表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
68/114

言葉の魔法


◇ ◇ ◇


 私は白い紐を、笹本さんの細い足首に回した。


 指先に触れる骨の輪郭が、やけに頼りない。


 まるで、少し力を込めただけで欠けてしまう陶器みたいに、

 脆く感じられた。


 きつくならないよう、少しだけ余裕を持たせて結ぶ。

 互いの足首が、ひとつの輪の中に収まる。


 砂の匂いと、ジャージ越しの体温。

 触れているわけでもないのに、妙に近い。


「それじゃあ、最初は走らなくていいから。

 歩いてみよっか」


「わかった」


「せーの」


 ――踏み出した、はずだった。


 次の瞬間、地面が近づく。


 世界が、一拍だけ遅れてついてくるみたいに、

 すべてがゆっくりと流れた。


「「へゔぁっ」」


 私たちは、揃って前のめりに崩れ落ちる。


 まるで、出来の悪い静止画みたいに。


 顔から、地面に。


 鼻は――ちゃんと、ついているだろうか。

 触れて確かめる。


 けれど、感覚が曖昧で、よく分からない。


 頬に砂が貼りついて、ざらざらとした違和感だけが残る。

 膝には、じわりと遅れてくる痛み。


 私は思わず声を上げた。


「何で結んだ方の脚から出さないの!

 普通そっちから行くよね!?」


「あんたにとっての普通なんか知ったことか!

 私は左脚から出すって、最初から決めてたんだけど」


「じゃあそう言ってよー……」


 噛み合わない。


 言葉も、動きも。


 やっぱり、笹本さんとは気が合わない。


 どうして清継君が、こんな子と普通に話せるのか、

 純粋に不思議だった。


 ――いや。

 考えるまでもなく、


 あの人の女の趣味が、悪いだけだ。


 地面にうつ伏せになったまま、私は声をかけた。


「怪我、してない?」


「え」


「何よ」


「いや……そんなこと言われると思ってなかったから。

 ……大丈夫」


「そ。じゃあ次は、私がちゃんと合わせるから。

 もっかい頑張ろ」


 身体を起こして、笹本さんに手を伸ばす。


 彼女は、信じられないものを見るみたいに目を丸くして、

 少しだけ遅れて、こちらを見返してきた。


 ――そんな顔、されるほどだろうか。


「ありがと……」


 ためらいがちに、手が重なる。


 思っていたよりも軽いそれを引いて立ち上がると、

 ジャージに付いた砂が、ぱらぱらと落ちた。


 一呼吸。


 顔を見合わせる。


「じゃあ、歩こうか」


「うん」


 今度は、さっきよりも慎重に。

 私たちはゆっくりと、グラウンドの隅を歩き始めた。


 中央からは絶えず笛の音。

 男子の声と歓声が、少し遅れて届いてくる。


 どうやら一組男子は、ドッジボールで決勝まで進んだらしい。


 ちょうど今、二試合目を終えたらしい集団が、

 まとまってテントへ戻っていくのが見えた。


 私たちも一度戻って、何か声をかけるべきだろうか。


 ――笹本さんを見る。


 目が、合った。


 ……やめておこう。


 これから二人三脚をするのに、

 ここでまた何か言われたら、今度こそ本気で引きずる気がする。


 気を紛らわせるように、会話を探す。


 そして、思いついたのが――


「笹本さんって、アイドルやってたの」


「誰に聞いたんだい?

 今さらそんなこと」


「匿名のナルシストK君から」


「汐森だな、あの野郎。

 人の経歴べらべら喋りやがって」


「いや、違くて。別に清継君は……」


「嘘の目だね」


 間髪入れずに、刺される。


「いいよ別に。隠してるわけじゃないし」


 ……ごめん、清継君。

 まさか“ナルシストK”で通じるとは思わなかった。


 心の中でそっと謝る。


 ――その瞬間。

 テントの方から、くしゃみが聞こえた。


 たぶん今あの人は、

 「またどこかの女子が俺の噂でもしてるな」とか、

 そんなことを本気で思っている。


 間違いなく、思っている。


 私は苦笑を浮かべた。


「ごめん、清継君から聞いた」


「だろうね」


 あっさりと認めてから、


「『蜜色プロジェクト』って知ってる?

 可愛い名前でしょ」


 ――その名前を聞いた瞬間。


 足が、もつれた。


 心臓が、内側から跳ねる。

 地面が、またしてもすぐそこまで迫っていた。


「「へゔぁっ」」


 二度目の転倒は、さすがに様にならない。


 私たちはまた、顔から地面に滑り込む。


 砂がジャージにまとわりつき、

 痛みよりも先に、どうしようもない恥ずかしさが込み上げた。


「向崎! 今のはあんたが戦犯!

 鼻がすり下ろされたわ!」


「笹本さんって、下の名前なんて言うの……」


「なにさ、『向崎殺し』だよ。覚えとけえ」


「そうじゃなくて。名前、知りたいの」


 さすがに、眉を引きつらせる。


 派手に転んだ直後に、真顔でそんなことを聞かれれば、

 誰だってこういう顔になると思う。


 ――おかしいのは、たぶん私の方だ。


「……悠里ゆうりだけど」


 渋々、というよりは、

 少しだけ棘を含ませた声だった。


「やっぱり……!

 じゃあ本当に、あの“ゆうり”ちゃんなんだ!」


「なんなのよ、調子狂うなあ」


 抑えきれず、頬が熱くなる。

 胸の奥で、昔の記憶がゆっくりとほどけていく。


「私、『蜜色プロジェクト』好きだったの。

 小学生のとき、お小遣い貯めて、初めてCD買ったんだよ」


 言いながら、自分でも少しだけ驚く。

 こんなふうに、誰かに話すことになるなんて思っていなかった。


「……夢みたい」


 一人で舞い上がっている私を、

 笹本さんは、じっと見ていた。


 覗き込むような視線。


 引き寄せるようでいて、

 どこか一歩、踏み込ませない距離。


 そのまま、頭を掻く。


「……嘘じゃないんだね」


 一拍。


「驚いたよ」


「驚いたのは私の方だよ。

 ラジオも追ってたくらいだし、解散したときは結構ショックだった。

 メンバー、皆好きだったから」


「皆好きだった……か」


 小さく、繰り返す。


 その声は、さっきまでとは少しだけ違っていた。

 笹本さんは目を伏せる。


 ほんのわずかに、影が落ちる。


 立ち上がって、ジャージについた砂を払う。


 お尻で軽く叩くその仕草に、

 言葉にしない緊張が滲んでいた。


 そして――

 ゆっくりと、手が差し出される。


 今度は、向こうから。


 思わず息を呑んで、私はそれを見つめた。


 一瞬だけ、反応が遅れる。


「ありがとう」


「お互い様」


「ねえ、どうして解散しちゃったの」


「学業に専念する為、かな」


「それ、本当?」


「何さ。

 匿名のナルシストK君に、探るよう言われてるのかい」


 笹本さんは目を細める。


 からかうような笑み。


 けれど、その奥には、わずかな警戒と――

 消しきれない何かが、残っている。


 ……たぶん。


 清継君も、知りたいのだと思う。

 この人の奥にあるものを。


 けれど。

 私は、あの人みたいに綺麗にはなれない。


 小さく、頭を振る。


「違うよ」


「これは――一人のファンとして、ただ知りたいだけ」


 一度だけ、言葉を区切る。


「言いたくないことなら、いい」


 視線が、ぶつかる。


 覗き込まれる。

 心の奥まで、測るみたいに。


 やっぱり少し、怖い。


 短い沈黙のあと。

 笹本さんは、鼻をふむと鳴らした。


「……良いよ」


 一拍。


「あんたには、教えてあげる」


 少しだけ、声音が落ちる。


「“学業に専念する為”なんて、当然嘘さ――」


 それから、視線を外して。


「……歩くかい?」


「うん」


 足を揃える。

 今度は、自然に。


 互いのリズムを確かめるみたいに、ゆっくりと。

 グラウンドを進む。


 周囲の歓声や笛の音は、

 いつの間にか遠くへ押しやられていた。


 残るのは、足音だけ。


 ふたつ分の、同じ間隔。


「『蜜色プロジェクト』はね」


 ぽつりと、落とすように。


「もともと、私の友達と二人で始めたユニットだったんだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ