向崎復縁プロジェクト②
◇ ◇ ◇
「向崎さ、さっきから何。
私に嫌がらせしてるの? 日本語で書いて教えてよ」
「いや、英語教えてるのに、アルファベット書かなくてどうするの。
国語になるでしょ。
……いや、もはや日本語学校だよ」
「もうちょっとこう、幼子に言い聞かせるみたいにさ。
視覚で理解できるように。
……この単語、動物の骨を並べるみたいにしてほしい」
「甲骨文字じゃない。
文明レベルで退化する気なの」
笹本さんの提案で、私たちは近くの喫茶店に入った。
最初にそれぞれ飲み物を頼む。
私はアイスコーヒー。
笹本さんは黒糖ミルク。
――コーヒーは、たとえキャンディであっても駄目らしい。
その子どもじみた嗜好と、
この店の空気は、どうにも結びつかない。
店内は、ひどく静かだった。
カウンターとテーブル席が、
申し訳程度に並んでいるだけの空間。
昼下がりの光が、
古びた木目をなぞるように差し込んでいる。
ほかにお客さんの姿はない。
私たちは自然と、奥のテーブル席に腰を下ろした。
年季の入ったソファは、
身体を預けると、ゆっくりと沈み込む。
いつも利用しているカフェとは違う、
時間の流れそのものが緩やかに歪んでいるような感覚。
カウンターの向こうには、白髪の店主がひとり。
無駄な動きは一切なく、
ただ静かに、湯気の立つカップを整えている。
BGMが、控えめに流れている。
耳を澄ませば、聞き覚えのある旋律。
――『イパネマの娘』。
軽やかなはずの音が、
この空間ではどこか遠く、淡く滲んで聞こえた。
「それにしても笹本さん。
よくこんなお店知ってたね。常連?」
「まあ、それなりかな。
あの白髪のおじいちゃんとは、顔馴染みくらいにはなってる」
一瞬だけ、視線がカウンターへ流れる。
「学校サボりがてら、何回か来ててさ。
平日の昼間に制服で来ても、特に詮索されないから都合がいいんだ」
そこで、ほんのわずかに口元が歪む。
「たぶん、太陽の下をまともに歩けないような、
怪しい客ばかりが利用するんだろう」
「やめなさいよ」
思わず声を落とす。
その言い方は――
どこか、自分自身も含めているみたいで。
「……でも、喫茶店と言いつつ、
流行りのカフェにでも連れていかれるものだと思ってたから、
ちょっとびっくりしちゃった」
「流行りのカフェね」
笹本さんは、鼻で短く笑った。
「流行という“情報”を食べて満足する舌なし共と、
わざわざ客席でPC広げて自己アピールする――
職場で仕事も片付けられない無能共の集会所でしょ」
「なに、笹本さん。
カフェに親でも殺されたの?」
「違うけど」
肩をすくめる。
「それに、大抵かわいい子が集まるだろう。目に毒だ。
私以外のかわいい子は、消えてしまえばいい」
「思想がそのうち自滅する女王様そのものね。
ほんと、振り切れてて、良い性格してるよ」
嫌味ではない。
私は、きちんと褒めたつもりだった。
飾らずに言葉を投げてくるところが、好きだ。
少しだけ――羨ましい、とも思う。
私はまだ、
そこまで自分をさらけ出して話せないから。
笹本さんは一瞬だけ目を細め、
それから、口元だけでにやりと笑った。
「ありがとう」
店員のおじいさんが、お盆を片手に近づいてくる。
「お待たせ。
悠里ちゃん、今日は珍しく友達と一緒なんだね」
「そう。珍しいでしょ。
この子、向崎。トモダチ」
言い方が、どこかぎこちない。
単語をひとつずつ確かめるみたいで。
――それが、少しだけ可笑しくて。
「ふふ」
「おい、向崎。
なにがおかしいんだい?」
「あはは。
だって笹本さん、ヒトの言葉をうまく話せない森の住民みたいな喋り方するから」
「なんだと!
あんたが下手な英語を教えるからだろう。
ゴーレムみたいにもなるわ!」
「あはは」
私たちのやり取りを見て、
店員のおじいさんは、静かに目を細めた。
言葉は挟まず、
ただ飲み物を、音を立てないようにテーブルへ置く。
氷の触れ合う、かすかな音だけが残る。
「ごゆっくり」
それだけ言って、
またゆっくりとカウンターへ戻っていった。
――少し、はしゃぎすぎたかもしれない。
息を整える。
笑いすぎて、お腹がじんわり痛い。
教科書を畳み、テーブルの端へ寄せる。
せっかく運ばれてきた飲み物に、
ようやく意識を向ける。
バスケットの中のシロップへ手を伸ばしながら、
グラスの中を覗き込む。
アイスコーヒー。
少しだけ、背伸びをして選んだ。
――でも。
やっぱり、まだ苦い。
ガムシロップがないと、飲めそうにない。
「そういえば笹本さん。
さっき店員さんが『久しぶりに』って言ってたけど、
前にも友達と来たことがあるの?」
「ああ。汐森とだよ。
だいぶ前だけどねー」
「……」
分かりやすく顔が引きついた。
落ち着くのよ、恋花。
この程度のことで動揺してはだめ。
平静を装わないと。
「ふうん、そっかー。
仲良かったみたいだもんね」
「まあね。今は見る影もないけど」
軽く言ってから、笹本さんは視線をこちらへ戻す。
「――それで向崎。
あんた、結局、汐森と復縁するの」
「私が? 清継くんと? どうして」
「いや、どうしてって。
この前そんな感じの話をしただろ」
そのまま、
ふっと視線が私の手元へ落ちる。
「……あとさ、そろそろ止めても良いかな」
一拍。
「——向崎あんたどんだけシロップ入れるの! 死ぬよ!?」
笹本さんが身を乗り出し、私の腕を掴む。
その瞬間、
はっと意識が現実に引き戻された。
テーブルの上には、
空になったガムシロップの容器が、いくつも転がっていた。
——いつの間に。
動揺を悟られまいとするあまり。
私は無意識のうちに、甘さで現実を埋め立てていたらしい。
隠蔽どころか、完全に奇行の域だ。
それでも私は、
あくまで冷静を装って口を開く。
「……実は私、苦いのまだ得意じゃなくて。
ほら、ちゃんと溶けてるし。
これ、実質カロリーゼロみたいなものじゃない?」
「溶けてるのはシロップじゃなくて、あんたの脳味噌だ。
ほんと……汐森のことになると、分かりやすい反応するね」
「だ、だって……!」
言葉が、少しだけ崩れる。
「笹本さんが前に焚き付けるから!
それからずっと意識しちゃって、次に会ったらどうしようって……
それで、相談しに来たの!」
吐き出すみたいに言ってしまってから、
しまった、と思う。
笹本さんは何も言わず、
眉間に拳を当てて、こつこつと小さく叩いた。
「……だと思ってたよ。
昨日、急に電話かけてきた時点でね」
「でも、でも……誤解しないで。
笹本さんと遊びたいなって思ってたのは、本当で——」
「はいはい。
それは目を見ればわかるよー」
小さく息を吐く。
「……で、随分な心境の変化じゃないか。
前はあんなに“自分からは何もしません”って顔してたのに」
“清継君に興味がない顔”じゃない。
“何も起こさない顔”。
その違いを、
この人は最初から見抜いていたのだろう。
私はグラスを持ち上げる。
氷が、かすかに鳴る。
一口、口に含む。
――甘い。
意味が分からないくらい、甘い。
舌が痺れて、
思考まで、少しだけ鈍くなる。
けれど。
それでもまだ、足りない気がした。
「清継くん、笹本さんのために頑張ってたでしょ?」
一瞬、空気が変わる。
「それで、今はちょっとクラスの人気者とは言えなくなっちゃったけど……
あ、ごめんね。笹本さんを責めたいわけじゃなくて――」
「いいよ。続けて」
促されて、言葉を選ぶ。
「……あの人なりに、
“良い人”でいるのをやめた瞬間だったのかなって」
一拍。
「周りにどう思われるかよりも、
救いたい誰かを選んだ。――笹本さん、ただ一人を」
自分の声が、少しだけ遠く聞こえる。
「それで、笹本さんも変わったと思う。
前よりずっと……話しやすくて」
少しだけ、笑う。
「魅力的な人になった」
息を吐く。
言い切ったあとの沈黙が、
やけに長く感じられた。
「私も……
二人みたいに、変わりたいなって」
視線を上げる。
笹本さんは、どこか複雑そうな顔をしていた。
——理由は分かる。
“自分を犠牲にしてまで誰かを助けることは、美しいのか”。
あのときの問いが、まだここに残っている。
彼女は一度、言葉を飲み込んだ。
それから静かに、口を開く。
「そっか……向崎にも、色々あるんだろうね」
一拍。
「じゃあさ。
あんた、どうして汐森を振ったの」
「私だけを、見て欲しかったから」
「……まじ?」




