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清継と恋花 ―アメの日の教室―①


言質げんちを取る』という言葉がある。


 交渉や約束の相手から、

 後になって証拠となる発言を引き出すことを指す。


 だが、その肝心の発言を引き出したとして――


 「言質を取った」という事実そのものは、

 いったい何をもって証明すればいいのだろう。


 複数の第三者が居合わせていれば足りるのかといえば、

 そう単純な話でもない。


 彼らが示し合わせて虚偽をでっちあげている可能性もあれば。


 地位や権力を持つ誰かに、

 都合のいい証言を強いられているのかもしれない。


 こんな疑心に満ちた世界で、

 最も信頼できるものは何かと問われれば――


 国でも、メディアでもない。


 カメラとボイスレコーダー。

 それから、通帳の残高くらいのものだ。


 世界が、冷たい機械ではなく、

 温かな隣人を信じられる時代になればいい。


 そんなことを、ほんの一瞬だけ願ってから、

 俺は声を上げた。


「後でゴネられるなら、

 最初からボイスレコーダーで録音しておけばよかったよ!」


「ちゃんと勝敗は『私が納得したら』って言ったでしょ?」


「でもお前、俺の絵を『凄い』って認めてたじゃないか」


「ええ、言ったわよ。

 でも『つまらない』とも言ったでしょ」


「あの絵の、どこがつまらないんだよ。

 写真を撮ったみたいに、完璧なデッサンだっただろ。

 恋花れんか、お前――

 最初から難癖をつけるつもりだったな」


「違いますー。

 清継きよつぐ君、

 さっきから『写真を撮ったみたいに完璧』って何回言うのよ。

 ……あなた、本当は裏で何かしたんじゃないの?」


「ど……どどどど、どうしてそう思うんだよ。

 不正があるって言うなら、証拠を出したまえよ。証拠を」


「うわ……。

 冗談のつもりだったのに、その反応。

 後ろめたいことがある人の挙動そのものじゃない……引くんだけど」


 終礼を終えた、放課後。


 俺と恋花は、人気のなくなった教室で、

 ああでもない、こうでもないと、子どもじみた言い争いを続けていた。


 話題は、今日の美術の課題――


 『私を描く隣人』。


 互いの姿をデッサンし、

 どちらがより上手く描けるかを競ったはずだった。


 だが結局、勝敗は宙に浮いたままだ。


 追及をかわそうと露骨に話題を逸らしていると、

 恋花はついに堪忍袋の緒が切れたように、吐き捨てる。


「もういいわ。

 あなた、不正疑惑もあるし。

 今回は引き分けってことで、何もなし。

 それでいいじゃない」


「ぐぬぬ……」


「じゃあ、私帰るから。

 こんな雨だから、部活もないし。

 ……清継君は?」


「バイトだよ。

 傘も持ってきてないから、バスで行くつもりさ。

 時間まで、しばらくここに居る」


「そ。じゃね」


 それだけを言い残し――


 恋花はいつものように俺と目を合わせることもなく、教室を出ていった。


 友人の圭吾や五里も、

 今日はそれぞれ予定があるらしく、とうに帰ってしまっている。


 教室に残されたのは、俺ひとりだけだった。


 外は雨だ。

 この時期は決まって、前触れもなく天気が崩れる。


 まあ、空だってたまには泣きたくなるのだろう。

 感情豊かで、大いに結構。


 ――俺だって、泣きたい。


 恋花が口にした

 『私に勝ったら、良いものをあげよう』

 という言葉が、頭の奥でしつこく反芻されている。


 本当に、キスでもしてくれたのか。


 いや、まさか。

 そんな都合のいい話が、あるわけがない。


 邪念を振り払うように、

 俺は机に軽く額を打ちつけ、そのまま突っ伏した。


「はあ……

 こんなんで、クリスマスまでに復縁なんてできるのかよ。

 もう六月だぞ……」


 期限までに復縁できなければ、恋花のことはきっぱり諦める。


 そう、自分の心と、後輩の水上に誓っている。


 少しは距離が縮んでいる気もする。


 けれど、今日みたいに、

 またあっさり遠ざかる日もある。


 前へ進んでは、また一歩下がって。


 その場で、滑稽なタップダンスでも踏んでいるような気分だ。


「……考えても仕方ないよな」


 頬杖をつき、窓越しに灰色の空を見上げる。


 雨脚は強まり、

 コンクリートを容赦なく叩いている。


 本当は一度、家に帰って荷物を置きたかった。

 だがこの様子では、そのままバイト先へ向かうことになりそうだ。


 ――まあ、いい。

 どうせ、誰もいない家だ。


 俺は改めて、教室を見渡す。


 皆、どこへ帰るのだろう。


 誰が迎えてくれるのだろう。


 今夜、どんな夕飯が待っているのだろう。


 再び頬杖をつき、灰色の空を睨む。


 そっと、目を閉じた。


 その時だった。


「げ……」


 教室の扉が開く音と同時に、

 生理的嫌悪を含んだ、短い声が落ちてきた。


 顔を上げずに、視線だけを向ける。


 そこに立っていたのは、

 ついさっき帰ったはずの――恋花だった。


「……」


 俺がまだ教室に残っているとは、思っていなかったのだろう。


 恋花は扉のそばで、ひと呼吸ぶん、立ち尽くしている。


 何か声をかけるべきか一瞬だけ考えたが、

 どうにもそんな気分にはなれず、結局、何も言わないままでいた。


 反応がないと悟ったのか。


 恋花は静かに歩み寄り、隣の席――

 自分の机の脇に掛けていた折り畳み傘を手に取る。


 忘れ物を取りに来ただけらしい。


 用が済めば、そのまま無言で教室を出ていく。


 ——そう思った。


 けれど、扉の前で、足音が止まった。


 ぴたり、と空気が固まる。


 恋花は背を向けたまま、振り返らずに言った。


「清継君、今、暇?」


「……忙しそうに見えるか?」


 声を掛けられるとは思っていなかった。


 少し、ぶっきらぼうな言い方になったかもしれない。


 それでも恋花は何も言わず、踵を返して戻ってくると、

 俺の隣の席に腰を下ろした。


「勝負の続き、しない?」


「急にどうしたんだよ」


「引き分けって、なんかモヤモヤするでしょ。

 家に帰ってから一秒でも清継君のこと考えるの、嫌だし」


「仕事とプライベートと清継で分けるなよ。

 清継も仲間に入れてやれ」


「プライベートがね、『嫌だ、あっち行け』って言ってるの」


「可哀想な清継。

 せめて仕事に拾ってもらえ?」


「今、聞いてみたら『じゃあジュース買ってこい』だって」


「お前の仕事とプライベート、性格ひん曲がりすぎだろ。

 何食ったら、そんな感じ悪い連中になるんだよ」


 二人きりになった教室で、

 恋花は口元に手を添え、小さく笑った。


 ――大変、可愛らしい。


 俺は、つい見惚れてしまいそうになるのを誤魔化すように。

 視線を逸らしながら、口を開いた。


「それで、勝負の続きって何だよ」


「もちろん、お絵かき。

 えっとねえ――」


 恋花は鞄の中を探り、ノートを一冊取り出す。


 続いて定規を引き抜き、当てがいながら、

 ページを一枚、きれいに切り離した。


「はい、これ清継君の分。

 画板は適当に自分のを使って。

 鉛筆、持ってる?」


「いや、シャープペンしかないけど」


「ほい」


 軽い調子でそう言うと、

 恋花は筆記用具の中から鉛筆を一本取り出し、俺に差し出した。


「じゃあ、勝負の続きね。

 テーマは授業と同じで『私を描く隣人』。

 時間は短くていいから、スケッチ程度にしましょ?

 今日はもう、清継君を視界に入れていい許容量、

 だいぶ超えてるし」


「お前は何か言うたびに、

 俺を罵倒しないと死ぬ病気なのか」


「ふふ、そうかも。

 じゃあ――始めよっか」


 流れに抗う間もなく、俺もスケッチを始めた。


 今回は、上野の助けを借りられない。

 完全な一対一だ。


 ついに――

 俺の、本当の絵を晒す時が来てしまった。

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