形容できない感情は、無理に言葉にしなくて良い。
放課後の予鈴は、どうしたって心地がいい。
学生というのは日々、
授業という名の強制労働に拘束されている生き物だ。
解放を告げるあのチャイムが。
一日の頑張りすべてを労うように、
甘く響いてしまうのも無理はない。
俺は将来、
就職先でどんな理不尽な重労働やパワハラを受けても、
感謝の言葉一つで許してしまうような――立派な社畜になるに違いない。
そそくさと荷物をまとめ、鞄を肩に掛ける。
それから。
隣の席の、元恋人への挨拶は忘れない。
「じゃあな、恋花。
部活、頑張ってな」
「あれ、汐森君。
今日、休みじゃなかったの?」
……休みじゃねえよ。
朝からずっと隣の席にいたよ。
始業式から皆勤賞だよ。
見えていないのかと突っ込みたくなるが、
これが恋花の挨拶なのだから、仕方がない。
返事があっただけで「まあいいか」と思えてしまう俺は。
もはや、どんな言葉でも喜ぶ、
豚のような精神状態に突入しているのかもしれない。
誰か、良い医者を紹介してほしい。
「まあ、いいや。
陸上部、始まったばかりだし怪我には気を付けてな」
「それは……ありがと。
汐森君も、バイト頑張って」
「……!」
なんてことだ。
目は一切合っていない。
それでも、会話のラリーが成立した。
始業式以来だ。
心臓が跳ね、言葉が喉で渋滞する。
「きょ、きょ、きょ……今日はバイトじゃないよ。
委員会活動だ。図書委員。
水上も誘ってみた」
「そ。
瑞希ちゃんに、変なことしないでね」
「変なことってなんだよ……」
「あなたがすること、全部」
「俺を変質者か何かだと思ってるのか」
「何とも思ってないわよ。
――じゃね」
そう言って恋花は席を立った。
俺以外のクラスメイトには、
それなりの愛想を振りまきながら。
まるで、
俺だけが最初から存在していなかったかのようだ。
教室の扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえた。
「何とも思ってない、ね」
虚しく笑う。
それでも、
他の連中よりも冷たく扱われているというのに。
ほんの少しだけ、
気分が高揚している自分を自覚してしまった。
隣の席に座らされ続けたせいで性癖が歪んだら、
一体誰が責任を取ってくれるんだ。
俺も委員会へ向かうとしよう。
* * *
校舎二階にある図書室。
本校の蔵書は二万数千冊――
それが多いのか少ないのか、正直よく分からない。
本の数よりも、
ここに流れる空気の重さの方が印象に残る場所だ。
陽当たりだけはやたら良い立地のせいで、
本を守るためなのだろう、常にカーテンが引かれている。
外の光は遮断され、
白い蛍光灯だけが均等に静寂を照らしていた。
……この構造、設計ミスではないだろうか。
本より先に、人の気力が劣化する。
俺は基本的に放課後はバイトだが、
週に一度だけ図書委員会に参加している。
活動内容は、
主に貸し出しと返却の管理。
新しい本を選定する会議もあるらしいが、
週一参加の俺に、そんな権限は与えられていない。
図書室に顔を出すと、同じ曜日担当の後輩――
水上瑞希が、すでに来ていた。
「よ、水上。早いな」
「あ、清継先輩。お疲れ様です。
初日くらいは、さすがに早く来ますよ」
「同じ曜日にしておいたぞ。
感謝して欲しい」
「いや先輩。
暇だから話し相手になって欲しくて私を誘ったんじゃないですか。
違う曜日だったら意味不明ですよ。
ただの“暇人増員”になります」
正論である。
水上の言う通り、
この委員会に彼女を誘ったのは俺だ。
俺は部活には所属していないので、
バイトがない日は直帰することしか選択肢がなくなる。
でも、たまにはすぐに帰りたくない日もある。
そういう日に、
時間をやり過ごす場所として選んだのがこの委員会だった。
とはいえ、読書の習慣がない俺にとって、
静かすぎる図書室は少々持て余す空間でもある。
だから、
気兼ねなく話せる後輩を引きずり込んだという次第だ。
俺は貸し出しカウンターの上に鞄を置いた。
「水上が来てくれて助かった。
話相手がいなくて退屈してたんだ」
「まあ、この学校は何かしらの委員会に強制加入ですからね。
だったら、私も気が楽な方がいいです」
「それは良かった。
――そうだ、水上聞いてくれ。
さっき、恋花と会話が成立したんだ」
「何ですかいきなり。
自慢話の次元が低すぎて、悲しくなってきますよ」
「これは快挙だぞ。
こういう小さな積み重ねが、
清継復縁プロジェクト成功への道を切り拓くんだろうが」
憤慨してみせると、
水上は「ああ」と短く息を漏らした。
――そのプロジェクト、まだ生きてたんですね。
たぶん、そういう意味だろう。
勝手に埋葬しないでほしい。




