ヘアピンモブの独白【Ⅱ】
◇ ◇ ◇
「水上よ。
昨日の学校行事でスイカ割りがあっただろ。
人生で初めてスイカを食べたんだが――
あれは、きゅうりに砂糖をかけたのと何が違うんだ?」
「そんなこと言ってると、
スイカ農家が飛んできて頭蓋割りされますよ、先輩」
水曜日は、ラッキーデーでした。
昨日は、よく利用するディスカウントストアが
月に一度の
『ポイント十倍還元! お客様感謝デー』を開催していました。
けれど。
そんな現実的で分かりやすい“お得”よりも、
ただの毎週水曜日のほうが、私にとってはずっと価値があったのです。
清継先輩と、並んで帰れる唯一の日だったから。
普段、先輩は同級生の誰かと帰ることが多い。
中心にいる人は、常に誰かに囲まれているものです。
けれど、水曜日だけは事情が違いました。
どうやら皆、塾に通っているらしい。
結果として。
水曜日だけは、
私が先輩を“独占”できてしまうのでした。
独占。
甘くて、少しだけ後ろめたい言葉。
それでも私は、その響きを胸の中で何度も転がしていました。
中学生活が始まって、半年。
あの竹刀直撃事件をきっかけに剣道部へ入部した私は、
引っ込み思案だった過去の自分から、
一歩だけ前へ出ました。
一歩。
ほんの数センチの勇気。
けれどその距離は、
かつての私にとっては、何光年も離れているような隔たりでした。
少しずつ、
少しずつ。
私は清継先輩に話しかけるようになりました。
挨拶から始まり、
部活のこと、
学校のこと。
水曜日の帰り道では、当たり前のように並んで歩く。
かつての私からすれば、考えられない変化です。
小さな一歩。
けれど確かなレベルアップ。
その積み重ねの果てに。
通称「ヘアピンモブ」だった私は、
先輩にとっての――
水上瑞希。
名前で呼ばれる存在へと、
ようやく進化することができたのです。
それだけで、
世界が一段明るくなった気がしました。
清継先輩は、周囲から見れば完璧な人――
学業も。
武道も。
人間性も。
非の打ちどころのない、超人。
けれど。
実際に話してみると、
驚くほど普通の男の子でした。
好きなアイスの味で真剣に悩み、
くだらない冗談で笑い、
時折、突拍子もないことを言う。
そのギャップが、私は好きでした。
……この時は、まだ何も知らなかったのです。
当時の私は、あくまで「多くの人」の側に立っていました。
清継先輩の完璧さが。
どれほど歪で。
どれほど不安定な均衡の上に成り立っていたのかを。
それを知ることになる、きっかけがありました。
清継先輩と出会って、半年。
水曜日という特権を手に入れ、
名前で呼ばれる距離まで辿り着いた私は、
それでもまだ満足できませんでした。
人は、与えられると欲張りになる。
関係を、もう一歩。
そのために私が選んだのは、
正面突破ではなく――迂回でした。
清継先輩の幼なじみ。
板橋圭吾先輩。
外堀から埋める。
言い訳はいくらでもできます。
本人に直接アピールできない臆病さ。
情報を得たいという合理性。
けれど本当は。
拒絶されるのが、怖かっただけです。
高校の友達、ちえりちゃんが同じことをしていたのを思い出します。
あの時は少し呆れたくせに。
――恋は戦争。
そう言い聞かせることで、私は自分の姑息さに目をつぶる。
サッカー部の練習が終わるのを、
私はフェンスの外で待ち続けました。
ボールを蹴る音。
笑い声。
夕焼けに染まるグラウンド。
やがて、部員たちがばらばらと引き上げてくる。
「あ、あの……板橋先輩、ですよね?」
声が少し裏返る。
「お、何だよ。
もしかして俺のファンだったりする?」
軽い。
第一印象は、掴みどころのない陽キャ。
飄々としていて、悪びれない。
「い、いえ……
板橋先輩は清継先輩の幼なじみだと聞きまして」
「ん? 何だお前……
ああ、あれね。清継のファンか。
はあ……」
わざとらしい溜息。
「どうしてこうも俺から情報を聞き出そうとする奴が多いんだろうな。
今月だけで五回目だぞ、五回目!
……いや、六回目か? まあいいや。もう慣れたものですよ」
「やっぱり、他の子も来てるんだ……」
「そうだよ。
俺は清継の専属マネージャーかっての。
お前らには何一つ教えねえぞ。こっちにも守秘義務があるんだ」
笑っているのに、目が笑っていない。
「清継先輩って、今彼女いるんですか……?」
「俺の話聞いてんのか!?
お前ら過激清継ファンは、同じ質問ばっかりしてくる。
毎日、質の悪い記者会見だ。
こっちはもうノイローゼになりそうなんだよぉ!」
「す、すみません……」
「で、おたく。どこ新聞のどちらさん?」
「剣道部一年の、水上瑞希です……」
名乗った瞬間。
圭吾先輩の眉が、ぴくりと動きました。
そして。
私のヘアピンを、じっと見つめる。
あの、黄色と茶色のマーブル。
「へえー。
お前が水上か」
「え……?」
「剣道部に同姓同名はいるのか?」
「水上は私だけです」
圭吾先輩は、少しだけ口角を上げました。
「お前、清継のこと好きなの?」
「……はい」
「どこが?」
射抜くような視線
考える暇もなく、私は答えていました。
「話してみると、意外と普通で……
面白いところです」
一瞬の沈黙。
そして。
圭吾先輩は、にやりと笑いました。
あの、いつもの腹立たしい笑み。
今なら、そう表現できます。
けれどあの時の私は。
ただ。
背筋に、冷たいものが走るのを感じていました。
まるで。
何か、踏み込んではいけない場所に
足をかけてしまったかのように。
圭吾先輩が、喉の奥で小さく笑いました。
「『普通』で面白い、か。
……ハハ。お前、良い目をしてるな」
私は思わず、眉を寄せます。
「なんですか、それ。
清継先輩という“完璧な人間”の良ささえ見抜けない私の目を、
節穴だと馬鹿にしているんですか」
「違えよ。逆だ、逆」
圭吾先輩は肩を竦め、声を落としました。
「今までの有象無象どもはな。
清継のどこが好きかって聞くと、
決まってこう言うんだ」
吐き捨てるように。
「『あんな完璧な人は他にいません』ってな」
夕暮れの光が、彼の横顔を斜めに照らしていました。
「それは……私も、そう思いますけど」
「思うのと、口に出して言うのとじゃ意味が違う。
少なくとも、俺にとってはな」
理解できない、という顔をしていたのでしょう。
圭吾先輩は、ふっと真顔になりました。
「清継に彼女はいない。
今まで一度もな」
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
意外でした。
あれだけの人気者なら、
若くして、彼女をとっかえひっかえにしているものとばかり。
安心と同時に、疑問が湧く。
「どうして教えてくれるんですか?
さっきは何一つ答えないって言ってたのに」
「最初はな。門前払いにするつもりだった。
でも、お前は――あの水上だった」
「あの、って……どの水上ですか?」
圭吾先輩は、少しだけ目を細めました。
「清継がな、最近楽しそうなんだよ」
その一言で、鼓動が跳ねる。
「それでお前の話をする。
“後輩の水上って奴がさ”ってな」
「それだけ、ですか?」
「それだけ、だ。
だがな、水上。
それが信じられねえんだよ」
彼の声が、わずかに低くなる。
「あいつが他人の名前を覚えて、
しかも自分から話題に出すなんてな」
風が、グラウンドの砂を撫でる。
「俺の知る限り、水上。
お前で二人目だ」
「二人目……?」
その言葉は、妙に重かった。
人気者だから覚えきれないのだろう――
そんな単純な話ではない。
そう直感だけが告げていました。
そして。
圭吾先輩は、唐突に言いました。
「俺がお前と清継の距離を近付けてやろうか。
飯くらい、二人で当たり前に行ける程度にな」
「え……!? そんなこと出来るんですか?」
「ああ」
即答。
「これから俺とお前が“友達のフリ”でもすりゃあいい。
そんで清継も含めた三人で、
昔からの幼馴染みみたいに振る舞う」
さらりと言う。
「そのうち、お前らだけでも自然に過ごせるようになるだろ。
でも、協力するには条件が二つある」
圭吾先輩が、指を二本立てる。
私は無意識に唾を飲み込みました。
「一つ。
お前は清継に、絶対に告白しないこと」
心臓が、わずかに軋む。
「二つ。
清継が笹本悠里と話している時は、
絶対に間に入らないことだ」
その名前が、空気を冷やしました。
「……告白するな、とは変ですね。
それじゃあ、板橋先輩は何のために――」
「俺は別に、清継に彼女を作らせたいわけじゃない。
あいつからすれば、余計なお世話だろうしな。
水上には、清継にとっての“良い後輩”でいてほしいだけだ」
良い後輩。
それは、昇格のようでいて。
同時に、境界線でもありました。
「で、笹本だが――」
彼は笑います。
私が一番聞きたくない言葉を告げるために。
「今、最も清継の彼女に近しい同級生だ。
両想いかどうかは知らない」
胸に、棘が刺さる。
けれどそれは、想定の範囲内でした。
私は一年生。
清継先輩は二年生。
その時間の差を埋めるには、
あまりにも遅い。
それでも。
まだチャンスはある。
圭吾先輩の協力があれば。
ここから巻き返せる。
――その時の私は、そう信じていました。
“良い後輩”という檻が、
どれほど巧妙な枷であるかも知らずに。
「分かりました。
私は清継先輩に告白しませんし、
笹本先輩という方が一緒にいる時は、身を引きます。
これで、良いですか?」
言葉にしてしまえば、あっけない。
未来の可能性を、
自分で一つ、閉ざしただけのこと。
それでも私は、納得していました。
恋よりもまず、距離。
想いよりもまず、立場。
そう判断したのです。
圭吾先輩は、満足そうに頷きました。
「おう。じゃあこれからよろしくな、親しき後輩ちゃん。
俺のことは“圭吾”でいい」
軽い声音。
けれどその奥に、
何かの確認が終わった安堵の色があった気がします。
「はい、圭吾先輩。
最後に、聞いてもいいですか」
「ん?」
「圭吾先輩は、清継先輩の何なんですか?
本人の知らないところで、こんな話を持ちかけるなんて……
普通の友達なら、しませんよね」
一瞬だけ。
夕暮れの光が、彼の目に鋭く反射しました。
圭吾先輩は、笑ったまま。
けれど、声の温度を落として言います。
「俺か?」
間。
「そうだな」
その口調は、冗談のようで。
けれど、少しも冗談ではありませんでした。
「清継のためなら、
どんな気持ちでも平気で利用する、ただの親友だよ」
ぞくり、と。
背筋に冷たいものが走る。
“どんな気持ちでも”。
そこに、私の気持ちも含まれていることを、
わざわざ説明される必要はありませんでした。
圭吾先輩は、終始楽しげでした。
駒を一つ、正しい位置に置いた棋士のように。
――私は。
この人が、苦手だ。
きっと、これからも。




