乂阿戦記7 第一章 暗躍する黒紫衣の神官 アスラ・イシヅカ-6 欲望獣グラトニア
塵芥は反射的にミスティルを抱え、その場から横へ跳んだ。
直後、轟音と共に机が真っ二つに裂ける。
古びた書類が宙を舞い、地下室いっぱいに埃が巻き上がった。
その煙の向こうから、複数の黒装束の男たちが姿を現す。
全員が仮面で顔を隠し、手には対竜用の呪毒刃を携えていた。
そして胸元には、見覚えのない紋章。
十一枚の羽を持つ、黒い天秤。
ミスティルが目を細める。
「……十一人委員会子飼いの殺し屋部隊か?」
塵芥の目つきが変わった。
「テメーらが、親父を殺した連中か?」
黒装束の一人が、感情のない声で告げる。
「ミナ・アクターの遺産を回収する」
「対象――塵芥鏖」
「生死は問わない」
塵芥は笑った。
だが、その目はまったく笑っていない。
「上等だ」
身体の周囲に、黒い魔力が渦巻き始める。
「親父を殺して、今度はオフクロの遺品まで奪いに来たってか」
塵芥は一歩前へ出た。
「だったら教えてやるよ。誰の家族に手ぇ出したのかをな」
その背後で、ミスティルが魔導端末を起動する。
「塵芥、時間を稼げ。資料を転送する」
「何秒だ?」
「三十秒」
塵芥は口元を吊り上げる。
「十分だ」
次の瞬間、黒装束たちが一斉に跳んだ。
だが、それより早く塵芥の姿が消える。
「遅ぇ」
一人目の仮面が砕けた。
二人目の腕が呪毒刃ごと宙を舞う。
三人目が横薙ぎに刃を振るうが、塵芥は紙一重でかわすと、その胸倉を掴んで壁へ叩きつけた。
「言え」
塵芥の声は、氷よりも冷たい。
「お前らの雇い主は誰だ。アスラ・イシヅカか?」
黒装束の男は答えなかった。
代わりに、その口元へ刻まれた呪印が赤く光る。
ミスティルが叫ぶ。
「離れろ! 自爆するぞ!」
「チッ!」
塵芥は男を蹴り飛ばした。
直後。
爆発。
地下室全体が激しく揺れ、天井から石片が降り注ぐ。
立ち込める煙の中で、ミスティルの端末が眩い光を放った。
「転送完了。雷牙尊、オーム、それとアルゴー号へ暗号化して送った」
「上出来だ」
だが、その瞬間だった。
最後に残った黒装束が、床へ短剣を突き立てる。
紫色の魔法陣が一気に広がった。
ミスティルの顔色が変わる。
「まずい。これは転移陣じゃない」
「何だ?」
「召喚陣だ!」
地下室の奥で、空間そのものが引き裂かれた。
裂け目の向こうから、巨大な獣の腕が突き出してくる。
黒い体毛。
燃えるような赤い瞳。
そして、神話の怪物を思わせる圧倒的な気配。
塵芥の額に冷たい汗が浮かんだ。
黒装束の男が笑う。
「《欲望獣グラトニア》」
魔法陣から巨大な影が這い出してくる。
「人間の飢えと欲望を喰らい、際限なく巨大化する獣だ」
その言葉を聞いた瞬間、塵芥は理解した。
上のホテルでは今、大食い大会が行われている。
飢餓。
熱狂。
競争心。
歓声。
食欲。
あの会場に渦巻く感情すべてが、この怪物にとって最高の餌になる。
ミスティルが呻く。
「狙いは……ホテル全体か!」
塵芥は血の滲んだ唇を舐めた。
「ってことは、あの馬鹿どもも危ねぇってことだな」
「そうなる」
塵芥は黒い外套を翻した。
「なら話は早い」
「行くのか?」
「ああ」
塵芥は振り返らなかった。
「親父の仇討ちは後回しだ」
そして、低く笑う。
「今はまず――生きてる馬鹿どもを助ける」
⸻
その頃。
巨大食堂では。
「おかわり二百皿ァァァ!!」
「雷音、もうやめるのだ!! 腹が神樹みたいに膨れてるのだ!!」
「ま、まだいける!! オエップ!!」
「いけるわけないでしょ、馬鹿兄!!」
雷華とミリルが、今にも倒れそうな雷音を必死に止めていた。
その足元。
誰にも気づかれないまま、床に落ちた影がゆっくりと膨れ上がっていく。
やがて、その闇の中で赤い瞳が開いた。
次の瞬間。
欲望獣グラトニアが、宴の中央へ巨大な牙を剥いた。
「――――!!」
咆哮が響く。
それは耳を塞ぎたくなるような高音ではなく、魂の奥底まで震わせるような重低音だった。
食器が一斉に震え、テーブルが軋み、巨大食堂全体がゆらりと揺れる。
観客たちが振り返った。
「な、なんだ……あれ……?」
誰かが震える声で呟く。
食堂の天井ぎりぎりまで届く巨体。
黒い体毛の下では赤黒い肉が脈打ち、その身体には無数の顔が浮かび上がっている。
恐怖に歪む顔。
笑う顔。
泣き叫ぶ顔。
そして、それらの間から無数の眼球がぎょろりと観客を見つめていた。
飢餓。
嫉妬。
傲慢。
欲望。
あらゆる醜い感情を無理やり一つに押し込めたような、異形の怪物。
「来るぞ、雷音!」
獅鳳の叫びと同時に、グラトニアが動いた。
巨体からは想像もできない速度で突進してくる。
「うおおっ!?」
雷音たちは咄嗟に身構えた。
だが。
グラトニアが狙っていたのは、彼らではなかった。
ズバァンッ!!
巨大な口が開き、そのまま正面に並べられていた豪勢な料理をテーブルごと飲み込んだ。
「ひぃいいいい!?」
観客たちから悲鳴が上がる。
肉。
炒飯。
巨大ケーキ。
スープ。
皿も鍋も関係なく、片っ端から怪物の腹へ消えていった。
その身体の奥から、何重にも重なった不気味な声が響く。
『もっと……』
『もっとくれぇ……』
『まだ足りない……』
雷音は口をぽかんと開けたまま、その光景を見つめていた。
「なにが起きたか分かんねぇけど……」
視線を落とす。
自分の前に並んでいた料理も、きれいさっぱり消えていた。
「……俺の飯まで食われた」
その一言に。
別の男が反応した。
「なにぃぃぃぃぃ!!?」
カルノフハートだった。
巨大なフォークを掲げ、その全身から凶悪な魔力を噴き上げる。
「許さん!! 我が貴重な昼飯を奪った罪は万死に値する!!」
「ちょっ、カルノフさん! 落ち着きなさい!」
雷華が必死に止めようとする。
だが、すでに遅い。
カルノフハートの怒気だけで周囲のテーブルが次々と砕けていく。
一方。
その隣では羅刹が俯いていた。
「……プリン」
「姉ちゃん?」
「私のプリンまで食いおった……」
ゆっくりと顔を上げる。
「最後に楽しもうと思って、とっておいた限定プリンを……!」
その指先から漆黒の炎が立ち昇る。
「これは雷音に冷蔵庫へ隠していた限定品を食われて以来の、ブチ切れ案件だぞ……!」
「ひいい!? 姉ちゃん、あのことまだ根に持ってたの!?」
「逃がさん」
羅刹が笑った。
笑っているのに、目だけが恐ろしく冷たい。
「あの怪物を捕まえて、今夜の丸焼きにしてくれる」
「食後のハンティングなのだ!」
ミリルが素早くコンパクトを操作し、レーダー機能を起動する。
「反応確認! 西棟B3区画へ移動してるのだ! さっきより弱くなってるけど、まだ完全には消えてない!」
「よし!」
雷音が勢いよく立ち上がった。
「全速前進だ!」
羅刹が黒炎を纏う。
カルノフハートが巨大フォークを構える。
「野郎――ブッ殺してやる!!」
「目的変わってない!?」
雷華のツッコミが食堂へ響き渡った。
こうして一行は、大混乱に陥った会場を飛び出した。
食事を奪った怪物――欲望獣グラトニアを追って、巨大ホテルのさらに奥深くへと走っていく。




