なにさ、『向崎殺し』だよ。覚えとけえ」
「そうじゃなくて。名前、知りたいの」
さすがに、眉を引きつらせる。
派手に転んだ直後に、真顔でそんなことを聞かれれば、
誰だってこういう顔になると思う。
――おかしいのは、たぶん私の方だ。
「……悠里だけど」
渋々、というよりは、
少しだけ棘を含ませた声だった。
「やっぱり……!
じゃあ本当に、あの“ゆうり”ちゃんなんだ!」
「なんなのよ、調子狂うなあ」
抑えきれず、頬が熱くなる。
胸の奥で、昔の記憶がゆっくりとほどけていく。
「私、『蜜色プロジェクト』好きだったの。
小学生のとき、お小遣い貯めて、初めてCD買ったんだよ」
言いながら、自分でも少しだけ驚く。
こんなふうに、誰かに話すことになるなんて思っていなかった。
「……夢みたい」
一人で舞い上がっている私を、
笹本さんは、じっと見ていた。
覗き込むような視線。
引き寄せるようでいて、
どこか一歩、踏み込ませない距離。
そのまま、頭を掻く。
「……嘘じゃないんだね」
一拍。
「驚いたよ」
「驚いたのは私の方だよ。
ラジオも追ってたくらいだし、解散したときは結構ショックだった。
メンバー、皆好きだったから」
「皆好きだった……か」
小さく、繰り返す。
その声は、さっきまでとは少しだけ違っていた。
笹本さんは目を伏せる。
ほんのわずかに、影が落ちる。
立ち上がって、ジャージについた砂を払う。
お尻で軽く叩くその仕草に、
言葉にしない緊張が滲んでいた。
そして――
ゆっくりと、手が差し出される。
今度は、向こうから。
思わず息を呑んで、私はそれを見つめた。
一瞬だけ、反応が遅れる。
「ありがとう」
「お互い様」
「ねえ、どうして解散しちゃったの」
「学業に専念する為、かな」
「それ、本当?」
「何さ。
匿名のナルシストK君に、探るよう言われてるのかい」
笹本さんは目を細める。
からかうような笑み。
けれど、その奥には、わずかな警戒と――
消しきれない何かが、残っている。
……たぶん。
清継君も、知りたいのだと思う。
この人の奥にあるものを。
けれど。
私は、あの人みたいに綺麗にはなれない。
小さく、頭を振る。
「違うよ」
「これは――一人のファンとして、ただ知りたいだけ」
一度だけ、言葉を区切る。
「言いたくないことなら、いい」
視線が、ぶつかる。
覗き込まれる。
心の奥まで、測るみたいに。
やっぱり少し、怖い。
短い沈黙のあと。
笹本さんは、鼻をふむと鳴らした。
「……良いよ」
一拍。
「あんたには、教えてあげる」
少しだけ、声音が落ちる。
「“学業に専念する為”なんて、当然嘘さ――」
それから、視線を外して。
「……歩くかい?」
「うん」
足を揃える。
今度は、自然に。
互いのリズムを確かめるみたいに、ゆっくりと。
グラウンドを進む。
周囲の歓声や笛の音は、
いつの間にか遠くへ押しやられていた。
残るのは、足音だけ。
ふたつ分の、同じ間隔。
「『蜜色プロジェクト』はね」
ぽつりと、落とすように。
「もともと、私の友達と二人で始めたユニットだったんだ」




