乂阿戦記7 第一章 暗躍する黒紫衣の神官 アスラ・イシヅカ-8 ホテルの騒動
欲望獣グラトニアの巨体が壁を抉りながら暴れ回るたび、鉄鍋が宙を舞い、巨人族用の巨大冷蔵庫が轟音を立てて倒れていく。
床には大量の料理がぶちまけられ、厨房はもはや見る影もない。
「うわああああっ! また飯がぁぁぁ!!」
「飯の心配してる場合じゃないのだ! 雷音、危ない!!」
ミリルが魔法少女コンパクトを展開した。
瞬時に氷の結界が形成され、雷音たちの前を覆う。
だが――。
『モット……』
グラトニアの全身から、不気味な波動が放たれた。
『モットォォォ……! マダ……満タサレナイ……!』
「なっ!?」
氷の結界が、見る間に溶けていく。
それは熱ではない。
欲望そのものが魔力へ干渉し、術式を侵食しているのだ。
獣の体内から、無数の声が重なって響いてくる。
食欲。
嫉妬。
劣等感。
承認欲求。
もっと欲しい。
もっと認められたい。
もっと自分を見てほしい。
人間が心の奥底に抱える負の感情を、そのまま音へ変えたような不快な叫びだった。
「くそっ、どうすりゃ――」
その時。
ドゴォォォン!!
厨房の天井が突き破られ、黒い影が飛び込んできた。
「ウリャァァァァ!!」
「獅鳳!?」
獅鳳だった。
先ほどの戦闘で負傷したのか、肩から血を流している。
それでも、その顔にはいつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
「雷音! ボサッとしてんな!」
宝具ドゥラグラグナを振り抜く。
「喰らいやがれ!!」
シビィィィィィィッ!!
凄まじい雷剣撃がグラトニアの巨体を直撃した。
『ギィィィィィッ!?』
欲望獣の全身を雷光が駆け巡り、巨体が一瞬だけ硬直する。
獅鳳の後ろから、ミスティルも駆け込んできた。
その手にはすでに魔導杖が握られている。
「今のうちだ。まずはこいつを黙らせるぞ」
「ああ」
塵芥がグラトニアを睨みつけた。
その背後に、巨大な黒い影が浮かび上がる。
翼。
角。
そして、竜を思わせる禍々しい輪郭。
父クレイジーナックル――超竜ニーズベックから受け継いだ、禁忌の魔力だった。
「グラトニア……!」
塵芥が拳を構える。
その瞬間だった。
『無駄ですよ』
どこからともなく声が響いた。
「……!」
空中に紫色の魔法陣が展開され、その中央にアスラ・イシヅカの姿が映し出される。
実体ではない。
遠隔投影された幻影だ。
『私はもう、とっくに安全な場所ですよ』
「クソ野郎……!」
塵芥が睨みつける。
アスラは楽しげに笑うと、幻影の中で指を鳴らした。
『さあ――もっと食べなさい、グラトニア』
グラトニアが咆哮する。
床に散乱していた料理や残飯が一斉に浮かび上がり、巨大な口へ吸い込まれていった。
肉体がさらに膨張する。
体表に浮かんだ無数の顔が、苦痛とも恍惚ともつかない表情を浮かべながら蠢いた。
「まずいのだ!」
ミリルが叫ぶ。
「こいつ、欲望を取り込み続ける限りどんどん巨大化するのだ! このままじゃホテルごと飲み込まれる!」
「了解!」
雷音がニヤリと笑った。
「だったら俺が食わせてやる」
全身から紅蓮の炎が噴き上がる。
封獣クトゥグァ。
その灼熱の魔力が雷音の身体へ流れ込んでいく。
「腹いっぱいになるくらいの――とんでもねぇ『痛み』をな!!」
炎が爆発した。
だが、それとほぼ同時。
ドゴォォォォォン!!
今度は厨房の壁が外側から吹き飛んだ。
「今度は何だァァァ!?」
瓦礫を吹き飛ばしながら飛び込んできたのは、巨大な盾を構えた女巨人だった。
ジャイアントミノタウロス族の姫。
副王候補――ホドリコ・ノゲノーラ。
その肩の横には妖精ティンクも浮かんでいる。
ホドリコは惨状と化した厨房を見渡した。
そして、一言。
「……厨房で暴れるな」
「いや俺らに言われても!?」
雷音の抗議を無視し、ホドリコが巨大盾を振り抜いた。
ドゴォン!!
盾の一撃がグラトニアの横っ面へ直撃する。
『ギャァァァァァッ!?』
巨体が宙を舞い、厨房の壁を何枚も突き破って吹っ飛んだ。
「ホドリコさん!?」
雷音が目を丸くする。
ティンクが苦笑しながら説明した。
「大食い大会が大変なことになったって聞いて来てみれば、この有様なんですもの」
ホドリコが雷音を見る。
そして、小さく頷いた。
「ホドリコ、雷音君たちには借りがあるって言ってるわ」
「言ってないけど!?」
「顔を見れば分かるのよ」
「すげぇな通訳!?」
ホドリコは気にする様子もなく、再び巨大盾を構えた。
その時。
アスラの幻影が笑う。
『素晴らしい。では、もう少し欲望というものを観察してみましょうか』
「何?」
アスラが再び指を鳴らした。
グラトニアの身体が大きく脈打つ。
ボコッ。
ボコボコッ。
肉体の一部が膨れ上がり、三つの異形が分離した。
一体は、他者を羨む無数の瞳を持つ《嫉妬獣》。
一体は、地面へ溶けるような巨大な肉塊《怠惰獣》。
そして最後は、王冠のような角を持ち、周囲すべてを見下す《傲慢獣》。
「分裂した!?」
雷華が剣を構える。
『人間が持つ七つの大罪。それを模した欲望獣ですよ』
アスラは楽しそうに笑った。
『グラトニアはその一つ、暴食。条件さえ揃えば、残る大罪もいずれ――』
「面白くねぇよ」
雷音が遮った。
紅蓮の炎がさらに燃え上がる。
「人の世界を勝手に実験場にしてんじゃねぇ!!」
床を蹴った。
「うおおおおおおっ!!」
炎を纏った拳が嫉妬獣へ叩き込まれる。
ズドォォォン!!
衝撃で厨房がさらに崩壊した。
「雷音! 厨房壊してるのあんたじゃない!」
「今それ言う!?」
雷華も剣を抜き、傲慢獣へ斬りかかる。
ミリルは怠惰獣を氷結魔法で拘束し、カルノフハートは巨大フォークを構えて突進する。
「我が飯を奪った罪、償ってもらうぞォォォ!!」
その後方では、羅刹が黒炎を纏った髑髏の軍勢を召喚していた。
「そしてプリンの仇だ」
「まだ言ってる!?」
巨大厨房は完全な混戦状態へ突入した。
だが。
塵芥だけは、獣たちを見ていなかった。
空中に浮かぶアスラの幻影を睨みつけている。
「おい、アスラ」
『何です?』
「親父の仇は後回しだって言った」
『それが?』
塵芥は拳を握る。
「だから今日は殺さねぇ」
アスラの笑みが僅かに止まった。
「だが――」
塵芥の身体から黒い魔力が噴き上がる。
「一発くらい殴らせろ」
『幻影を殴ってどうするつもり――』
「そこだ」
『……?』
塵芥が突然、誰もいない空間へ肘を叩き込んだ。
バキィッ!!
『ぐっ!?』
アスラの幻影が大きく歪む。
「なっ!?」
雷音が目を丸くする。
「何したんだ!?」
「幻影を作る術式には、必ず魔力の接続点がある」
塵芥が笑った。
「親父から教わったんだよ。敵が笑ってる時は――もっと笑わせてやれってな」
拳を握り込む。
「オラァッ!!」
接続点へ黒い魔力を叩き込んだ。
遠隔地にいるアスラへ、術式を逆流して衝撃が伝わる。
『がっ……!?』
幻影のアスラが血を吐いた。
『貴様……!』
「いい顔するじゃねぇか」
塵芥が初めて笑った。
「親父の分は、今度直接払わせる」
『……覚えていなさい』
紫の術式が崩れ始める。
『三聖塔が現世へ降りる時……あなた方の時代は終わる』
「好きに言ってろ」
塵芥は中指を立てた。
「次は本体で来い」
アスラの幻影が消滅した。
同時に。
『グオオオオオオオオオッ!!』
主からの制御を失ったグラトニアたちが一斉に暴走を始めた。
「まずい!」
ミスティルが叫ぶ。
「術者との接続が切れた! 完全に制御を失っている!」
その時、ホドリコが静かに前へ出た。
巨大盾を床へ突き立てる。
ドン――。
たったそれだけで、厨房全体の空気が変わった。
「……『巨神の鎮魂歌』」
ホドリコを中心に、凄まじい重圧が広がっていく。
巨人族に伝わる古代魔術。
質量と重力そのものへ干渉する力。
グラトニアたちの巨体が一斉に沈み込んだ。
『ギ……ギィィィ……!』
「今なのだ!!」
ミリルが叫ぶ。
「雷音!!」
「おう!!」
雷音が両拳を合わせた。
クトゥグァの炎が、その全身を包み込む。
「まとめて――燃え尽きろォォォ!!」
紅蓮の炎が巨大な翼となって広がった。
そして次の瞬間。
灼熱の奔流がグラトニアと三体の大罪獣をまとめて飲み込んだ。
『ギャアアアアアアアアアアッ!!』
欲望の怪物たちが、炎の中で次々と崩れていく。
やがて最後に残ったグラトニアの巨体も光の粒子となり、完全に消滅した。
静寂が戻った。
「…………」
半壊した厨房。
崩れた壁。
吹き飛んだ調理台。
転がる巨大鍋。
そして、食べ物は一つ残らず消えている。
「俺の……飯……」
雷音がその場へ崩れ落ちた。
「そこ!?」
雷華のツッコミが響いた。
⸻
戦いが終わった後。
雷音は瓦礫の上へ腰を下ろしている塵芥へ近づいた。
「おい……塵芥」
「あ?」
「大丈夫か?」
塵芥は自分の口元についた血を拭った。
「……親父が死んだ」
雷音の表情が固まる。
「……そうか」
「ああ」
塵芥はそれ以上、何も言わなかった。
泣きもしない。
怒鳴りもしない。
ただ、自分の拳を見つめていた。
「でも、まだ終わってねぇ」
やがて顔を上げる。
「アスラの野郎は逃げた。三聖塔も、シルマリルリオンも……まだ何も解決してねぇ」
ミスティルが床に落ちていた資料の断片を拾い上げた。
「ユグドシラルの暴走まで、およそ一年」
全員が彼を見る。
「そしてキャノンボールは、九つの世界を巡る」
ミスティルは資料を握りしめた。
「偶然とは思えない。この旅を続ければ、シルマリルリオンや三聖塔に関わる手掛かりと、必ずまた接触することになる」
雷音は頭を掻いた。
「つまり……」
嫌そうな顔をする。
「俺たち、レースしながら世界の危機まで解決しなきゃなんねぇの?」
「そういうことだ」
「相変わらず無茶苦茶なのだ……」
ミリルが肩をすくめる。
雷華も深いため息をついた。
「普通にレースだけできないわけ?」
「俺に聞くなよ!」
その時。
ホドリコが雷音の前へ立った。
「ん?」
巨大な手が伸びる。
ぽん。
雷音の頭を軽く叩いた。
「いてっ……って、これ何?」
ティンクが笑う。
「褒めてるのよ」
「分かりづらっ!」
ホドリコは無言で親指を立てた。
「お、おう……サンキュー」
⸻
その夜。
巨人王都ハーゲンシュタットの空に、再びシルマリルリオンの幻影が浮かび上がった。
三つの光は以前よりも強く輝き、夜空を不気味に照らしている。
雷音はホテルのバルコニーから、その光を見上げていた。
巨人族用なので、バルコニーだけでちょっとした広場ほどの大きさがある。
その隣には雷華、ミリル、獅鳳。
そして少し離れた場所に、塵芥たちもいた。
レースは終わっていない。
三聖塔の謎も。
ユグドシラルの暴走も。
クレイジーナックルの死の真相も。
何一つ終わってはいなかった。
雷音は夜空に浮かぶ三つの光を見つめ、拳を握る。
「走るぞ、お前ら」
雷華が笑う。
ミリルが胸を張る。
獅鳳が肩の傷を押さえながら、不敵に笑った。
「「「おう!」」」
明日になれば、またキャノンボールが始まる。
次に待つのがレースなのか、怪物なのか、それとも世界を滅ぼしかねない陰謀なのか。
そんなことは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――。
問題児たちは、明日も走る。
九つの世界を巡る狂乱のレースは、まだ始まったばかりだった。




