犯罪組織「K」 ③
「えー……デッサンというのはですね、
物や人物を観察して、その形や質感を描写する技法のことを言います。
その由来は、フランス語の『dessin』にあると——」
美術担当の教師がしゃがれた声で、ゆっくりと言葉を置いていく。
教師・菅原は御年六十四。
背筋は少しだけ丸まっているが、その立ち姿には、
長年同じ場所で同じ問いを投げ続けてきた者だけが持つ重さがあった。
語り口は穏やかで、決して声を荒らげることはない。
それでも、不思議と教室は静まっていく。
何にでもすぐ飽きる生徒たちですら、
いつの間にかその言葉に耳を傾けていた。
彼曰く。
デッサンとは、スケッチでも模写でもクロッキーでもない。
対象をじっくりと観察し、
そこに在る陰影を、時間をかけて拾い上げていく行為なのだという。
業界人の目線からすれば、
それぞれに深い意味と厳密な違いがあるのだろう。
だが、素人の俺からすれば――
鉛筆を持って紙に向かう、
という一点ではどれも同じように見えてしまう。
隣の席の恋花は、
この話に随分と興味を惹かれているらしい。
背筋を伸ばし、教師の言葉を聞き逃さないようにしている。
少し気になって、声をかけた。
「どうだ、恋花。
コントラストをグラデーションして、
ファンタスティックなデッサンをアチーブできそうか?」
「聞いただけで馬鹿になりそうなこと言わないでくれる?
あなたも、少しは芸術に興味を持ったらどうなの」
「いや、専門用語を並べられたところでさ。
要は絵描きだろ?
他の分野で言えば、アセゾネしてパッセしてミルポワしようが、
料理は料理だろ、って話で」
「……それは、
そうなのかなあ」
「ちょっと納得するなよ」
多分、恋花はこの威厳に満ちた老教師の言葉に、
少なからず圧倒されていたのだろう。
意味のすべてを理解できなくとも。
心に引っかかる何かが残ったのなら、
芸術分野を受け持つ教師としては、十分なのだと思う。
模写とスケッチの違いすら曖昧な俺でさえ、
ほんの少しだけ、自分の手で何かを描いてみようかという気持ちになった。
教師の菅原は、最後に穏やかに告げた。
「今回のテーマは――
『私を描く隣人』です。
隣の席に座る者同士で、互いの姿をデッサンしてもらいます」
一拍。
「描くこと以上に、観ることが大切です。
では、始めてください」
そう言い残して、
菅原は静かに教室を後にする。
生徒の自主性を重んじるのが、彼の授業スタイルだ。
決して職務を放棄しているわけではないのだろう。
クラスメイトたちは隣の席の者と向き合い、HBの鉛筆を手に取る。
厳しさで縛る授業ではないため、
教室にはすぐに小さな笑い声が広がった。
もちろん、俺たちもその中に混じっている。
「さて、俺たちも始めるか」
「こっち見ないでよ」
「無茶言うなよ……。
どうやって描けって言うんだお前は」
「想像で」
「やってみろよ。
知らん人が笑ってるだけの絵になるから!」
俺と恋花は互いに身体を向け、ちらちらと視線を交わす。
デッサンって、対象が動いてもいいのだろうか――
そんな疑問が頭をよぎる。
その時、恋花がおもむろに口を開いた。
「ねえ、清継君。
どっちが上手く描けるか、勝負しない?」
「やだよ。
お前がやろうとしてるのは勝負じゃなくて、蹂躙だろ。
俺、絵に自信ないって言ったじゃん」
「じゃあ、私に勝ったら、良いものをあげよう」
「何。キスでもしてくれるの?」
「お望みとあらば」
恋花は手を止め、画板の縁からこちらを覗き込む。
悪戯っぽい笑み。
その一瞬で、俺の脳内は沸点を超えた。
「ば、ばばばば……っ、馬鹿言うなよ。
最近の子はすぐそうやって若さを切り売りするんだから。
ほら、いくら欲しいんだい。言ってごらんよ」
「言動が二重人格で怖いんだけど……
まあ、そもそも私に勝てたら、って条件だけどね」
「どうやって勝敗を決めるんだ」
「んー……私が納得したら、かな?」
一気に、興が冷めた。
ついさっきまで胸を満たしていた期待が、音を立てて萎む。
「はいはい。
可愛い子はすぐ男子の純情を弄ぶ。
どうせ、どんな出来でも納得しないってスタンスだろ。
クリアされたら難癖つけられる大食いチャレンジかよ」
「失礼なこと言わないでよ。
ちゃんと公平な目で判断するつもりなんだから」
「言ったな?
今日の俺は凄いぞ。右手に神が宿る予感がする」
宿るのは神ではなく、オタクなのだが。
そもそも、勝負をしようがしまいが――
この授業に、
最初から真面目に取り組むつもりはない。
頃合いを見計らって同胞たちに合図を送り。
恋花の絵を“代わりに”描いてもらい――
それをこちらへ届けさせる。
それが今回のミッションだ。
おまけで勝負の報酬まで転がり込むのなら、
それはそれで、嬉しい誤算というやつだろう。




