水上瑞希の独白
◇ ◇ ◇
「そうだ、ラーメン屋に行こう」
「“そうだ”じゃないですよ、清継先輩。
さっきから私たち、ラーメンにするか蕎麦にするかで言い争ってるんですから。
急に天啓みたいな顔して、強引に決めようとしても無駄です」
「しかし水上よ。
昨日行ったあの店が、今日に限ってゲリライベントをやるとは思わんだろう。
好きなトッピング二品無料だぞ」
誇らしげな顔。
「事前告知してたら、清継先輩みたいな人がイベントだけ狙って来ますからね。
というか先輩、普段もトッピングしてるじゃないですか。
実質二百円引き程度のイベントですよ?
それでそんなに興奮してるなんて、完全にカモです。カモ」
「馬鹿な……
この俺が、経済戦略の手の平で踊らされていたというのか……!」
「一人で愉快に踊り出しただけです」
木曜日の放課後。
私と清継先輩は、
どの店に行くかで本気とも冗談ともつかない口論をしていました。
ラーメンか、蕎麦か。
どうでもいい選択。
けれど、そのどうでもよさが、
今の私たちの距離を物語っていました。
水曜日でもないのに、こうして二人で帰っている理由。
もちろん、圭吾先輩のおかげです。
あの日から。
私と清継先輩は三人で過ごす時間を増やし――
やがて三人でいることが自然になり、
さらにやがて、二人きりでも違和感がなくなりました。
もう一年以上が経っています。
私は中学二年生。
清継先輩は三年生。
時間は確かに流れました。
そして、圭吾先輩の思惑通り。
私は清継先輩にとっての“良い後輩”として、
隣に立つことを許されている。
告白はしない。
笹本 悠里先輩がいる時は引く。
その約束を守り続けた結果が、今です。
今日も当たり前のように、放課後を共にする。
当たり前。
それは、恋が叶った証ではなく。
境界線の内側に、うまく収まった証でした。
「昨日もラーメン屋に行ったので嫌ですよ!
若くして生活習慣病のエリート街道まっしぐらじゃないですかあ!」
「今しか出来ないことかもしれんだろ。
エリートになりたくば、若いうちから経験を積まなくちゃな」
「その結果出来上がるのが、エリートデブだから文句言ってるんです。
“経験”って書いて“カロリー”って読むやつでしょう、それ。
相棒は“インスリン”とか言い出したら最悪ですからね」
清継先輩は、腕を組み、真剣な顔で言いました。
「俺、最近思うんだ。
豚って草を食べるだろ?」
「はい?」
「つまりそれを食う俺たちは、実質ベジタリアンなんじゃないかって。
ラーメンはサラダだ」
「洗脳のパワープレイやめてください……。
そもそも私、今日外食する気なかったですし」
「分かった、水上。
ここは公平にジャンケンといこう」
「公平とは」
「お前が勝ったら、蕎麦でも素麺でも好きにしろ」
「麺は確定なんですね……。
あーもう、分かりました。恨みっこなしですよ?」
「「じゃーんけん!」」
私はまだ、清継先輩にジャンケンで勝ったことがありません。
* * *
「明日、ご飯抜きにしなくちゃ……」
「水上はまだ細いくらいだろ。
気にするなよ」
「女の子は細い太いの問題じゃないんです。
肌荒れとか、むくみとか、そういうのも全部込みなんですよ。
……次は別の人を誘えば良いじゃないですか」
少しだけ視線を逸らす。
「ほら、笹本先輩とか」
その名前は、軽い調子で出したつもりだった。
本当に“誘ってほしい”わけではない。
ただ──
最近、どうなのか。
それを確かめたかっただけだ。
放課後、清継先輩はよく笹本先輩と一緒にいた。
何を話しているのかは知らない。
けれど、最近は二人でいる時間も減ったように見える。
それが偶然なのか、
私のせいなのかは、分からないけれど。
清継先輩は、ほんの少しだけ曖昧に笑った。
「ああ、笹本か……。
どうも俺、あいつに嫌われちまったみたいでさ。
理由は、よく分からない」
「喧嘩でもしたんですか?」
「喧嘩、出来れば良かったんだけどな。
笹本は俺のことをよく理解してくれたのに。
俺はあいつのこと、何も分かっちゃいなかったのかもしれない」
その言葉は、
自分を責めているというよりも、
どこか“納得してしまった人”の声音だった。
まるで。
ずっと昔から、
誰かが離れていくことに慣れているみたいに。
苦しそうな顔をしているのに、
その孤独が私だけに見えている気がして、
ほんの少しだけ──安心してしまった。
そんな自分が、嫌になる。
何か言わなきゃ。
慰めでも、支えでもいい。
『私がいるじゃないですか』と。
「き、清継先輩、私が──」
その瞬間、スマートフォンが震えた。
先輩がスマホを持っていたことにも驚いた。
けれど、それ以上に。
画面を見た先輩の表情が、変わった。
「清彦……?」
「誰ですか?」
わずかな沈黙。
「俺の、弟だよ」
「え、先輩、弟さんが──」
「悪い、水上。
ちょっと出る」
私の言葉は、宙に置き去りにされた。
弟がいるなんて、知らなかった。
一年以上、隣で笑っていたのに。
家族の話を、
一度も聞いたことがなかったことに、
今さら気づく。
清継先輩の背中が、ほんの少しだけ遠く見えた。
聞き耳を立てるつもりはなかった。
けれど、静かな寒空は、声を隠してはくれない。
『兄さん、養護施設の暮らしはどう?』とか、
『あいつがこれから兄さんを引き取るのが不安だ』とか……
何やら耳にしてはいけないと思えるような、
繊細で重い言葉が聞こえてきました。
一通り話を終えた先輩は、
「夜にかけ直すよ」とだけ告げ、電話を切りました。
「すまん、水上。
待たせたな」
振り返った先輩は、いつもの顔をしている。
明るくて、少し軽くて、何も抱えていないみたいな顔。
なのに、さっきの言葉が耳に残って離れない。
養護施設。
引き取る。
知らないはずの単語が、急に私の中に居座る。
訊いて良いのか分からず、
それでも知りたい気持ちが勝ち、私は慎重に言葉を選んだ。
「先輩、弟さん、いらしたんですね。
歳はいくつなんですか?」
「水上と同じだよ。
中学二年生」
「え、一緒の学校じゃないんですね」
「今は、離れた所にいるんだ」
その笑みは、ほんの少しだけ形が崩れていた。
通話画面の名前が、頭の奥にこびりつく。
清彦。
小学生の頃、同じ名前の子がいた。
汐森 清彦。
ある日、何の前触れもなく消えた。
転校、とだけ先生は言った。
けれど、誰もその理由を知らなかった。
偶然だ。
きっと、ただの偶然。
それなのに。
胸の奥が、ざわつく。
「離れた所……ご両親と一緒に?
そしたら先輩は今、誰と暮らしてるんですか」
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
清継先輩の目から、光が消えた。
すぐに、戻る。
「少し寒くなってきたな、水上。
……もう冬だ」
「はい……」
「これやるよ」
鞄から取り出したマフラーを、半ば押しつけるように渡される。
「俺もう、バスの時間だから!
お前も気を付けて帰れよーー!」
大きく手を振って、走り去る。
その背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
笑っていた。
確かに笑っていた。
けれど。
あの笑顔は、誰に向けたものだったのだろう。
一晩経っても、
胸の奥に残る違和感は消えなかった。
だから次の日、私は自然と圭吾先輩を問い詰めることになる。




