清継と恋花 ―アメの日の教室―②
ついに――
俺の、本当の絵を晒す時が来てしまった。
これを見た恋花は、どんな顔をするのだろう。
そう考えるだけで、背筋がひやりと冷える。
まずは全体だ。
完成形を思い描くためにも、
身体の輪郭から、線を置いていかなければならない。
視線を紙と恋花のあいだで行き来させ、
手を動かしながら、俺は口を開いた。
「……どうして、また声をかけてきたんだ。
俺のこと、嫌いじゃなかったのか」
「私、いつ清継君のこと“嫌い”って言った?
ボイスレコーダーで録音した?」
「いや……でも、明らかに避けてただろ。
排水管を根城にするゴキブリにでもなった気分だったぞ」
「あなたが駆除されたがるような言動ばっかり取るからでしょ。
関係が変わっただけで、避けてるなんて思わないでよ。
私は――清継君のこと、好きじゃなくなっただけ」
きっぱりと言い切ってから、恋花は付け足す。
「自意識過剰もいいところよ」
「……そうか」
言われてみれば、確かにそうだ。
嫌いな部分を指摘されたことはあっても、
俺そのものを拒まれた覚えはない。
「……」
——どれほどの時間が流れただろう。
教室の時計が一秒を刻むまでのあいだが、
やけに長く感じられる。
雨音さえ、少し遠くへ退いていく。
息が詰まるわけじゃない。
むしろ、その逆だ。
この時間が心地いいからこそ、
できるだけ長く、ここに留まっていたくなる。
二人きりでいると、
昔に戻ったような、穏やかな心持ちになる。
恋花もまた、手を止めることなく、
鉛筆を走らせながら言った。
「清継君って、どんな子がタイプなの?」
「……は?」
暗闇から、いきなり高速の右フックを叩き込まれたような衝撃に、
思わず鉛筆を取り落とした。
床に転がる音に、胸がひやりとする。
――よかった。
芯は折れていない。
「な、なな、何言ってんだよ!
お前さては、誰かの差し金で戻ってきたな!?
また、ちえり絡みじゃないだろうな」
「ちえりちゃんなら、もう清継君のこと、諦めてるわよ。
あなたが再起不能になるレベルの振り方したから。
あれから、色々大変だったんだから」
「……そうか。
それは……すまない」
「別にいいけど。
――それで? どんな子がタイプなの?」
二度目の問いで、俺は完全に逃げ道を失った。
視線を上げると、恋花と目が合う。
逸らす暇もない。
「そりゃ……
恋花みたいな……
ずっと、話していたくなる子だよ」
「……わ、私!?」
恋花は目を丸くする。
その反応の理由が、俺にはよく分からなかった。
復縁したいと、きちんと伝えているつもりだった。
けれど、冗談か何かだと思われていたのかもしれない。
やがて。
少し遅れて、恋花の頬が赤く染まる。
「そう……
つまり、過去の女がタイプってことね」
「頼むから、そんな言い方やめてくれ。
一気に俺が情けなく聞こえる」
「じゃあ、笹本さんはどうだったの?
昔、好きだったんでしょ」
「……そりゃあ、
ずっと話していたいと思えた相手だったよ」
「ふうん。
じゃあ私と笹本さんは同じね。
ずっとお話ししていたくなる、過去の女」
「違うだろ」
思わず、言葉が強くなる。
「話したことも、見てきたものも、全部違う。
仮に今、同じ場所で同じ景色を並んで見ていたとしても、
恋花と笹本じゃ、きっと違う色になる」
俺は続けた。
「人を好きになるって、
感情を誰と共有するかの椅子取りゲームじゃないと思うんだが。
誰と、何を、どう感じるか――
それを選ぶこと自体が、もう『好き』なんじゃないか」
人を想う気持ちに、大きな違いはないのかもしれない。
好きという感情の形は、案外どれも似ている。
けれど、同じ「好き」でも、
誰と過ごすかで、生まれる時間や色合いは変わる。
用意された感情を、
後から誰かに当てはめるような話じゃない。
笹本と過ごした放課後と、
恋花と過ごした放課後。
そこに流れていた空気も、
胸に残った余韻も、同じであるはずがなかった。
そのことだけは、確信していた。
恋花は、ふっと口元を緩める。
「ふふ……
清継くんの、そういう考え方。
私、好きだったよ?」
「……え」
「はい、じゃあスケッチ終了!
清継君、せーので見せよ」
「ちょ、待て恋花。
心の準備がまだ――」
「せーの!」
制止を無視して、
恋花はノートを下敷きにした一枚の紙を掲げた。
反射的に、俺もそれに倣ってしまう。
見せてしまってから、悟る。
本当なら、俺が最初に取るべき行動は、
この場から全力で逃げることだったのだ、と。
恋花のスケッチは、安定の完成度。
そして俺の絵は、安心と信頼のクリーチャーだった。
教室に、沈黙が満ちる。
「いや恋花、これはあれだ。
つい……お前との話に夢中で」
「ふふ、ふふふ、ふははははは!」
「なんだよ、魔王みたいな笑い方しやがって」
「ははは! そうそう、清継君の絵ってこうだよね!
やっぱり、なんかおかしいなって思ったの!」
恋花の瞳には、笑いと涙が同時に浮かんでいる。
思わず、眉を寄せて問う。
「俺、お前に絵を描いて見せたことあったっけ?」
「ううん、でも一回だけ。臨海公園の美術館で」
臨海公園。
ちえりと五里と行った、あのダブルデートの場所だ。
「俺、あの時は子供に泣かれただけで、
絵なんか描いてないぞ」
「違う違う。付き合ってた頃の話。
迷子で泣いてる子に声かけて、
どうにもならなくて、お母さん探しに行ったでしょ」
記憶の底が、ゆっくりと掘り返される。
「それで、自分でその子の絵を描いて、
見せて回ってたじゃない」
「……ああ」
「びっくりするくらい酷い絵だったけどね。
誰にも伝わらなくて。
でもね――」
恋花は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「抽象的すぎて、美術館の展示作品みたいに見えたの。
『迷子が美術館にいる』ってことだけは、
ちゃんと伝わった」
それから係員が動き、館内放送が流れ、
迷子は無事、母親の元へ戻った。
「……あの時の絵、ほんと衝撃的だった」
俺は、言われるまでその出来事を忘れていた。
けれど恋花は、はっきり覚えていたらしい。
「あんまり笑うなよ」
「笑うに決まってるでしょ。
でも――」
ほんの少しだけ声を落とす。
「清継君が、私の知ってる清継君で安心した」
「……どういう意味だよ」
「さあ。何でもない」
そう言ってから、彼女は軽く息を整えた。
「満足したから、良いものあげる。
――目、閉じて」
心臓が口から飛び出すかと思うほど跳ね上がる。
これはあれか、キスか?
放課後+二人きり+目を閉じて=キスか?
その方程式のどこ歯磨き挟めば良いんだ。
教えてくれ、神様!
鼻息荒く、ピンク色の方程式を脳内に書き殴り、
俺は目を強く閉じて恋花を待つ。
彼女はそっと手を取り、
拳を開かせてそこに何かを押し付けた。
「はい、目開けて」
「……何だこれ」
「キャンディ」
「なんでこんなもん学校に持ってきてるんだよ」
「鞄に入ってたの。
清継君、処分しておいてよ」
「俺の胃をゴミ箱だと思ってるのか」
「今日の勝負の景品よ。
よし、満足! それじゃあ、私帰るね。清継君もバイト頑張って」
恋花は、いつものように俺と目を合わせず、
静かに教室を出ていった。
再び、一人。
雨はまだ降り続き、
教室には、時間の音だけが残る。
秒針が、一秒ずつ、正確に進んでいく。
俺は大きく息を吐き、
キャンディの包みを剥がして口に放り込んだ。
「……甘い」
窓越しの灰色の空を見上げる。
雨音のリズムと、
ほんの少しの幸福が、
胸の奥で、静かに溶けていった。




