完璧な人間は欠点すらも愛される、はず②
心を弾ませるようなメロディの後、
ラジカセから、機械的な音声が流れた。
『このテストは、電子音に合わせて、できるだけ長く、
二十メートル間隔の線の間を走るものです』
――どうして、たったこれだけの言葉で心臓が痛くなるのだろう。
きっとシャトルランを最初に考案した人間は、
稀代の呪術師だったに違いない。
「さあ清継。
今回も勝たせてもらうからな?」
「勝手に言ってろ。
もうお前の勝利は揺るがないよ。
俺はのんびり、やらせてもらうとするかね」
軽口を叩いてみせたが、
俺と圭吾の“飯を賭けた戦い”は、すでに勝負を終えていた。
去年に続き、今年も敗北は確定している。
なにせ、長座体前屈であれだけ派手に死んだ直後だ。
これはもはや賭けではない。
俺の権利と尊厳、
そして数日分の食費を、淡々と奪っていく儀式である。
ここで膝を折り、天に祈りを捧げたなら、
この理不尽は止まってくれるだろうか。
今着ている白い体操着で、
美しい白旗を縫い上げたなら、見逃してもらえるだろうか。
本来なら――
圭吾の頭を床に踏み伏せ、
土下座を乞わせる未来が用意されていたはずなのに。
今年の敗北は、
卒業まで、確実に胸に刻まれるだろう。
だからいっそのこと。
このシャトルランだけは圭吾と談笑でも交えながら、
緩やかに、波風立てず消化するつもりでいた。
俺はぼんやりと話題を探す。
「そういえば昨日の新クラス親睦会、どうだったんだよ」
「何が“そういえば”だよ。
お前、朝からそのことばかり気にしてたくせに。
チラチラ視線を送って来て――
まさかラブレターでも渡すんじゃないかと、恐怖で震えてたぞ」
「お前に渡す手紙など、チェーンメールで充分だ。
お得情報を大量送信してやる」
「闇バイトやめろ。
……昨日のこと、向崎には訊かなかったのか?
隣の席だろ」
訊いたところで、
あの恋花が素直に答えてくれるはずもない。
今朝の挨拶だって、まともに返してくれやしなかった。
薄情な奴め。
『おはよう恋花、今日も可愛いな』
『一生寝てれば良いのに』
――あれ? 俺が悪いのか?
そうかもしれない。
「相変わらず、俺を羽虫のように扱ってるよ。
ゴキブリの方がまだマシだ、と言われる日も遠くないかもしれない」
「もうそこまで言われたら、
問題はお前にあると思った方がいいだろ」
――仰るとおりで。
甲高い電子音が鳴り響く。
シャトルランの開始を無情に告げる――
その音はまるで地獄への片道切符。
機械は容赦なく、俺の命運を計算し尽くしているかのようだ。
始まってしまった以上、諦めるほかない。
男女が共通でスタートラインに並び――
俺たちは足並みを揃え、気怠げに走り出す。
体育館の床を蹴るシューズが、
鳥のさえずりのように軽快に響く。
「俺のことはいい。
それで、交友は深まったのか」
「まあまあかな。
連絡先も何人か交換したし。
遅くなると、あとで葵ちゃんに迷惑かかると思って、ほどほどで解散したけど」
「何が葵ちゃんだ。せめて先生を付けろ。
担任教師を何だと思っている」
「俺たちのヒロイン」
「全くだな。最高だぜ」
床に引かれた白線を、何度か往復する。
電子音のリズムは徐々に速まり、
心拍と足音を急き立ててくるが、まだ脱落者はいない。
誰か一人でもリタイアすれば、空気は一気に緩む。
帰る理由は、最初に声を上げた者のものになる。
今は皆、その「最初の勇者」が現れるのを、無言のまま待ち望んでいる。
そんな均衡の中で、
隣を走る圭吾だけが、息を乱さずに眉をつり上げた。
「そろそろ白状したらどうだ?
本当は親睦会がどうだったかじゃなくて、向崎がどうだったか訊いてるんだろ」
「ぐぬぬ」
胸の奥を覗き込まれたような顔をされて、
思わず殴ってしまおうかと思った。
だってお前、馬鹿キャラ担当だっただろ。
「俺が恋花のことを聞いて、どうする」
「知らねーよ。でも気になるんだろ?
別れて一カ月の元カノがどうしてるかなんて、男なら誰でも気にするもんだ。
今さら照れんなって」
そう言って、
圭吾は走りながら俺の背中を強く叩いた。
今の一撃で、体力は赤ゲージまで持っていかれた気がする。
外面にステータスを全振りした紙耐久なので、
できれば優しくしてほしい。
――もう、リタイアしちゃおうかな。
「それで、恋花はどうだったんだ……」
――やだ、心開いちゃった。
恥ずかしい。
こうして相手の本心を引き出すのが、
こいつの手口だったのだろう。
やはり、こいつの天職はナンパ師かもしれない。
いや、無理か。
だってこいつ、馬鹿だもん。
「向崎なら、カラオケ着いてちょっとしたら帰ったよ。
一曲くらいは歌ったかな。
ちょうど十年くらい前に流行ったアイドルの曲。
超盛り上がった」
「なに、あいつ最後まで残らなかったのか」
「ああ。何か用事があるとかなんとかで。
その後、他の男共は面白いくらいテンション下がってたぞ」
そりゃそうだ。
親睦会なんて名ばかりで、ほとんど合コンだ。
恋花の参加を理由に来た奴もいるだろう。
その場は、まるで冷水を浴びせられたかのように、
男たちの心を凍らせたに違いない。
それにしても恋花のやつ、よくやったものだ。
『元から用事があったけど、なんとか少しの時間だけ参加する私』
――その演技力、見事としか言いようがない。
圭吾はニヤリと笑い、
さらに追い打ちをかけるように言った。
「だから、誰かと連絡先交換したりってのは、してないんじゃないかな」
「そうか……それなら――」
その瞬間。
言いかけた俺の言葉を、
体育教師の怒声が打ち砕く。
まるで、不良の集団がラッパを吹き鳴らし、
バッドを手に殴り込みに来たかのような勢いだった。
「おら汐森、板橋ごらあ!
駄弁って走ってんじゃねえぞお!」
「「はい!!」」
本能的に返事を揃える。
この体育教師は普段は温厚そのものだが、
怒ると、本当に手が出てくるタイプである。
現代の教育観からすれば賛否両論だろうが、
理不尽な暴力までは振るわない。
それでも、怖いものは怖い。
周囲を見れば、
多くの者は既に足を止め、体育館の隅で息を整えている。
――もう少し、早く気付けばよかった。
そんな中で俺たちは、
未だにシャトルランを継続させる僅か数名の内の二人で。
教師に怒鳴られた以上、
もう少しだけ走り続けなければならない。
何であれ、圭吾との飯を賭けた体力テストは負けだ。
話に付き合わせた分、
今回は少しだけ良いものを奢ってやっても良いかも知れない。
俺と圭吾は、
誰の視線も届く体育館の中央で――
擦り切れそうな精神を抱えて、足を止めることなく走り続けた。
――終わりの見えない音楽と、止まらぬ鼓動の中で。




