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乂阿戦記7 第二章 灰燼の覇王と不滅の将軍-2 バベル社のオーナーの声


その時だった。


 装置の奥で、紫色の光が大きく脈打った。


 同時に部屋全体が軋み、壁に刻まれていた魔法陣が赤黒く染まっていく。


 やがて空間のさらに奥深くから、何か巨大な存在の鼓動が響き始めた。


 ドクン。


 ドクン。


 ドクン。


 先ほどまで机の上に足を乗せていたフレースヴェルグが、ゆっくりと足を下ろす。


「おい。今のは何だ?」


 ラタトスクが即座に端末を操作した。


 数秒も経たないうちに、その表情が変わる。


「……ヘルヘイム支線の漏洩値が跳ね上がった」


「暴走したの?」


「いや、違う」


 ラタトスクの指がさらに速く動く。


「これは漏れてるんじゃない。誰かが向こう側から、意図的にエネルギーを引っ張ってる」


 クズルーンの笑みが消えた。


「誰よ?」


 答えたのはアスラだった。


 彼だけが、相変わらず穏やかに微笑んでいる。


「お目覚めのようですね」


 フレースヴェルグが眉をひそめる。


「誰と話してんだ、イシヅカ?」


 アスラは透明な球体の中に浮かぶ三つの光を見つめながら、囁くように答えた。


「バベル社のオーナー様ですよ」


 その瞬間。


 装置の内部に、黒い玉座の幻影が浮かび上がった。


 暗闇。


 その中央に鎮座する巨大な影。


 姿の細部は見えない。


 それでも、その存在が映し出された瞬間だけで、部屋の空気が一変した。


 影がゆっくりと顔を上げる。


『愚者が――我が楽園へ踏み込むか』


 冷たく、深い声。


 それは声というより、死そのものが言葉を発しているようだった。


 アスラは恭しく頭を下げる。


「お久しぶりです。選ばれし民の支配者よ」


 黒い影は答えない。


 ただ視線を向ける。


 それだけで、室内の温度が何度も下がったように感じられた。


 ラタトスクの額に冷たい汗が浮かぶ。


「……通信映像だけで、この圧かよ」


 だが、フレースヴェルグだけは逆に楽しそうに笑っていた。


「いいねぇ」


 双剣へ手を伸ばす。


「選ばれし民の支配者、ねぇ。あれ……斬れるのか?」


 クズルーンが呆れたように肩をすくめる。


「あんた、本当にいつか死ぬわよ」


「死者の国で死ぬなら本望だろ」


「最低の本望ね」


 黒い玉座の影が、再びアスラへ視線を向けた。


『三聖塔の顕現を求める者よ』


 低い声が部屋を震わせる。


『貴様は、何を望む?』


 アスラは顔を上げた。


 いつもの柔和な笑み。


「秩序を」


『嘘だな』


 たった一言だった。


 それだけで、室内の空気が凍りついた。


 アスラの笑みが、一瞬だけ止まる。


 黒い影は淡々と続けた。


『貴様からは秩序の匂いがしない』


 沈黙。


『あるのは空虚だ』


 誰も口を挟めなかった。


『貴様は世界を救いたいのではない。世界が壊れる瞬間を、特等席から眺めたいだけだ』


 ラタトスクも。


 フレースヴェルグも。


 クズルーンさえも、言葉を失った。


 だが――。


 次の瞬間には、アスラは笑っていた。


「これはこれは」


 その声音はいつもと変わらず穏やかだった。


 ただし、その奥には底の抜けたような冷たさがある。


「さすがですね。よく見ていらっしゃる」


『否定しないか』


「否定する必要がありませんので」


 アスラは肩をすくめる。


「目的など些細なものです。結果として三聖塔が現世へ戻り、アカシックレコードが開かれる」


 笑みを深める。


「それで十分ではありませんか?」


 黒い影は、しばらくアスラを見つめていた。


 やがて低く告げる。


『ならば見せてみろ』


「何を?」


『生者の欲望が――死者の沈黙を超えられるかを』


 その言葉を最後に、映像が消えた。


 装置の光も落ち着き、室内に重い静寂だけが残る。


 最初に口を開いたのはクズルーンだった。


「……ねえ」


「はい?」


「今の、味方なの?」


 アスラはにっこり笑った。


「いいえ」


「敵?」


「それも違います」


「じゃあ何なのよ」


 アスラは人差し指を唇へ当てる。


「秘密です」


 三人が同時に嫌そうな顔をした。


「出たよ」


「一番信用できねぇやつ」


「殴っていい?」


「皆さん、酷いですねぇ」


 アスラは涼しい顔のまま言う。


 そして軽く指を鳴らした。


 壁一面に、ヘルヘイムの地図が浮かび上がる。


 死者の霧。


 ユグドラシル北部支線。


 キャノンボールのゴール地点。


 さらに、その奥。


 三聖塔の門が出現すると予測されている黒い座標。


「さて」


 アスラの声から、僅かに遊びが消えた。


「作戦開始です」


 三人の視線が地図へ集まる。


「雷音君たちは、死者の軍勢へ誘導」


 次の座標が光る。


「シグルドたちは、フレースヴェルグ君が足止め」


「了解」


「クズルーンさんは幻影を使い、勇者チームを分断してください」


「任せて」


「ラタトスク君は通信網の撹乱を」


「仕事はする」


 ラタトスクが端末を閉じる。


「報酬は倍な」


「検討しましょう」


「今決めろ」


 アスラは聞かなかったことにして続ける。


「そして最後に――」


 透明な球体の中で、三つの光が明滅した。


「私はシルマリルリオンの欠片を回収します」


 フレースヴェルグが双剣を抜く。


「よし」


 刃を肩へ担いだ。


戦争開始ミッションスタートだ」


 クズルーンも立ち上がる。


 艶やかな笑みを浮かべ、大剣を担いだ。


「さあ、勇者様たちに悪夢を見せてあげましょうか」


 ラタトスクはため息をつきながら端末を懐へしまう。


「できれば計画通り進んでくれよ。お前ら全員、予定外のこと大好きすぎるんだから」


「善処しますよ」


「お前が一番信用できねぇんだよ」


 アスラは楽しそうに笑った。


 そして三人の前で、深々と一礼する。


「それでは皆さん」


 足元に紫色の魔法陣が広がった。


「楽しい冥界旅行の始まりです」


 紫の光が一気に膨れ上がる。


 次の瞬間。


 四つの影は、その場から跡形もなく消え去った。


 残された研究施設では、三聖塔召喚装置だけが静かに脈打ち続けていた。


 ドクン。


 ドクン。


 まるで、冥界の奥に眠る何者かの心臓と同じ鼓動を刻むように。


挿絵(By みてみん)


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