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番外編1-⑬.脳ある悪魔は、優しく微笑む


 曇り空を睨む。


 生暖かい四月の風に背中を押されるように、

 暗い雲が流れていく。


 どうやら、今日もまた雨らしい。


 雷の聖地とも呼ばれる我が県では、

 県民たちは皆、幼い頃からこう戒められてきた。


 ――弁当忘れても、傘忘れるな。


 そんなひもじい言葉を遺した者は。


 きっと減量中のアスリートか、

 身体が綿菓子でできたメルヘン世界の住人だったのだろう。


 俺なら、

 豪雨に打たれてでも弁当を食いたい。


 そして俺は今日、傘を忘れた。


 曇り空を、もう一度睨む。


 実に、良い天気だ。


 ――ふと、体育館の奥から声が響いた。

『お疲れ様でしたー!』


 時間だ。

 二時間は待ったか。


 人を待つのは得意な方だが――

 今日の俺は、少し機嫌が悪い。


来栖くるすせんぱーい」


 開け放たれた扉越しに、体育館の中へ声を投げる。


 それに気付いた来栖先輩は、

 部活後の汗を額で拭いながら、こちらへ歩いてきた。


清継きよつぐ君じゃないか。

 どうしたんだ、そんな所から来るなんて」


「部活が終わるのを待っていました。

 ……今日は天気が良いものですから、外で」


「天気が、良い?」


 来栖先輩は体育館から上半身を乗り出し、

 濁った空を見上げた。


「……君はインドアな趣味なのかな」


「アウトドアもいけますよ。

 それに――あの日を再現するには、ちょうど良い天気だなと」


「あの日?」


「あなたが、

 星川先輩のカメラを盗んだ日です」


 その瞬間。


 来栖先輩の表情に、はっきりと怒気が走った。


 言葉を探すように口元が僅かに歪み、視線が泳ぐ。


 だが、それも束の間だった。


 怒りの頂点を越えたのか、

 来栖先輩は深く息を吐き、ゆっくりと――


 いつもの、

 柔らかな微笑みを貼り直す。


 そして振り向き、

 体育館に残るバスケ部員たちに声を掛けた。


「おい、みんな。

 もうすぐ雨が降りそうだ。急いで帰った方がいい」


「「は、はい!」」


 揃った返事と同時。


 部員たちは慌ただしく荷物をまとめ、

 次々と体育館を後にしていく。


 まるで訓練された軍隊のような統率感だ。


「……」


 その中で、眼帯の木村だけが立ち止まり、

 不安げな視線をこちらに向けてくる。


 俺は黙ったまま、顎先で「お前も帰れ」と示した。


 心配してくれたのだろう。


 だが、これは必要なけじめだ。

 気にしなくていい。


 さて――

 これで、二人きりだ。


 来栖先輩は俺に向き直り、

 笑顔を崩さないまま、静かに口を開いた。


「俺が星川のカメラを盗んだと言ったかな?

 何の為に?」


「とぼけなくていい。

 もう裏は取れています。

 あんたが木村や村田をいじめていた事も、

 俺に“仮の犯人探し”をさせていたことも」


「ふむ……清継君、俺は確かに君に期待はしていた。

 だが、期待以上の活躍までは望んでいなかったんだけどな」


 一拍。


「――どこで、俺がカメラを盗んだと気付いた?」


 ほう。

 もう隠し立てもしないか。


 誤魔化す気もないらしい。


 潔い、と言えば聞こえは良いが――

 それだけ、まだ自分が優位だと思っているのだろう。


 俺は本気で、

 来栖先輩を良い人だと信じていた。


 尊敬に値する人物だとさえ思っていた。

 だからこそ、余計に残念だ。


 薄く、空気が冷えた。


 濁った空を見上げると、額に小さな雫が弾ける。


 ――雨だ。


 俺はゆっくりと、

 言葉を選ぶように口を開いた。


「雨です。

 あの日も、雨が降っていました」


 来栖先輩は黙って聞いている。


「来栖先輩は、いつものように体育館裏で木村に暴行を加えていた。

 理由は知りませんし、この際どうでもいい」


 俺は一度、息を吸う。


「その様子を、買ったばかりのカメラを試していた星川先輩が、

 三階から偶然撮ってしまった。

 フラッシュに気付いたあなたは、

 ――証拠を隠滅しなければならないと、即座に判断した」


「お見事。

 その通りだよ」


 来栖先輩は、感心したように小さく笑う。


「それで?

 俺が残した“証拠”は、何だったかな」


「写真部の部室前に、

 微かに泥の付いた足跡が残っていました。

 最初は、外回りの廃品回収をしていた、環境委員が残したものだと思ったんです」


 俺は一拍置く。


「でも、それは違った。

 普通、外から校舎に入るなら、下足口に戻って内履きに履き替える。

 実際、環境委員の北田はそうしていました」


「……」


「体育館裏から校舎に入るには、必ずあの通路を通る。

 屋根のない、雨で濡れた地面です。

 だからあの足跡は――

 体育館から、内履きのまま校舎に入ってきた人物が残したものだと考えました」


「そうか。

 俺も、焦り過ぎたな。

 足跡なんて、気にも留めなかった」


 来栖先輩は、あっさりとそう言った。


「はい。

 ですから来栖先輩。

 今あなたが履いているバスケットシューズの底には、

 その時の泥が、まだ残っている筈です」


 俺は視線を落とす。


「雨の中、体育館裏から校舎に入ろうとすれば、誰だって同じになります。

 ――今から、再現したって構いませんよ」


 来栖先輩は、

 雨の降り始めた外の様子をしばらく眺めていた。


 やがて、重々しく片足を上げる。


 バスケットシューズの底面を確認し――

 大きく、息を吐いた。


 そして、自嘲気味に笑った。


「お手上げだ。

 完璧でお人好しの人間を味方に付けたつもりが――それが仇になるとはね」


 一度息を吐いてから、

 顔をまっすぐに上げる。


「そうだ。

 俺が星川のカメラを盗み、いじめの事実を隠蔽した。

 データは既に消去済みだ。

 盗難事件だって、木村と村田を協力させたでっち上げの嘘だ。

 鍵だって、最初から落としちゃいない」


「寝小便した布団をSNSで晒すくらい、清々しいですね」


「この事を誰かに話したりは?」


「いいえ、誰にも」


「なるほど。

 では事件の真相を知るのは、

 俺の力の及ぶ外で、清継君だけというわけか!」


 来栖先輩は両手を大きく広げ、にこやかに優しく微笑む。


 その笑顔は、

 悪魔の顔をしてなお、魅惑的だ。


 どれほどの者が騙され、虐げられてきたのか――

 去年の文化祭準備の時から抱いていた嫌悪の正体が、ようやく理解できた。


 脳ある悪魔は、優しく微笑むのだ。


 まるで無害な人間に見せかけ、

 他者を操るかのように。


 ただ、その力に惹かれる者もいるのだろう。


 危険と知りながらも支持したくなる――

 それが彼の持つ、御曹司としてのカリスマ性なのかもしれない。


 来栖製薬不買運動でも学校中で起こすべきか……なんて。


 本当に、反吐が出る。


「俺を脅しますか?」


「そうしようとも思ったが……

 君にはもう、通用しなさそうだ」


 値踏みするような視線だった。

 

「俺はね、人を見る目には多少自信がある。

 幼い頃から、実に多種多様な人間を見てきたからさ。

 権力者、詐欺師、物乞い、家柄目当てで擦り寄ってくる連中……

 だが君は、そのどれとも違う」


「……」


「一言で言うなら、人格破綻者だ。

 悪魔と言ってもいい」


「俺が、悪魔?」


「ああ。

 君は誰にでも優しく微笑み、悩める者には無償で手を差し伸べる。

 実に立派で、模範的な人物だ。

 だがね――その“手を差し伸べること”そのものが、君の目的に見える」


 来栖先輩の視線が、静かに俺を射抜く。


「優しさだけで出来た人間など、存在しない。

 君は本当の自分を隠し、他者を救うことで、別の人格を得ようとしている。

 まるで――英雄の皮を被った悪魔だ」


「……」


「だから俺は、

 去年の君の活躍を、ジャンヌ・ダルクに例えた。

 悪魔や魔女と疑われ、理解されぬまま焼き殺された、あの少女にな」


 来栖先輩は、どこか愉快そうに続ける。


「俺が君を脅したところで無意味だ。

 なぜなら俺は、“本当の君”を知らない。

 何が弱点になるのか分からないんだ。

 友人を人質にしても――不要とあらば、切り捨てそうだ」


 散々な言われようである。


 正直に言えば。


 友人を脅しの材料にされたら、

 俺はどんな要求だって飲んでしまうだろう。


 それでも――

 ここまで俺の内面を言語化してきた人間は、

 中学時代の旧友、笹本ささもとくらいなもの。


 ご慧眼ですね。


 俺は、ゆっくりと息を吐き、

 そして――優しく微笑んだ。


「じゃあ、俺と先輩は」


 一拍置いて、言う。


「悪魔同士で、仲良くやれそうですね」


「どうかな。

 君の口止めには……、何がお望みかな」


 ――さすが大企業御曹司。


 このように追い詰めれば、

 いずれ必ず、交渉のフェーズに入ると思った。


 いじめの事実を知るとなれば、

 ある程度の要求は通るだろう。


 俺は指を立て、ゆっくりと言う。


「俺の要求は三つ。

 一つ目は、俺から盗んだキーホルダーを返して欲しい。

 まだ持っているんでしょう? ボロボロのやつ」


「ああ、あのゴミみたいなやつか。

 もちろん」


 ……。


「二つ目、星川先輩にカメラを返してあげて下さい。

 写真データは消しただけで、実物は手元にある筈だ。

 あのカメラ十万するらしいから、泣き寝入りは可哀想だ」


「星川め……

 もう少し安いカメラだったら、最後まで上手く隠せたかも知れないのに。

 ……考えておくよ」


 本当に反省しないな。


 全部バラした方がスッキリする気もするが……まったく。


「最後に三つ目。

 ご自身の今後の在り方を見つめ直してください。

 このままでは、社会人になって苦労しますよ。

 パワハラを続ければ、部下からストライキも起きる。

 来栖製薬を潰したら、それこそ一族にとっての悪魔になります」


「それは木村への暴力の話か。

 ――忠告ありがとう。

 考えておくよ」


 そして、吐き捨てるように。


「……しかし、あいつはムカつくんだ。

 いつも自分じゃない誰かの言葉で会話するから、人を不快にさせて仕方がない」


「確かに感じたこともあります。

 ですが、だからといって、理不尽な目に合わせる理由にはならないでしょう?

 ……分かるだろう?」


 来栖先輩は虚空を見上げ、

 つまらなそうに答える。


「どうだかね」


 そうして、来栖先輩は体育館の中へと戻っていった。


 俺の要求は、

 果たしてすべて飲まれるのだろうか。


 彼の背中を見ていると、

 どうにも不安が拭えない。


 しばらくして。


 来栖先輩は鞄から、

 俺のキーホルダーを取り出し、戻って来た。


 それを掴む手つきは、

 まるで汚物にでも触れるかのようで、苛立ちを隠せない。


 手のひらに、

 爪が深く食い込む。


「しかし清継君。

 このキーホルダーは一体何なんだい。

 どこか海外のお土産かな。

 悪趣味だから捨てた方がいい」


「返せよ」


「もちろん」


 手渡される、その瞬間だった。


 俺は来栖先輩の手を、

 思い切り、握り潰した。


 痛がる顔を見た瞬間。

 胸の奥で、何かが外れた。


 指くらいなら──何本か折っても構わない。


 そんな考えが、驚くほど自然に浮かんだ。


 来栖先輩が顔を歪める。


「ぐ……っ。

 おい清継君、どういうつもりだ」


「さっきの発言、

 取り消してもらえませんか」


「……何?」


「俺の宝物をゴミって言いましたよね。それは頂けない。

 これ、今は遠くで暮らす弟が作ってくれたものなんです」


「はは。

 弟が作った物ごときが、そんなに大切か。

 驚いたな。君はブラコンなのか」


 ――ああ。

 やっぱり俺は、この人の言う通り、悪魔なのかもしれない。


 腹の立つ相手を痛めつけることに、

 確かに快感を覚えている。


 それを否定できない自分がいる。


 これでは、

 木村をいじめていた来栖先輩と、やっていることは同じだ。


 少しだけ、彼の気持ちが分かってしまった。


 俺が「良い人」であろうとし続けた理由も、きっとこれだ。


 尊敬され、

 頼られ、

 羨望される存在になろうとしたのは、


 この醜い衝動を、隠すためだったのだろう。


 正直、家族を貶す人間が、

 この先も当たり前のように息をしている理由が、俺には分からなかった。


 こいつは俺の大切なものを奪い、侮辱した。


 後輩をいじめ、

 証拠を隠し――


 逃げようとした。


 こんな人間に、

 生きている価値があるのだろうか。


 誰も正しく裁かないのなら。


 俺が、

 報いを受けさせるしかないんじゃないか。


「なあ、来栖先輩。

 バスケってさ、片手無くても出来るの?」


 「離せよ!」


 躊躇なく、拳が飛んでくる。


 だが、俺の片手は反射でそれを受け止めていた。


 ――中学時代、

 剣道をやっていて本当に良かったと思った。


 もういっそ、

 このまま両手を折ってしまいたい衝動が胸の奥でうずく。


 木村のことを思うと。


 むしろ今後、誰かが傷つくのを止められるのではないかと。

 歪んだ善性さえも滲みだしてくる。


 俺はそれを誤魔化すように、

 精一杯、優しく微笑む。


 来栖先輩が低く喉を鳴らす。


 「やめろ……! 

 こんな事してただで済むと思ってるのかあ!? 

 お前も、必ず木村達と同じ目に合わせてやる!」


 視界が狭まり――


 来栖先輩の呻き声だけが、

 雨に打たれる屋根や地面に反響して、遠くで響いていた。


 もうどうにでもなれ、

 そう思ったその瞬間だった。


 ――外から声が掛かった。


「あー、清継くん、やっと見つけた! 

 校門の方でね、板橋君と瑞希ちゃんが探してたよ?」


「……!」


 俺は咄嗟に、来栖先輩の手を離して振り返る。


 視線の先。


 雨に濡れた髪を揺らし、

 息を切らした恋花の姿が目に飛び込んできた。


「……恋花?」


「なに、

 また来栖先輩と密談中?」


「あ、ああ。

 まあな……お前こそ、どうしたんだよこんな所に」


「板橋君と瑞希ちゃんが探してたって言ったでしょ? 

 だから、私、先に見つけちゃったの」


「圭吾と水上が? 

 何でまた」


「知らない。

 何か急いでたみたいだし、早く行ってあげたら?」


 俺は改めて、来栖先輩に視線を戻す。


 彼はまるで、今まで何もなかったかのように。


 いつもの、外向きの優しい笑みを浮かべている。


 手首を抑えながら、

 落ち着いた声で言った。


「さすが人気者。

 お呼びのようだよ。

 すぐに行ってあげるといい」


 彼の様子に、ふと罪悪感を覚える。


 俺は、その罪悪感から逃げるように、

 一礼だけしてその場を後にした。


 去り際、恋花に短く声を掛ける。


「恋花、

 じゃあまた月曜日」


「うん、またね」


 恋花の『またね』――

 あんなふうに聞いたのは、いつ以来だろうか。


 その声はどこか優しく、耳にいたわるように残る。


 振り払うように頭を振り。


 さっきまで平然と人の道を外れようとしていた自分に怯えながら、

 冷たい雨の中を駆けた。

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