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二年前の放課後【Ⅱ】


「ごーめん、汐森しおもり

 待たせたね」


「ああ、笹本ささもと

 いや、俺も、ついさっき来たところだよ」


「嘘つき。

 汐森がそう言う時って、だいたい一時間は経ってる」


 ――正解だ。


 放課後の公園で、俺は彼女を待っていた。


 夕方の気配がじわじわと空気に滲み、

 遊具の影が長く伸びはじめても、立ち上がる理由は見つからなかった。


 今日はいよいよ来ないかもしれない。

 そう思える時間帯を、とっくに過ぎている。


 彼氏ですらないのに「まだ?」と送るのは、

 自分の価値を切り売りしているみたいで、どうにも惨めだった。


 だから俺は、忠犬じみた沈黙を選び、

 門限ぎりぎりまで同じ場所に腰を据え続けた。


 笹本は、そういう俺の性分をよく知っている。


 俺が腰掛けていたブランコの隣に、

 彼女は音もなく座る。


 棒付きキャンディを口にくわえ、

 揺れるたび、カラカラと乾いた音が鳴った。


 その音と仕草が妙に気になって、

 視線は自然とそこに縫い留められる。


「……まだキャンディ、持ってる?」


「ごめん。

 これ、ラスイチ」


「なんだよ。

 じゃあ、これ見よがしに音立てるなよ。

 視聴者俺一人のASMR配信かっての」


「悪いね」


「それで?

 今日は随分遅かったな」


 言い終えてから、

 ずっとここにいたと白状したも同然だと気づく。


 もっとも、今さら誤魔化す気もなかった。


 笹本は肩をすくめ、

 少しだけ苛立ちを混ぜた声で言う。


「帰りに生活指導の中村に捕まってさ。

 持ち物検査までされた。

 あのおやじ……セクハラで訴えてやろうかな」


「普段から校内でスマホ触ったり、フード被ったり、

 キャンディ持ち歩いたりしてるからだろ」


「汐森だってスマホ持ってるじゃん」


「俺のは施設から貸与されてるやつだし、

 ちゃんと許可も取ってる。

 問題ない」


「何それ、ずーるー。

 ……てか汐森、それ何?」


 手元を覗き込まれる。


「もしかして、絵描いてたの?」


 俺は反射的にノートを胸元へ引き寄せた。


 鞄に仕舞うのが一拍遅れた――

 そう思った時には、もう手遅れだった。


「見せて」


 許可を求める形だけ整えて、

 彼女はひょいとノートを奪い取る。


 どうやら俺という人間には、

 プライバシーという概念が実装されていないらしい。


「へえ……風景画なんだ。

 汐森さ、絵、上手いんだね。

 ちょっと意外」


「まあな」


 軽く答えてから、少しだけ言葉を足す。


「施設じゃ、できることが限られてるからな。

 テレビは一台を二十人で回すし、パソコンも一台だけ。

 しかも使うには予約が必要で、閲覧制限もやたら厳しい」


 口にしながら、

 自分の生活を他人のものみたいに数えている気分になる。


「だから、時間を潰す方法なんて限られてる。

 小学生に精神年齢を合わせて話すか、絵を描くか。

 結果的に、絵だけが残った」


「うわ……それはキツいね」


「もう、慣れたけどな」


 強がりではない。


 ただの事実だ。


「ふーん」


 笹本は感心したようにページをめくる。

 しばらくして、ふっと首を傾げた。


「でもさ。なんで風景だけ?

 ほら、あそこ。子供とかいるじゃん」


 視線の先では、

 小学生たちがまだ走り回っている。


 少し離れた場所では、

 保護者らしき大人たちが立ち話をしていた。


 笑い声が弾み、手が動き、

 どこにでもある、平穏な夕暮れ。


 構図としては問題ない。

 描こうと思えば、自然に収まる。


 それでも俺は、ゆっくり首を振った。


「描けないんだよ。

 人が」


「風景より難しいから?」


「……いや。

 正確には、顔だけ」


 口に出すと、それはひどく他人事めいて響いた。


「昔は似顔絵とか描いてたはずなんだけどな。

 気づいたら、そうなってた。

 どうしてかな。理由は……自分でも分からない」


「ふーん……

 汐森ってさ、やっぱ変だね」


 否定する気にはならなかった。


 俺たちはブランコに体重を預け、

 夕風に押されるまま揺れる。


 冷静に見れば、中学生二人が子供用の遊具を占領している図は、

 それなりに滑稽だろう。


 風に煽られて前髪が浮くのを嫌い、

 笹本は小さな手で額を押さえる。


 そして、ぽつりと言った。


「じゃあさ。

 私の顔、描いてみてよ」


「……話、聞いてたか?

 俺、人の顔が描けないって」


「どうでもいいよ」


 即答だった。


「私は、汐森がどんな絵を描くのか知りたいだけ」


 俺の事情など関係ない、という声色。

 切れ長の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。


 胸の奥で、心臓が一度、強く跳ねた。


 それだけで、血が一気に顔へ集まる。


 普段の俺なら、

「やなこった」で終わりだ。


 けれど今は、

 その澄んだ目を曇らせる理由が、どうしても見つからなかった。

 

 俺は視線を落とし、黙って手を差し出す。


「……ノート、返せよ。

 描いてやる」


「お。やったね」


 軽い声。


 あっさりとノートが戻る。


 受け取った瞬間、紙の重みがやけに現実的だった。

 逃げ道が、閉じる音がした気がする。


 背筋を伸ばす。


 鉛筆を握る。


 恐る恐る、視線を上げた。


 小柄な体。

 整った目鼻立ち。


 長い睫毛が風に揺れる。

 無防備なのに、どこか挑発的で――ずるい。


 去年の笹本は、目立つ存在だった。


 愛想をばらまくタイプじゃない。

 嫌いな相手には、きっぱりと線を引く。


 それでも。

 いや、だからこそ。


 俺が見つめていることに気づいたのか、

 笹本はぱちりと瞬きをして、フードを深く被った。


「なんか……恥ずいね」


「ばっ、変なこと言うな。描きづらくなるだろ」


「ごめんって……つい」


「ったく……」


 言葉は、そこで途切れた。


 あとは、描く側と描かれる側。


 耳に残るのは、鼓動。


 どちらのものか分からない速さ。


 遠くの子供の笑い声。


 キャンディが歯に当たる、乾いた小さな音。


 世界が、必要最低限に削ぎ落とされる。


 数分。


 冗談抜きで、真剣だった。


 逃げない。

 誤魔化さない。


 見たままを、紙に落とす。


 ――そして、止まる。


「……ほら、できたぞ」


 ノートを差し出す。


 その瞬間。


「……ふざけてんの?」


 低く、硬い声だった。


 笹本はノートを覗き込み、眉を寄せる。


「なーにこの化物。

 鼻がおでこに刺さってるけど」


 紙の上では、

 確かに目が二つ、口が一つある。


 だが、位置が合っていない。


 均衡が取れていない。


 パーツ同士が、互いを拒むように歪んでいる。


 人の顔のはずなのに、

 どこを見ていいのか分からない。


「左右もぐちゃぐちゃ。

 見てて落ち着かないんだけど」


 喉の奥が、ひくりと鳴る。


「だから言っただろ……!」


 気づけば、声が荒れていた。


「俺だって好きでこうなってるわけじゃない。

 見てる分には分かるんだよ。

 その人の特徴も、可愛いとか格好いいとか、ちゃんと」


 言葉が、止まらない。


「でも描こうとした瞬間、霧がかかる。

 位置が分からなくなる。

 輪郭が崩れて……

 気づいたら、壊れてる」


 息が浅い。


「なんなんだよ、これ……

 俺だって――」


 そこで、言葉が切れた。


 言い過ぎた、と遅れて気づく。


 こんな話、理解されるはずがない。


 意味不明で、不気味で、

 距離を置きたくなるだろう。


 例え誰かに「お前は犯罪者予備軍の脳みそだ」と罵られても、

 言い返すことは出来ない。


 俺もそう思うからだ。


 これは普通じゃない。

 どこか、壊れている。


 そして、これまでずっと心に秘めてきた事でもある。

 簡単に他人に話すものではなかった。


 それなのに、ベラベラと。


 ——笹本になら大丈夫だと、勝手に思って。

 勝手に、期待して。


 勢いが抜け、声が落ちる。


「……ごめん。

 訳わかんねえよな。

 帰るわ」


 ブランコから腰を浮かせる。


 その瞬間だった。


 笹本は口からキャンディを抜き取り、

 それを宙でふらふらと揺らした。


「ねえ、汐森」


「……なんだよ」


「一つ聞いていい?」


 視線を向けると、

 彼女は俺ではなく、棒の先を見ていた。


「あんた、今まで告白してきた子の顔と名前、

 覚えてる?」

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