完璧な人間は欠点すらも愛される、はず
匂いとは不思議なもので、
季節ごとに異なる輪郭を持っている。
春には春の。
冬には冬の。
脳はそれを記憶し、嗅覚を引き金にして、
その季節に結びついた出来事まで呼び起こすのだ。
お祖母ちゃんの家でお年玉の匂いがするのも、きっとそのせいだろう。
開け放たれた体育館の扉から流れ込む空気に、春の気配を感じる。
そうしてようやく。
俺は、新学期が始まっていることを実感した。
二階のキャットウォークを、
恰幅のいい体育教師が歩き――
黒いカーテンを一枚、また一枚と開いていく。
そこから差し込む煌々《こうこう》たる日差しに、思わず目を伏せた。
「清継ー。
お前、何回だったよ」
「五十七だ。
お前は?」
肩で息をするように、身体を上下させながら問い返す。
すると圭吾は、
涼しい顔で――腹立たしい笑みを浮かべた。
「六十。また俺の勝ちだな。
さて、今年は何を奢ってもらおうかなあ。
ラーメン? ハンバーガー?
いや、焼き肉も捨て難い」
「嘘を吐くな。
お前、カウント担当を買収しただろ。
そこまでして俺に勝ちたいか。
牢屋で母親が泣いてるぞ」
「いや、なんで俺の母ちゃん、既に獄中なんだよ。
犯罪一家か。
てか、そんなことしてねえっての」
少し間を置いてから、追い打ちのように言う。
「……清継の五十七って、
反復横跳び・高二男子の、ド平均みたいな数字だぞ。
俺はまあ、平均よりちょい上ってだけだ」
馬鹿な。
俺が――平均?
俺たちのクラスは今、
新体力テストの真っ最中だった。
去年は確か、
五月頃に行われたはずだが、今年は随分と早い。
そして俺たちは、去年と同じように――
その結果で飯を奢る賭けをしている。
ここまでに上体起こしと握力測定を終えた。
だが、俺が叩き出すのは、どれも綺麗な平均値。
一方、圭吾はすべてで平均を軽々と越えていく。
人間とは、つくづく不平等な生き物だ。
神様はきっと、俺を左手で製作なさったに違いない。
「汐森くーん、頑張ってー!」
男子とは少し離れた場所。
同じ種目を行っていた女子たちから、黄色い声援が飛ぶ。
だが、その色はどこかくすんで見えた。
これ以上、
哀れみを上塗りしないでほしい。
「向崎さん、汐森君たち、去年も同じクラスだったんでしょ?
去年は、どっちが勝ったの?」
どうやら、俺と圭吾が飯を賭けて勝負をしていることは、
女子の間でも周知のようだ。
完全に見せ物である。
この際、全員から観覧料を徴収できないものか。
そうすれば、
敗北したとしてもメシ代は帳消しだ。
今から新種目――“ジャンピング土下座”でも新設してくれれば、
世界記録を叩き出してみせるのに。
クラスメイトたちの興味と、
遠慮のない好奇の視線が一斉に恋花へと向けられる。
まるで無関心だった彼女は、
その空気に押されて、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「うぇ!?
あー……どっちだったかなあ」
白々しいにも程がある。
去年は俺が負けて、
圭吾に奢る口実ついでに、あなたまで飯に誘ったでしょうが。
――そこで初めて、連絡先なんか交換しちゃったりしてね。
なんで元カレの俺の方が、
記念日にうるさい女みたいに、律儀に覚えているの。
「確か板橋君の方だったと思うよ。
汐森君、意外と身体固くて体力ないから」
「やかましいわ!
圭吾が体力馬鹿なだけで、
平均値の俺が運動できないみたいに言うな!」
思わず、叩きつけるように指を差し、声を荒らげてしまった。
恋花からは普段から――
あまり親しい雰囲気を出して話しかけるな、と釘を刺されている。
だが、これくらいは許容範囲だろう。
それでも小言、あるいは罵詈雑言が飛んでくるかと思えば、
恋花は不敵な笑みを浮かべ、ただ一言だけ言った。
「あら、そう。
次の長座体前屈、楽しみね」
――笑顔。
笑顔。
溢れんばかりのスマイルが、体育館を包み込む。
その中心にいるのが、この俺だ。
やはり俺は、このクラスに必要不可欠な存在らしい。
――だって、みんな楽しそうなんだから。
俺を除いてな。
「清継、お前どんだけ身体硬ぇんだよ」
「うるさい、黙れ!
早く数値を言え!」
俺は座ったままの前屈姿勢で、
生まれたての四足動物のように、情けなく身体を震わせていた。
モデル体型。
腹も出ていないはずなのに、身体は前に倒れない。
まるで巨漢のデブが無理をしているかのようだ。
誰かが、クラス全体に届くように叫んだ。
「清継、小学生以下!」
途端に、体育館に再び笑顔が咲き誇る。
高校生の長座体前屈の平均は、およそ五十センチ。
後で聞いた話だが、俺の記録――
二十七センチは、小学一年生と同レベルだったらしい。
この硬さでは、将来棺桶に入れるかどうかすら怪しい。
今のうちに、オーダーメイドを検討した方がいいのかもしれない。
去年の醜態を知る恋花でさえ、
涙を拭いながら、心底楽しそうに笑っている。
男女問わず、ゲラゲラと笑い者にされるのは屈辱的だ。
だがそれ以上にきついのは、
一部の女子たちから向けられる――
「愛でるべき対象」を見つけたかのような慈愛の視線。
どちらにしても――
プライドだけはワールドクラスの俺は。
顔が熱を帯び、紅潮していくのをはっきりと感じ、
しばらく顔を上げることができなかった。
次の種目へ移るための笛が鳴る。




