誰しも腹の底が見えないから、友人の皮を被る②
空は、やけに高かった。
雲ひとつない青が、四角く切り取られている。
中庭には天井がない。
雨が降れば、
ただの箱庭は即席のシャワールームになってしまう。
だが、今日は違う。
乾いた光が、石畳を白く照らし。
空気はぬるく、やわらかい。
誰もいない。
俺と笹本だけ。
この空間を貸し切りだ。
だが、それを素直に喜べない。
今この時間も、
他の生徒たちは教室で授業を受けている。
黒板に向かい、ノートを開き、
世界の“正しい進み方”に従っている。
そこから外れた俺たちは、
この四角い空の下で立ち止まっている。
胸の奥にある昂ぶりは、征服感ではない。
もっと湿ったものだ。
背徳、だろう。
誰にも許可されていない時間を、
盗んでいる感覚。
そして何より――
その共犯者が、
笹本悠里であるという事実。
それが、少しだけ心地よかった。
俺はベンチに深く腰を下ろし、空を見上げるふりをしてから口を開いた。
「笹本、どうしてずっと学校来なかったんだ?」
「まあ……色々あってね。
少し、頭を整理する時間が欲しかったんだ」
曖昧だ。
けれど、嘘ではない響き。
「そうか」
踏み込めない。
心の奥に足を入れるには、
俺たちはもう、昔ほど近くない。
距離は、時間よりも残酷だ。
どこからか舞い込んだモンシロチョウが、
白い軌跡を描いて中庭を横切る。
「キャンディ、持ってる?」
一瞬。
笹本の瞳が、わずかに見開かれる。
驚き。
そして、理解。
「ああ。あるよ。
何味がご希望かな?」
「どれでも良いさ。
てか、どんだけ持ってんだよ。年中ハロウィンかよ」
「はい、とりっくおあとりーと」
ポケットから現れたのは棒付きキャンディ。
俺は「意味わかってんの?」と小さく呟きながら、受け取って封を破る。
コーラ味だ。
舌の上で弾ける甘さが、一瞬だけ、時間を巻き戻す。
笹本もまた、自分のキャンディを口に含み、
無言で転がしている。
二人並んで中庭のベンチに座るその姿は、
外から見れば、まるで放課後の一場面のようだろう。
静かな時間がしばらく続く。
やがて、笹本が口を開いた。
「そういや汐森、バイト始めたんでしょ?
どうなの、調子は」
「飲食店だよ。
お好み焼きとか、たこ焼きとか、焼きそば作ってる。
店は古いけど、店長は気さくで良い人だよ」
「違う違う」
食い気味に遮られる。
「どんなバイト先かじゃなくて、あんたのこと。
家族とはどうなったのかなって。
施設も出たんでしょ?」
「ああ、そっちか。
家には戻ったよ。
母親は新しい仕事が忙しいみたいで、あまり家にいない。
ほとんど一人だな」
一拍。
空白が落ちる。
だから、俺は続ける。
「でも今はさ、学校に来れば圭吾や五里や水上や恋花がいる。
王子や上野もいるし、その他モブ達とも仲良くやってる。
笹本だって同じクラスだ。
お前もきっと、すぐ友達できるよ」
明るく。
軽く。
何も問題がないかのように。
キャンディが、やけに甘い。
「ふーん。そうかな」
笹本は空を見上げる。
そして、何気ない声で言った。
「それであんた、どうして向崎と別れたの?」
「――!」
唐突な問いに、キャンディが喉に引っかかりそうになる。
もしこのまま窒息して死んだら、
ニュースのテロップはこうだろう。
《授業をサボり、キャンディを喉に詰まらせ死亡》
最悪だ。
墓石にまで“キャンディ清継”という芸人のような名で刻まれたら、
死んでも死にきれない。
「いきなり何言い出すんだよ!
てか笹本、お前、恋花と話したんだろ。
その時に訊けば良かったじゃん」
「向崎に理由を訊いても、はぐらかされるだろうから、
あんたに訊いてるんじゃないか」
笹本は、キャンディを転がしながら続ける。
「あの子は、“嘘つき”の目をしているよ」
一瞬、空気が凍る。
考えるより先に、否定が出た。
「なんだ、お前でも人を見誤るんだな。
恋花は品行方正、清廉潔白を体現したような奴だぞ。
あいつが嘘つきなら、この世に正直者なんていないよ」
「あはは。
見誤っているのは、あんたの方だよ。
純粋な汐森に、良いこと教えてあげる」
笹本は小さく笑い、俺をまっすぐ見た。
「嘘つきでも、正直者の顔をしていられる方法」
「何、お前。
ネットで怪しい情報商材でも売ってんの?」
「なわけないでしょ」
少しだけ肩をすくめる。
「嘘つきでも正直者でいられる方法はね――
ついた嘘を、本当にあったことだと思い込むこと」
間。
「自分を騙すの」
その言葉は、風よりも静かに落ちた。
俺は一度、それを咀嚼する。
飲み込もうとする。
理屈はわかる。
わかるが――
恋花に、それを当てはめることができない。
彼女が、自分を騙すほどの嘘を抱えている?
何のために?
眉間に皺が寄る。
「笹本は……
誰がどんな人間で、どんな裏を抱えてるか、とか。
そんなこと考えながら生きてるんだな」
少し呆れたように、だが本心から訊ねる。
「疲れないか?」
沈黙。
キャンディの棒が、かすかに歯に当たる音。
「……疲れる」
「だろうな」
俺たちはそれ以上言わず、空を見上げる。
青は高く、どこまでも均一で。
その奥を、一本の飛行機雲が横切っている。
真っ直ぐに伸びた白線。
だが、よく見れば――
端から、少しずつ滲んでいる。
やがて形を失い、空に溶けるだろう。
嘘も、本当も。
境界は、案外あやふやだ。
きっと笹本は、
その滲みを見続けてしまう人間なのだ。
だから、疲れる。
落ち着いてから、ゆっくり近況を訊けばいい。
そう思った矢先、ポケットが震えた。
「あれ、スマホ入れっぱなしだった」
「やーい、不良の汐森」
「お前にだけは言われたくないよ」
本当にうっかりしていた。
鞄にしまったつもりだったのに。
こんな時間に、誰だ。
画面を開く。
五里からだった。
『清継さん、どこに行っちまったんですかい?
体育は腹下してるって伝えておきましたが、次の授業もそれで良いですか?』
良いわけがない。
どれだけ気張れば、二時間もトイレに籠もることになるんだ。
もはや大腸ごと提出している計算だろう。
笹本が、横から覗き込む。
「五里……ああ、あの金髪ゴリラか」
「違うよ笹本。
彼はゴリラ。ゴリラだ」
「何一つ訂正されてないじゃない」
返信の文面を考えていたら、つい言葉を間違えてしまった。
……しかし、授業をサボる理由。
正当な嘘。
正当な――嘘。
「……何か腹、痛くなってきたな」
「大丈夫?」
「キャンディに何か入ってたかも。
お前はどうだ?」
「いや、そんなわけ――」
一瞬、笹本が止まる。
そして、口元がわずかに歪む。
「ああ。
そうか。私もそんな気がしてきた」
「……だろ?
今日はもう、授業どころじゃないな」
俺は大きく伸びをする。
「……帰るか」
笹本は、小さく笑った。
「ふふ、そうだね」
それは、同意というより、確認だった。
俺たちは時間差で早退を申し出た。
順番は俺が先。
笹本は後。
理由は単純だ。
俺は、人を待つのが得意だから。
一時間後、公園で落ち合う。
名目は――旧交を温めるため。
もちろん、体調不良などではない。
五里と圭吾にだけは、サボりだと正直に伝えた。
あいつらは呆れながらも、きっと口を閉ざしてくれる。
帰り際。
隣の席の恋花が、思いのほか真面目な顔で言った。
「本当に大丈夫?
無理しないでね」
その声音は柔らかく、真摯だった。
普段の扱いの違いに、ひどく驚いた。
弱っている者には、やはり優しいのだろう。
――そういう子だ。
明日になれば、一晩で回復したことを報告すればいい。
それで済む話だ。
今日サボることの懸念は、一つ。
委員会の日だったこと。
後輩の水上に、また小言を言われるだろう。
だが、構わない。
あいつは理解のある良い後輩だ。
事情を話せば、きっと分かってくれるだろう。
◇ ◇ ◇
「よーう、水上。
今日もやってるかあ?」
放課後の事だ。
私は一人で図書委員の仕事をしていると、本当に珍しい客人がやって来た。
私は露骨に嫌な顔を作って言う。
「圭吾先輩……何の御用ですかー?
ここは図書室。
カラオケじゃないんで圭吾先輩みたいな人が来るとこじゃありませんよ。
帰って下さい」
「俺を何だと思ってるんだよ全く。
清継に言う時と違って、俺に対してはガチなんだから」
「そりゃそうですよ。
圭吾先輩が私に用がある時なんて、大抵ろくなことがないんですから」
「まあな。
清継なら今日は帰ったぞ。早退だ」
「え、体調でも悪いんですか?」
「いんやー? サボりだ。
笹本 悠里と一緒にな」
その言葉に、
私は思わず身体を跳ね上げてしまった。
誤魔化すことも出来ないほど、
反応は自然で、心の内まで透けてしまうようだった。
それでも、なんとか取り繕おうとしてみる。
「へえ。
笹本先輩、登校してたんですね」
「昨日からな。
それで、お前はどうするんだよ」
「どうって、何がですか」
言葉が震えると、圭吾先輩はくすくすと笑みを零す。
ああ、私はやはり――
この人が苦手だ。
まるで胸の奥まで覗き込まれたかのように、
圭吾先輩の笑みは憎らしいほどに意地悪く広がった。
「ライバルが増えて、何もしなくて良いのかなって」
思わず私は席を立ち上がる。
図書室の利用者がいなかったのは、幸いだったと思う。
「圭吾先輩! あなたは本当に何なんですか?
もうその話には触れないって約束だったじゃないですか!
そうやって誰よりも人の心が見えるのに――
馬鹿のフリしてるのが、前から嫌いだったんですよ!」
中学時代から胸に燻っていた思いを、ついに言葉にしてしまった。
圭吾先輩は、私にとっていつだって黒猫やカラスのように、
不吉を告げる存在だった。
改めて言う。
彼がわざわざ私に声をかけてくるときなど、
ろくなことが起こるはずがない。
だって私と圭吾先輩は、一見仲良くしているようでも、
清継先輩の前でなければ、友人ですらないのだから。
――清継先輩は、この事実を知らない。




