二年前の放課後【Ⅱ】②
「あんた、今まで告白してきた子の顔と名前、
覚えてる?」
唐突すぎて、理解が一拍遅れる。
「つい最近も後輩に告白されてたよね。
ほら、あれ……誰だっけ」
「いきなり何言い出すんだよ」
反射で返す。
だが、記憶はすでに動き出していた。
「覚えてるに決まってるだろ。
確か……古谷、ち——」
止まる。
続きが出ない。
名前が、ほどける。
顔が浮かばない。
廊下で呼び止められたことは覚えている。
水上瑞希の友達だったことも。
緊張で指をぎゅっと握っていたことも。
――でも、顔がない。
「……おかしいな」
言い訳みたいに呟く。
笹本は何も言わない。
ただキャンディを、ゆっくり揺らしている。
「じゃあさ——
今まで助けた人たちは?」
その声は、責めるでもなく、試すでもない。
「いっぱいいるでしょ。
あんた、人助けが趣味なんだから」
「趣味じゃねえよ。
……えーっと」
言葉を探しながら、
記憶を引きずり出す。
「試合の人数合わせで、急遽助っ人に入ってやったあいつだ。
野球部で、背が小さくて……筋肉モブの——」
言い切れない。
名前も、顔も、輪郭を結ばない。
「他は?」
笹本は急かさない。
ただ、楽しむように続きを促す。
「……初めて出来た彼氏と別れて泣いてたやつ。
暫く愚痴を聞いてやった。
ショートヘアで、歯並びが良くて、
泣き虫モブの……泣き虫……の……」
言葉が、砂みたいに指の隙間から零れ落ちる。
「……クソ。
何でだよ」
思い出そうとするほど、頭の中はざらついていく。
確かに“助けた”はずなのに、そこに人の形が残っていない。
「ふふ。
やっぱりね」
笹本は、楽しげに笑った。
悪意も哀れみもない、ただ確信を得た人の笑いだ。
キャンディを口に戻し、からりと噛む。
「汐森ってさ、 いつもそうだよね」
「……何がだよ」
「付き合いの浅い人のこと。
名前じゃなくて、こう呼ぶんだ」
一拍。
「なんとかモブって」
「な……」
「汐森の世界はね」
彼女は視線を上げる。
「自分が主役で、
他の人は全てモブキャラなんだよ」
断定ではない。
観察結果の報告みたいな声音。
「だから、他人に興味がない。
顔を覚えない。
絵に描けない」
「そんなことはない!」
思わず声が荒れた。
「圭吾も、水上も、笹本も……俺にとっては特別だ。
モブキャラなんかじゃない。
絵が描けないのとは、関係ない」
言い切ったつもりだった。
だが、その言葉は自分自身に言い聞かせるためのものだった気もする。
「じゃあ、試してみればいい」
淡々とした口調だった。
「汐森さ。
弟、いたよね?」
「……清彦のことか?」
「そう。
弟君の顔、描いてごらんよ」
息を呑む。
人の顔を前にしてすら描けないのに、
想像だけで描けるわけがない。
――だが。
もし、描けてしまったら。
その瞬間、笹本の言葉は仮説ではなくなる。
俺は本当に、世界を“主人公とモブ”に分けて生きてきた最低な人間だと、
証明されてしまう。
それが、なにより恐ろしくて。
ペンを持つ手が、目に見えて震えた。
笹本が、俯いた俺の顔をそっと覗き込む。
「……怖い?」
「すごく」
「大丈夫」
その声は、驚くほど柔らかかった。
「冷酷な人間性を、私に証明するためじゃないよ。
あんた自身が理解するためさ」
そう言って、彼女はまるで壊れ物に触れるみたいに、
そっと俺の背中に手を置いた。
指先から伝わる体温に、不思議と胸の奥が温まる。
気のせいかもしれない。
けれど確かに、何かが押し広げられた感覚があった。
その微かな後押しに導かれるように、
俺は意を決してペンを握る。
思い浮かべるのは、今は離れた場所にいる弟の顔。
家族がまた揃う日を、何度も夢見た記憶。
清彦と過ごした、取り留めのない日々の断片。
――手に、迷いはなかった。
線は自然と紙の上を滑り、
まるで前からそこにあったかのように、輪郭が現れる。
衝動に突き動かされるように、
眉、目、鼻、口が、次々と正しい位置に収まっていく。
気づけば俺は、長い間描けなかった“人の顔”を――
弟の顔を、容易く描き上げていた。
魔法みたいだ、と思った次の瞬間。
その事実が、冷たい認識として胸に落ちてくる。
俺は、自分自身に失望して、
思わず嘲るように、短く笑った。
「はは……マジかよ」
乾いた笑いが、喉の奥で引っかかった。
「本当に俺は、周りの人間をモブキャラだと思ってるのかよ。
最低な人間だな」
「汐森は、最低なんかじゃないよ」
「いいよ。
慰めなんて要らない」
俺は首を振る。
「もう分かったんだ。
俺が、どんな人間か」
「私が慰めなんてできると思ってるの?」
笹本は、少しだけ呆れたように言ってから、真っ直ぐに続けた。
「汐森。あんたは、家族が何より大切なんだよ。
取り戻したいって想いが強すぎて、それ以外の人に目が向かない。
周りが見えなくなるくらい、思い詰めてる」
胸の奥を、言葉が正確に撃ち抜いてくる。
「だから怖いんだ。
そんな自分を誰かに知られるのが。
踏み込まれないように、“良い人”の仮面を被ってる」
一拍、置いて。
「臆病だけど――最低じゃないよ」
「……臆病か」
噛みしめるように呟く。
「そう、かもな。
でも……やっぱり自分を許せない。
内心じゃ、笹本ですら、どこかモブキャラ扱いしてるんだから」
「ほんっと、そうだね」
笹本は、わざとらしく肩をすくめた。
「無自覚とはいえ、まさか私までそんな扱いをされてるとは思わなかった。
……それは、ちょっとショックだよ」
「……ごめん」
「いいよー、汐森は優しい奴だもん。
私が一番よく知ってる。
こんな私と、一緒にいてくれるんだから」
「……どうして、そんな言い方するんだ」
胸の奥が、ざわつく。
「俺は……笹本とは、ずっと話していたい。
そう思えるよ――本心だ」
言葉の隙間で、
笹本は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと眉を下げる。
困ったようで、どこか照れたような微笑みが、唇に浮かんだ。
「はは、何それ。まあ……私も、あんたと一緒ならそう思えるかな。
……汐森はさ、今は苦しんでるのかもしれないけど、
いつかそんなあんたを救ってくれる人が現れるといいね」
「何言ってんだよ。
お前がいるだろ」
息を吐くように笑う俺の声は、少し震えていた。
「笹本はやっぱ凄いな……“言葉の魔法”って言うのかな。
お前の言葉には、いつも救われてばかりだ」
「買い被り過ぎだよ」
「今日だって、俺がずっと悩んでいた事に答えが出せたじゃないか。
凄く感謝してる。だからさ――
もしも笹本が救いを求める事があったら、今度は真っ先に俺が手を伸ばすよ」
不器用に、ぎこちなく。
精一杯の笑みを作ってみせる。
形は崩れているかもしれない。
でもこれしかできなかった。
心の内を伝えるための、精一杯の形だった。
笹本は、ただ一言だけ――
「そっか……。じゃあ、その時は頼むよ」
その瞬間。
町の防災無線が低く澄んだ音色で、
十八時のチャイムを告げる。
日常点検の名の下、俺たちの町では一日に三度、
決まった時刻にこのメロディーが流れる。
十八時は、その最後の合図だった。
胸の奥で、時間が跳ねる。
俺は慌てて立ち上がる。
「やべ、門限間に合わなくなる。
そろそろ行くよ」
「うん。そうだ、汐森。
今日待たせたお詫びに、いいものあげる。
目、閉じて」
「何、キスでもしてくれんの?」
「なわけないでしょ」
――そりゃそうだ。
だが、脳内では密かに、放課後+二人きり+目を閉じて=キスか?
という馬鹿みたいなピンク色の方程式が、勝手に踊り出していた。
自分が少し情けない。
少し間があってから、
俺の口に何かが押し付けられるように突っ込まれた。
温かく、甘い感触。
「……なにこれ」
「キャンディ」
「なんだよお前、ラスイチって言ってまだ持ってたんじゃねえか」
「探してみたら、一個だけ残ってた」
「まあいいや。
もう時間無いから、先行くわ」
「うん、またね」
笹本は口元を隠すように、フードを深くかぶる。
その仕草は無言のまま、何かを残しているようでもあり、
彼女の気持ちをうかがい知れない。
俺はそれを気にもせず、
急いで荷物を纏め、公園を駆け出す。
心なしか、いつも貰うキャンディよりも一回りほど小さい。
そんな違和感を気にもせず、
口でカラカラと音を立てた——。
* * *
二年一組の生徒たちは、
ざわめきと足音を残しながら体育館へと向かっていく。
均等に揃った制服の波の中で、
ひときわ異なる存在がひとり――
群れとは反対の方向へと、歩を進める少女がいた。
俺はその背に視線を釘付けにし、自然と足を速める。
声をかけようと、
喉の奥で言葉をこねながら、彼女に追いついた。
「よお、笹本。
今日もサボりか?」
「やあ、汐森。
高校で話すのは、初めてだね」
――俺たちが言葉を交わすのは、
中学時代以来だ。




