オオカミとゴリラ
「潮の香りがするな」
「待って……清継君、酔った……」
「だから言っただろ。
バスの中で携帯小説を読むなって。
残虐なサイコホラー映画を観ながら焼き肉食うくらい、
やっちゃいけない組み合わせだ」
「だって、予定の擦り合わせも終わったし……
もう清継君と話すこと、ないかと思って……」
「介抱されながら、よくそんなこと言えるな。
三半規管の弱さを、精神の図太さで補ってるのか?」
「今は……もう……ごめん……」
意味のよく分からない謝罪を残して、
恋花はふらりとしゃがみ込んだ。
バスに揺られること四十分。
臨海パークに着く頃には、彼女はすでに瀕死だった。
移動中。
俺たちは五里とちえりを、
どうやって仲良くさせるか真剣に話し合っていた。
しかし、それが終わった途端。
恋花は「用は済んだ」とでも言うように、スマホへ視線を落とした。
その切り替えの速さは、
まるで一夜限りの関係を終えた翌朝のよう。
だが俺は、せっかく二人で出かけているのだからと、
必死に話題を探し続けた。
だが返ってくるのは、学校と同じ調子の雑な相槌ばかり。
やがて心が追いつかなくなり、
俺は虚無に沈んで寝たふりを決め込むしかなくなった。
とはいえ、乗り物の中での読書は完全な悪手だ。
何度止めても聞かず、案の定この有様である。
俺が酔い止めを渡した意味とは、いったい何だったのか。
「ほら、近くにベンチがある。
そこで少し休んでろ。
俺は先に五里と合流してくるから」
「……おえ」
何だ、この光景は。
思い描いていた“久しぶりのデート”とは、だいぶかけ離れている。
どう見ても、社会人の飲み会帰りだ。
そう心の中で悪態をつきながら、
俺は恋花の肩を支え、ベンチまで引きずるように連れて行く。
周囲の視線は、正直かなり痛い。
だが――不思議なことに、
これほど近くに美少女がいても、胸はまるで高鳴らなかった。
今はただ、
重さと、体温と、
現実だけが、妙に生々しかった。
* * *
日曜ということもあり、園内は予想どおりの混雑だった。
カップル、家族連れ、学生たち――
これだけ人がいれば、五里を探すのも一苦労だろう。
そう思った矢先。
その懸念は、あっさりと裏切られた。
五里は身長百九十に届くかどうか、体格は大きく、髪も派手だ。
一度見たら忘れられない。
言ってしまえば、
動物園でしか出会わない種類の存在感をしている。
一般的な感覚で言えば、進んで近づきたい相手ではない。
案の定、彼の周囲には自然と“空白”ができている。
その中心で棒立ちする姿は、
まるでパントマイムの路上芸人のようだった。
俺に気づくや否や、
その大男がぱあっと顔をほころばせて駆け寄ってくる。
図体と強面に似合わない、無邪気すぎる笑顔。
ここが子ども向け施設だったなら、
とっくに不審者情報に載っていただろう。
「おはようございます。
清継さん、今日は良い天気ですねえ!」
パンク系の革ジャン姿で、五里は直角に頭を下げた。
「やめろ、五里。
俺が反社のボスみたいに見えるだろ」
「そうですか?
今日は清継さんのパシりになる覚悟で来たんですが」
「ならんでいいし、ダサい姿は見せるな。
ちえりに良い格好見せる為に来たんだろう?
堂々としていてくれ」
「清継さん……ありがとう。
俺はあんたの気持ちに応えられるよう、
死ぬ気で今日をやり切ります」
……もはや、デートって何だっけ。
片方は嘔吐寸前、もう片方は命を賭ける覚悟。
それぞれが今日という日に抱いている熱量の寒暖差で、
風邪を引いてしまいそうだ。
悪い夢でも見ているのだろうか。
どうか、波乱だけは起きませんように。
五里が首を傾げる。
「清継さん、向崎はどうしたんです?」
「ああ、恋花なら入り口付近で休んでる。
乗り物酔いだ」
「情けないですね。
これからが本番だってのに」
遠くの恋花を眺め、呆れたように頭を掻く。
そこで俺は、誰に聞かれるでもないのに、妙に声を潜めて言った。
「五里。先に言っておく。
俺は今……恋花と復縁しようとしてる」
「マジですか。
ありゃ見てくれこそ良いもんだが、清継さんには不相応だぜ。
あんたのことを虫けら以下だと思ってる。
やめたほうが良い」
「昔は、あんな暴力ヒロインじゃなかったんだ。
多分……今の恋花になった理由は、俺にある」
「“多分”、ってのは随分曖昧な言い方じゃないですかい。
まるで心当たりが無いみたいな」
「その通りなんだよ。
聞いた話じゃ、別れる一ヶ月前まで、
恋花は俺にぞっこんだったらしい。
それが突然だ。
手首がちぎれそうな勢いの高速手のひら返しで、開いた口が塞がらないよ」
「……他に好きな男でも出来たんじゃ?」
その瞬間、背筋が冷えた。
なぜ、それを最初に疑わなかった。
女の子の心変わりの第一候補なんて、どう考えても“他の男”だろう。
自分への絶対的な自信でそんな可能性すら排除していた俺は、
恋花の言うとおり―
ただの自意識過剰なナルシストなのかもしれない。
「……た、確かに」
「本人に直接、聞いたことは?」
「ない……怖いよ、五里君……」
「しっかりしてくださいよ。
軽口で言いましたけど、他に男がいたら、俺らとデートなんて来るわけねぇ。
……今日、確かめるしかないでしょう」
「……そう、だよな」
そのとおりだ。
何を、この程度のことで取り乱している。
恋花が一途な人間だということくらい、誰よりも俺が知っている――はずだ。
後輩であろうと、クラスメイトであろうと。
「デート」という言葉が付く頼みを、
軽々しく引き受けるような子じゃない。
線引きは、いつだってはっきりしていた。
むしろ――
彼氏とそれ以外を天秤にかける場面が来たなら、
多少の反感を買ってでも、迷わず彼氏を選ぶ。
恋花とは、そういう揺らぎの少ない人だ。
……そう思っている。
いや、そう信じていたいだけかもしれない。
「よし、五里。
俺は今日恋花と少しでも距離を縮めるぞ。
お前も頑張れ!
何かあれば支えてやる、アドバイスしてやる。何とかしてやる」
一呼吸。
「男二人――今日は一匹の餓狼として、
意中の相手を落としに行くぞ」
「おおっ!」
こうして、一匹の狼と一匹のゴリラは合流し。
潮風に茶色がかった髪を揺らしながら、
ベンチで項垂れている恋花を回収しに向かった。
うずくまる彼女は、普段の勝ち気な表情をどこかへ置き忘れ。
日照りに焼かれた雑草のように、生気が薄い。
気の毒だが――少しだけ、面白い。
残るは、ちえりだ。
時間どおりなら、すでにこの雑踏のどこかにいるはずだ。
「恋花、ちえりに連絡できるか?」
「うん……ちょっと待ってね。
すぐ電話する……おえっ」
「大丈夫かよ」
「へへ……余裕、余裕……」
血の気の引いた顔のまま、
恋花は少し離れてスマホを取り出した。
丸まった小さな背中が、やけに頼りなく見える。
ふと。
将来の彼女が新入社員の歓迎会か何かで泥酔し。
こんなふうに隅っこで縮こまっている姿を想像してしまい、
胸の奥が静かにざわついた。
――こうして、デートは幕を開ける。




