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ちえりの相談①


「誰かに、ずっと見られている気がするんです」


 そう打ち明けられたのは、一昨日の昼休み。

 教室前の廊下だった。


 春の校舎は、いつも落ち着きがない。


 窓という窓が半開きにされ――


 風に混じって中庭の若い草の匂いと、

 購買のパンの甘ったるい香りが流れ込んでくる。


 チャイムまでの数分を持て余した生徒たちの笑い声が、

 天井近くを撫でるようにして、軽やかに通り過ぎていった。


 その空気の中で、

 目の前の下級生だけが、ひどく浮いていた。


 笑い声にも、春の匂いにも馴染めない――

 場違いなほど真剣な表情。


 まるで、保健室の前で順番を待つ生徒のようだった。


 俺はつい、

 それに釣られるように、真面目な顔で口を開いてしまった。


「自意識過剰なんじゃないか?」


 次の瞬間、世界が傾いた。


 脳天に叩き込まれた衝撃。

 遅れて、乾いた音が追いついてくる。


 隣に立っていた元彼女――

 向崎こうざき恋花れんかの拳だった。


で!」


 数人の生徒が、反射的にこちらを振り返る。


 ――こういう形で注目を浴びるのは、どうにも苦手だ。


 いっそこの場で気絶でもしてしまった方が、

 よほど気楽だったかもしれない。


汐森しおもり君。

 あなたにだけは言われたくないセリフよね?」


「な、何故だ……」


「自意識過剰のナルシストはあなたでしょう」


 女子に暴力を振るわれたのは、初めてに近い。


 付き合っていた頃は、

 蚊も殺せなさそうな顔をしていたというのに。


 今では満面の笑みで俺を殴れる、立派なバイオレンスマシーンだ。


 一体、誰がこんな兵器に作り変えたのか。

 少なくとも、俺に覚えはない。


「汐森先輩、大丈夫ですか!?」


「大丈夫。いつもの事だ。

 薬が切れると、恋花はこうなってしまうんだよ」


「どんな薬を服用してるんですか!?」


 慌てて声を上げたのは、一年生のちえり。

 ――苗字は、知らない。


 いや、正確には覚えていない、というべきか。


 水上みなかみの友人で、

 どうやら中学時代、俺に告白したことがあるらしい。


 だが、そんな記憶は一片もない。


 大した付き合いもなかったからだろう。


 昼休みに入ってしばらくした頃。

 ちえりは、俺たちの教室を訪ねてきた。


 最初は、同じ陸上部の先輩である恋花が目当てだったらしい。


 だがそこで偶然、俺を見つけ――

 そのまま、“ついで”とでも言いたげに、廊下へ呼び出された。


 そして彼女の相談内容が――

『誰かに、ずっと見られている気がするんです』


 恋花は眉一つ動かさず、淡々と問いを重ねた。


「汐森君のことは気にしないで。

 それで、誰かに見られてると感じたのは、いつから?」


「三日くらい前からです。

 最初は、部活が終わるくらいの時間帯でした」


 言葉を選ぶように、一拍置いてから続ける。


「帰り道で、どこからか視線を感じて……

 気のせいだと思って歩いてたんですけど、後ろから、ずっと足音がついてきて……」


「部活の後なら、友達じゃないのか?」


 俺が軽く挟むと、

 ちえりはゆっくりと首を横に振った。


「学校にいる間なら、そう思えたと思います。

 でも……校門を出たあたりから、なんです」


「待ち伏せ、か」


 口にしてみたものの、正直、どこか現実味に欠けていた。


 待ち伏せだなんて、アイドルの出待ちみたいなものだ。


 たかが普通の高校生に、

 そう都合よく起きる話じゃない。


 だが、ちえりは冗談を挟む隙も与えず、続けた。


「何度か道を曲がっても、

 少し早足になっても……距離が、変わらなくて……」


「……それは、不気味だな」


 口ではそう言いながら、

 胸の奥が、わずかにざらつく。


 恋花が、間を置かずに問いを投げた。


「振り向いたりはした?」


「……できませんでした」


 ちえりの声が、目に見えて震えた。


「だって、もし知らない人がいて、

 目が合ったりしたら……」


 その先は言葉にならず、喉の奥で潰れた。


 思わず、息を呑む。


 正直に言えば。

 彼女の言う“視線”は、思い込みが生み出す幻だと思っていた。


 ちえりは男子受けが良さそうだし、

 告白される機会も、少なくはないだろう。


 誰かに見られている気がする――その程度の錯覚なら、珍しくもない。


 だが、この怯え方はどうだ。


 もし本当に誰かにつけられているのなら、

 それは笑って済ませていい話じゃない。


 仮に思い込みだったとしても、

 このまま放っておいていい状態ではない。


 俺は一度、声の調子を整えた。


「この話、他の誰かには相談したのか?」


「……瑞希みずきちゃんにだけです。

 家族には、心配させちゃいそうで……」


 水上か。

 ちえりと仲が良いのだから、自然な選択だ。


 家族にも、教師にも話していない。


 なるべく、事を大きくしたくない――

 その慎重さが、逆にこの話を現実のものとして重くしていた。


「……ストーカー、かもしれないな。

 気のせいで済めばいい話だが、何かあってからじゃ遅い。

 部活帰りは、恋花に送ってもらうのがいいだろう。な、恋花」


「ちょっと、勝手に話を進めないでよ。

 言われなくても、そうするつもりだったし。

 まるであなたに言われてやるみたいで、嫌なんだけど」


 それはそれは。


 失礼いたしました。


 別に、この件を丸投げするつもりは毛頭ない。

 ただ、最も自然で、角が立たない案を口にしただけだ。


 ちえりは、ほっとしたというより、どこか申し訳なさを滲ませて口を開く。


「……い、いいんですか?」


「俺も、バイトがない日は送るよ」


 恋花ひとりでは負担が大きいし、

 ちえりも、必要以上に気後れしてしまうだろう。


 かといって俺が真っ先に名乗りを上げれば、

 それはそれで気味が悪いし、恋花の立場もない。


 この形が、いちばん穏便だ。


「恋花先輩、汐森先輩……ありがとうございます!」


 声が、さっきより明るい。

 少なくとも、心の重石は少し軽くなったらしい。


「気にしないで。

 汐森君は、人助けが趣味みたいな人だから」


 そんな趣味はない。


 菓子パンのヒーローだって、困っている人を見かけたら、

 つい手を伸ばしてしまうだけだろう。


 それを趣味と呼ぶなら、世の中は随分と生きづらい。


「ちえりとは、同じ中学だったしな。

 何かあれば助けるさ。

 誰かと一緒なら、後をつけるやつも、さすがに引くだろ」


 ちえりは深く頭を下げ、階下の教室へ戻っていった。


 その背中は、来たときよりも軽やかで、

 ほんの少し、役に立てた気がして胸が緩む。


 さて、俺も教室に戻るとしよう――


 そう思ったところで、恋花の声が背中に刺さった。


「……汐森君、

 いつから、あんなにちえりちゃんと仲良くなったわけ?」

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