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ヘアピンモブの独白【Ⅰ】

◇ ◇ ◇


 清継きよつぐ先輩の存在を知ったのは、

 中学に入学して、まだ校舎の匂いにも慣れていない頃でした。


 同じ中学生という肩書きを持ちながら、

 彼の周囲だけはどこか別の階層にあるようで。


 『無償の英雄』。

 『愛の伝道者』。


 そんな、少し口にするのが気恥ずかしい異名が、

 半ば冗談、半ば本気で語られていて。


 校内でその名を知らない人はいない――

 それは誇張ではなく、空気のような事実でした。


 今の私が偉そうに語れることではありませんが、

 当時の私は、まだずいぶん幼かったのです。


 中学生になったと言っても、

 ほんの数日前までランドセルを背負っていた身。


 今思えば、

 「小学七年生」と名乗っても違和感のない、

 そんな延長線上に立っていました。


 けれど、心だけは急ぎ足でした。


 制服を着た瞬間に、

 子どもであることを卒業した気になっていた。


 新しい生活には、新しい刺激が必要だと。

 何か劇的な出来事が、自分を変えてくれるはずだと。


 勉強。

 部活。

 友達と夜遅くまで遊ぶ日々。


 そうした健全で地道な変化に、

 当時の私はあまり魅力を感じられませんでした。


 私が思い描いた“刺激”は、

 もっと分かりやすく、もっと眩しいもの。


 ――恋。


 それしか、思いつかなかったのです。


 物語に出てくる白馬の王子様。

 選ばれる少女。

 運命的な出会い。


 そんなものを本気で信じていたわけではありません。

 けれど、どこかで期待していました。


 人気を纏った存在。

 皆が注目する人。


 そういう人の隣に立てば、

 自分も少しは特別になれるのではないかと。


 ……今も、その傾向がまったく消えたとは言えませんが。


 だからこそ。


 校内随一の人気者――

 汐森清継しおもりきよつぐ先輩を、

 一度この目で見てみたいと思ったのです。


 もっとも。


 そんな下心を胸に、

 一人で先輩のもとへ挨拶に行けるほど、

 私の肝は据わっていませんでした。


 だから、友達を誘う。


「放課後、汐森清継先輩を見に、剣道部行かない?」


 自分でも驚くほど、声は軽かった。


 二人に声をかけてみると、

 返事はあっさりと返ってきました。


「行く」


「え、マジ? 行く行く」


 即答。


 それだけ、清継先輩という名前は

 この学校の中で特別な重みを持っていたのです。


 剣道部の道場は、校舎から少し離れた場所にありました。

 部室はその二階。


 放課後の喧騒から、わずかに切り離された空間。


 私たちは人目を避けるように校舎裏を抜け、

 わざと遠回りをして、そこへ向かったのです。 


 胸が、少しだけ高鳴っていました。


 部室前に辿り着くと、

 すでに人だかりができていました。


 新入部員の見学期間。

 本来なら、堂々と足を踏み入れてもよい時期です。


 けれど私は、

 自分が“見学者”ではなく“野次馬”であることを、

 どこかで自覚していました。


 だから、物陰からそっと覗き込む。


 道場の床板は磨き上げられ、

 竹刀の振り下ろされる音が、乾いた破裂音のように響いています。


「面ッ!」


 怒声にも似た掛け声。


 空気が震え、肺の奥まで振動が届く。


 剣道部は二十名ほど。


 整列した背中は揃い、

 その動きには無駄がなく、

 他の運動部とは明らかに異なる緊張が漂っていました。


 私は思わず、息を呑みます。


 やがて、小休憩の合図。


 部員たちは一列に並び、

 静かに正座をすると、

 同時に面を外しました。


 防具には名前が記されています。


 本来なら、それを確認すれば

 誰が『汐森 清継』なのかはすぐに分かったでしょう。


 けれど。


 そんな必要はありませんでした。


 一目で、分かってしまったのです。


 同年代のはずなのに、

 ひと回り、ふた回りも大人びて見える姿。


 汗をかいているはずなのに、

 なぜか涼しげで。


 自然に浮かぶ、作為のない笑顔。 


 光を集める、という言葉がありますが、

 あの人は本当に、周囲の視線を一点に吸い寄せていました。


 それが――

 汐森清継先輩でした。 


 次の瞬間、悲鳴にも似た歓声が上がります。


「汐森先輩、こっち見てー!」

「汐森君、可愛いー!」

「好きー!」


 黄色い声が、無遠慮に飛び交う。


 私はその光景を前にして、

 なぜか自分が叱られたような気持ちになりました。


 何も言われていないのに。

 何も否定されていないのに。


 ただ、圧倒されたのです。


 “特別”というものの質量に。


 清継先輩は、その声援をものともせず、

 当たり前の所作でギャラリーへ手を振りました。


 慣れている。


 慣れすぎている。


 どれほど呼ばれ、どれほど好意を向けられれば、

 あんな自然な応じ方ができるのでしょう。


 落ち着きと、堂々たる佇まい。

 どこか完成された存在。


 あの瞬間、私は確かに――

 憧憬と慕情を抱きました。


 けれど。

 今になって振り返れば。


 清継先輩は、自分を慕ってくれるその誰一人にも、

 本当の意味では興味を持っていなかったのだと思います。


 視線は受け取る。

 けれど、心までは渡さない。


 清継先輩は

 少し――いえ。


 かなり変わった人だったのですから。

 

 小休憩に入った剣道部は、

 道場一階の水道を水飲み場として使うようでした。


 竹刀の音が止み、

 張り詰めていた空気が、ゆるやかに解ける。


 必然的に、入口付近に固まっていた私たちギャラリーの方へ、

 清継先輩が近づいてきます。


 ――チャンス。

 普通の少女なら、そう思ったでしょう。

 けれど私は違いました。


 怖気づいた私は、反射的に一歩下がる。

 息を潜める。

 気配を薄くする。


 この場が舞台だとすれば、

 私は主演どころか端役ですらない。


 『一般生徒G』。


 台詞もなく、名もなく、

 ただ画面の端に映り込むだけの存在。


 景色に溶け込むことが、

 私にできる最大の自己防衛でした。


 清継先輩に「お疲れ様です」と声を掛ける生徒は多くいました。

 けれどその顔ぶれは決まっている。


 同じ学年の、目立つ子たち。

 中心に立つことを恐れない人たち。


 一般生徒Gにできるのは、

 ドラマのワンシーンを眺める視聴者でいることだけ。


 ――ですが。

 普通ではないのが、清継先輩でした。


 はっきり言ってしまえば。

 彼は、少し――おかしい。


 人の陰に隠れていた私に、

 ふと気づいたのでしょうか。


 一瞬、視線が合いました。


 それだけで、心臓が跳ね上がる。

 弾け飛ぶのではないかと思うほどに。


 私は耐えきれず、反射的に目を伏せました。


 けれど、その一瞬で十分だったのです。


 「来てよかった」


 胸を押さえながら、

 内なる私は薔薇で敷き詰められたピンク色の絨毯を、

 意味もなく転げ回っていました。


 ――ところが。


 清継先輩は、いったい何を思ったのか。


 ギャラリーをかき分け、

 まっすぐにこちらへ歩いてきます。


 逃げ場が、なくなる。


 そして。


 私の目の前で立ち止まり。

 額を、まじまじと見つめ。


 指を差して、言いました。


「そのヘアピン、可愛いな。

 昨日もらったキャンディの色にそっくりだ」


 意味が、分かりませんでした。


 私のヘアピンは、

 黄色に茶色のマーブル模様。


 少しだけ癖のある色。


 可愛いと言われたことはあっても、

 キャンディに例えられたのは初めてです。


 頭の中が真っ白になる。

 心拍だけが、うるさい。 


 そして私は、考えるより先に、こう答えていました。

 

「……プリン、ですかね」


 本当は、味なんてどうでもよかった。


 ただ何か言わなければ、と。

 沈黙が怖くて。


 清継先輩は、少しだけ考えるように天井を見上げ、

 それから、ふっと笑いました。


「ああ、それだったのか。

 気になってたんだ。ありがとう」


 気になっていた。

 何が。

 どうして。


 今の私なら、

 ――そんな癖の味、気付けない方がすごくないですか?

 と、即座にツッコミを入れているところでしょう。


 けれど当時の私は、

 完全に思考が停止していました。


 ただ、立ち尽くす。


 清継先輩はそれだけを言い残し、

 何事もなかったかのように階段を降りていきます。


 嵐が通り過ぎた後のように。


 けれど違いました。


 嵐は去れば、空気が澄む。


 あの人は。

 去ったあとに、

 胸の奥へ奇妙な色を残していったのです。

 

 それからというもの。


 どの部活にも決めきれずにいた私は、

 理由もなく――

 いいえ、理由を考えないようにしながら、

 剣道部の見学へ通うようになりました。


 足は自然に道場へ向かうのに、

 心だけが知らないふりをしていました。


 そして。


 あの日を境に、

 私の中で何かが静かに輪郭を持ち始めていたことを、

 当時の私はまだ理解していなかったのです。


 ――やがて、その瞬間が訪れます。


 部活に打ち込む清継先輩は、

 まるで別人のようでした。


 笑顔も、柔らかな声音もない。

 あるのは、研ぎ澄まされた集中。


 対戦形式が取られ、

 竹刀と竹刀が唾を競り合わせる。


 ぎし、と軋む音。


 互いに一歩も譲らないまま、

 時間だけが削られていきます。


 私は息を止めていました。


 両者は威嚇するように声だけを上げ、

 足を止めたまま動かない。


 張り詰めた空気が、

 限界まで引き伸ばされた糸のように震えた、その瞬間。


 清継先輩が、押し返す。


 一歩、後退。

 面を狙う――と見せかける。


 相手の意識が上に引き上げられた、刹那。


 迷いのない軌道で、

 鮮やかな胴が決まりました。 


 乾いた打突音。


 ――そして。


 不自然な、もう一つの音。


 ぱきん、と。


 清継先輩の竹刀が、

 まるで限界を超えたようにへし折れたのです。


 飛び散る竹の破片。


 その一本が、

 一直線に私へ向かってきました。


 避ける間もなく。


 衝撃。


 視界が白く弾ける。

 幸い、眼球は無事でした。


 けれど、頬に走る鈍い痛みと、

 じんわり滲む熱を、今でも覚えています。


 気がつけば。


 清継先輩が、駆け寄っていました。


 本来なら礼を重んじるはずの武道家が、

 面も小手も投げるように外し、

 真っ直ぐこちらへ。


「大丈夫か。

 怪我はないか、見せてみろ」


 その声には、確かな焦りがありました。

 顔を覗き込まれる。


 近い。


 汗の匂いと、呼吸の熱。

 ぱちり、と目が合う。


 そして。


 清継先輩は眉を寄せ、

 記憶を探るように言いました。


「君は、確か……

 見学によく来てて……

 すぐ影に隠れる……一年の……」


 心臓が、止まりそうになる。


 ――次の瞬間。 


「そうだ。

 ヘアピンモブだ!」


 ……それが。


 私、水上みなかみ瑞希みずきと、

 汐森清継先輩との出会いでした。


 先輩に恋した少女が。


 ただの“良い後輩”になると決めるまでの話を。


 ここから、少しだけしましょう。

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