乂阿戦記7 第一章 暗躍する黒紫衣の神官 アスラ・イシヅカ-7 その男アスラ・イシヅカ
巨大厨房の奥。
蒸気と油の匂いが立ち込める薄暗い一角で、一人の男が待ち構えていた。
黒紫色の神官衣。
人を食ったような薄笑い。
アスラ・イシヅカだった。
「ほう……こんなところまで来るとはね」
塵芥が一歩前へ出る。
「貴様が、あの怪物を放った張本人か?」
低い問いに、アスラは心外そうに肩をすくめた。
「張本人? 嫌だなぁ、その言い方は」
「何?」
「私はただ、そこに存在していた欲望へ形を与えただけですよ」
アスラは芝居がかった仕草で両手を広げる。
「食べたい。勝ちたい。目立ちたい。奪いたい。皆さんが勝手に膨らませていた感情を、少しだけ目に見える形にして差し上げた。それだけなのに加害者扱いとは……随分と乱暴ではありませんか?」
「黙れ」
塵芥の声が一気に冷えた。
「親父を殺した連中をけしかけたのも、お前だな?」
だが、アスラは悪びれるどころか、にこやかに笑った。
「それも正確ではありません」
「……何だと?」
「私は仕事を依頼しただけです」
指を一本立てる。
「殺したのは傭兵たち。爆弾を投げたのも傭兵たち。そしてクレイジーナックルが死んだのは、彼が生き残れなかったからです」
笑顔のまま続ける。
「責任の所在を混同しないでいただきたい」
――バキン。
塵芥の足元の床が砕けた。
怒りのあまり、無意識に踏み抜いたのだ。
「てめぇ……!」
「怖いなぁ」
アスラは一歩も退かない。
むしろ心底迷惑そうに眉をひそめた。
「少し気に入らないことを言われただけで、すぐ暴力ですか。これだから竜の血を引く者は困る」
「事実だって言いてぇのか?」
「ええ。事実ですよ」
アスラは胸へ手を当て、堂々と言い放った。
「私は世界を救おうとしている」
塵芥の眉が動く。
「反物質エネルギーという便利すぎる力に溺れた人類圏は、すでに腐敗している。資源を奪い合い、欲望を膨らませ、際限なく消費する」
アスラの笑みが僅かに深くなる。
「ならば余剰を削り、欲望を整理し、世界の均衡を取り戻す。それの何が悪いのです?」
「悪いに決まってんだろ」
別の声が飛んだ。
アスラが振り向く。
厨房の入口に、雷音たちが立っていた。
雷音が一歩前へ出る。
「人間が愚かだから殺す。欲深いから滅ぼす。そんなもん、ただの殺人鬼の言い訳だろ」
「殺人鬼?」
アスラの笑みが消えた。
「今、私を殺人鬼と言いましたか?」
厨房の空気が一瞬で冷え込む。
それでも雷音は引かなかった。
「ああ。言った」
「それは心外ですね」
アスラの声が、ぞっとするほど平坦になる。
「私は私利私欲で殺しているのではない。世界のため、未来のため、調和のために必要な処置をしているだけです」
「同じだろ」
「違う」
初めて、アスラの声に苛立ちが混じる。
「それを理解できず、感情だけで私を悪と断じる。なるほど……あなた方こそ、まさに滅ぶべき人類の象徴ですね」
ミリルが露骨に顔をしかめた。
「セリフが長いのだ。要するに、お前は最低のクズなのだ」
「まあ、とりあえずウザいな」
羅刹の周囲に黒炎が立ち昇る。
「そして私のプリンを奪った。その時点で貴様の罪は宇宙より重い」
「ひいい!? 姉ちゃん、倫理基準そこなの!?」
雷音が思わずツッコんだ。
その時だった。
厨房奥の闇が、大きく膨れ上がった。
グチャリ。
肉が捻れるような音。
欲望獣グラトニアが、先ほどとは比較にならない巨体となって姿を現す。
食堂で喰らった食欲。
競争心。
怒り。
歓声。
恐怖。
それらすべてを取り込んだ結果、その肉体は倍以上に膨張していた。
『モット……』
無数の口が蠢く。
『モットォォォ……!』
アスラは満足そうに両手を広げた。
「ご覧なさい」
巨大な獣を背負いながら、まるで芸術作品でも紹介するように語る。
「これが人間の本性です。どれほど綺麗事を並べても、腹が減れば奪い、欲しければ争う」
塵芥が遮った。
「違うな」
「……何です?」
塵芥がゆっくりと前へ出る。
「人間が醜いのは否定しねぇよ。欲もある。嫉妬もある。間違いだって犯す」
その両腕へ黒い魔力が絡みついた。
「けどな――」
塵芥の瞳が、鋭くアスラを射抜く。
「それでも誰かを助けようとする馬鹿もいる」
雷音が眉を上げる。
「命張って走る馬鹿もいる。泣いてる奴を放っておけねぇ馬鹿だっている」
雷音がニヤリと笑った。
「呼んだか?」
「呼んでねぇよ、馬鹿代表」
「ひどくね!?」
塵芥は構わず拳を構えた。
「俺は――そっちの馬鹿どもに賭ける」
その瞬間。
アスラの表情が、初めて明確に歪んだ。
「……臭いですねぇ」
「あ?」
「そういう、ありきたりな正義の味方ごっこの台詞ですよ。不愉快だ。もう少し気の利いたことを言えないんですか?」
「そうかよ」
塵芥の口元が吊り上がった。
「だったら、もっと不愉快にしてやる」
床を蹴る。
次の瞬間。
黒い閃光が厨房を走った。
「オラァッ!!」
塵芥の拳が、グラトニアの顔面へ叩き込まれる。
『ギィィィィィィィ!?』
巨獣の身体に浮かんだ無数の顔が、一斉に悲鳴を上げた。
「雷音!」
「おう!」
雷音も拳を鳴らす。
「大食い大会は中止だ!」
ミリルが魔法少女コンパクトを掲げた。
「ここからは怪物退治イベントなのだ!」
「プリンの仇討ちだ!!」
羅刹が黒炎を爆発させる。
雷華はため息をつきながら剣を抜いた。
「羅刹姉様、プリン言いすぎ。理由はしょうもないけど……まあ、敵が最悪なのは同意するわ」
その様子を眺めながら、アスラは静かに後退した。
「やれやれ。本当に野蛮な連中だ」
足元に転移魔法陣が浮かび上がる。
「いや、皮肉でもなんでもなく、一般的な倫理基準に照らしても相当野蛮ですよね、あなた方」
「逃がすか!」
塵芥が踏み込む。
だが、アスラは薄く笑った。
「逃げる?」
首を横へ振る。
「違いますよ。安全な場所へ移動して、あなた方が獣に蹂躙されるところを見学するだけです」
「同じだろうが!」
「それに私は、ここであなた方と遊んでいるほど暇ではありません」
転移光が強くなる。
「三聖塔が現世へ現れる、その時を待たなければなりませんから」
その言葉に、ミスティルの表情が一変した。
「待て」
「はい?」
「まさか……お前たちが反物質エネルギーを暴走させている理由は……!」
アスラの笑みが深くなる。
「ご明察」
厨房の空気が凍りつく。
「多重ブラックホール世界――《奈落》に封印された三聖塔」
アスラはゆっくりと両腕を広げた。
「それを現世へ召喚するためには、途方もないエネルギーが必要になる」
「だからユグドシラルを暴走させるつもりなのか!?」
ミスティルの怒声が厨房に響き渡った。
「そんなことをすれば、世界そのものが壊れるぞ!」
「破壊?」
アスラが笑う。
「違いますよ」
その声だけが、不気味なほど穏やかだった。
「浄化です」
「……何?」
「腐敗した人類圏を一度洗い流し、新たな秩序を築く」
転移光がアスラの身体を包み込んでいく。
「そして三聖塔に眠るアカシックレコードを手に入れることができれば――世界そのものを書き換えることさえ可能になる」
「ふざけるな!」
雷音が叫ぶ。
しかしアスラは、もう彼らを見ていなかった。
「それでは皆さん」
最後に笑う。
「せいぜい、自分たちの欲望が生んだ怪物と仲良く遊んでください」
次の瞬間。
転移光が弾け、アスラ・イシヅカの姿が消えた。
残されたのは、暴走する欲望獣グラトニア。
そして、怒りに燃える塵芥たち。
「クソッ!」
雷音が拳を構えた。
「話は後だ! まずはこいつをぶっ倒すぞ!」
「ああ」
塵芥も静かに拳を握りしめる。
その瞳に宿っているのは、もはや復讐だけではなかった。
「親父の仇は後だ」
目の前のグラトニアを睨む。
「今は――こいつを止める」
『グオオオオオオオオオオッ!!』
欲望獣が咆哮した。
衝撃波が厨房を駆け抜け、巨大な調理台が吹き飛び、天井から石材が崩れ落ちる。
蒸気と油の匂いが充満していた巨大厨房は――。
今や完全な戦場へと変わっていた。




