乂阿戦記7 第一章 暗躍する黒紫衣の神官 アスラ・イシヅカ-5 ミナ・アクターの遺産
その晩。
ミスティル・クロケルの研究所、その地下深くにある埃っぽい一室。
そこは、かつて超竜クレイジーナックルが密かに使っていた秘密基地だった。
薄暗い室内には古びた書類の束が積み上げられ、棚には年代不明の記録媒体や研究器具が所狭しと並んでいる。
その中央。
古い机の前に立った塵芥は、目の前に広げた資料を睨みつけていた。
「親父……お前、本当にこんなものを遺すつもりだったのかよ……!」
額には冷たい汗が滲み、握りしめた拳が小さく震えている。
そこにあったのは、クレイジーナックルが密かに調査していた禁忌のファイルだった。
記されていたのは、人間種族そのものを破滅へ導くために設計された計画。
魔法技術と科学技術を融合させ、ユグドシラルから供給される反物質エネルギーを際限なく乱獲させる。
さらに、人間の本能的な欲求を増幅し、欲望や競争心を煽り、自ら破滅へ向かわせるための意識誘導プログラム。
そこには、文明そのものを巨大な自滅装置へ変えるための理論が、恐ろしいほど詳細に記録されていた。
「……冗談じゃねぇ……!」
塵芥の喉が詰まる。
こんなものを誰かが本気で実行している。
その事実だけでも吐き気がした。
ふと、机の端に置かれた別のファイルが目に入った。
先ほどまで読んでいた資料よりも、さらに古い。
塵芥は嫌な予感を覚えながら、それを手に取った。
表紙を開く。
そこに記されていた文字を見た瞬間、塵芥の息が止まった。
ミナ・アクター。
母親の筆跡だった。
『塵芥へ。
あなたがこれを見つけた時、私はもうこの世にはいないでしょう。
きっとあなたは、どうして私がこの研究を続け、この道を選んだのか理解できないと思います。
それでも、あなたには知ってほしいことがあります。
人間は強欲で、愚かな生き物です。
争い、奪い合い、欲望に流され、時には自分たち自身を傷つけることさえあります。
けれど、それと同じくらい尊いものでもあるのです。
私は研究を続けた末、一つの答えに辿り着きました。
ユグドシラル。
そしてユグドシラルから生まれた天使たちは、人間という種族を見ています。
私たちが世界との調和を守りながら生きることができるのか。
それとも、欲望に溺れ、自ら滅びを選ぶのか。
現在起きているユグドシラルの暴走は、決して偶然ではありません。
このまま進めば、人間はいずれ自分たちの手で自分たちを滅ぼします。
だから私は、それを止める方法を研究しました。
その過程で、あなたのお父さん――クレイジーナックルと出会いました。
ですが、私たちの意見は最後まで完全には一致しませんでした。
この研究を、破壊神ウィーデル・ソウルの再来を招く危険な禁術と見るのか。
それとも、人類へ反物質エネルギーの正しい扱い方を示すための希望と見るのか。
私は最後まで、答えを出すことができませんでした。
だから――。
その答えを、あなたに託します』
読み終えた塵芥は、しばらく動くことができなかった。
胸の奥から湧き上がってきたものは、怒りでもなければ、悲しみだけでもない。
もっと深い場所に沈んでいた、どうしようもない無念だった。
「オフクロ……」
声にならない嗚咽が漏れる。
母が何を考え、何を恐れ、何を未来へ残そうとしていたのか。
ようやく、その一端へ触れた気がした。
その時だった。
「塵芥……!」
背後から声が飛ぶ。
振り返ると、地下室の入口にミスティル・クロケルが立っていた。
いつも冷静な彼にしては珍しく、その表情には明らかな焦燥が浮かんでいる。
「どうした。そんな顔をして……」
塵芥は唇を噛みしめた。
「……見つけちまった」
「何を?」
塵芥は震える手で古びたファイルを差し出した。
「親父が隠してた。……いや、違うな」
一度言葉を切る。
「オフクロが、俺に残してた」
ミスティルは黙ってファイルを受け取った。
数ページだけ目を通す。
それだけで、その表情が見る間に険しくなっていった。
「これは……まずいな」
「知ってるのか?」
「一部だけはな。だが、ここまで詳細な記録を見るのは初めてだ」
ミスティルは資料を机へ置いた。
「審判天使計画」
その言葉に、塵芥の眉が動く。
「なんだ、それ」
「人類そのものを破滅へ誘導するために組まれた、天使干渉型の世界終末計画だ」
「終末計画……だと?」
「正確には、計画というより社会そのものを腐らせる毒に近い」
ミスティルは指先で資料を叩いた。
「怒り、嫉妬、欲望、恐怖、承認欲求。そういった感情を少しずつ増幅させ、人間同士を争わせる」
「戦争を起こさせるのか?」
「いや。もっと悪質だ」
ミスティルの声が低くなる。
「戦争を直接起こす必要すらない。人間が自分たちの意思で争い、自分たちの文明を食い潰し、勝手に滅びへ向かうよう仕向ける」
塵芥は黙って聞いていた。
「そして、その餌として使われたのが便利すぎる反物質エネルギーだ」
「……ユグドシラルか」
「ああ」
ミスティルは頷いた。
「長い年月をかけて、反物質エネルギーへ依存する文明を増やした。そして文明圏全体を、一つの巨大な爆弾に変えた」
「爆弾?」
「惑星一つじゃない」
ミスティルは塵芥を見る。
「人類生存圏そのものを吹き飛ばすための爆弾だ」
塵芥の喉が鳴る。
「……それを作ったのが、天使様だってのか?」
「違う」
ミスティルは即答した。
「むしろ天使たちは、止めようとしていた側だ」
「じゃあ誰が?」
「まだ分からない」
ミスティルは首を横へ振った。
「だが、お前の母親はこの計画の存在に気づき、ユグドシラル暴走との関連まで突き止めた」
そこで言葉を止める。
「だから殺された」
塵芥の拳が強く握られた。
「……アスラ・イシヅカにか?」
「それもまだ断定できない」
ミスティルは慎重に答える。
「だが、この仕組みを利用して、人類圏そのものを意図的に間引こうとしている勢力が存在する。それは間違いない」
「人類を間引く?」
「宇宙の均衡を守るため、という大義名分でな」
塵芥の顔が歪んだ。
「ふざけんな……」
声が低く沈む。
「人間が愚かだから殺す? 欲にまみれてるから滅ぼす?」
拳が机へ叩き込まれた。
古びた木板が軋み、拳の形に陥没する。
「そんなもん、神様気取りのクソ野郎が勝手に決めていいことじゃねぇだろうが……!」
ミスティルは何も言わず、塵芥を見つめていた。
怒るなとは言わない。
その怒りは当然のものだった。
だが――。
「塵芥」
「なんだよ」
「怒るのは当然だ。だが、今ここで感情のまま動けば、お前もクレイジーナックルと同じ道を辿ることになる」
塵芥の動きが止まった。
「親父と同じ?」
「あいつは復讐に生きた」
ミスティルは静かに告げる。
「だが、最後にお前へ託したものは、復讐だけじゃなかったはずだ」
塵芥は何も答えなかった。
脳裏に父の言葉が蘇る。
――テメェ自身の命を大切にしろ。
――信頼するに値する雇い主を選べ。
――そして、生き延びてミナの仇へ辿り着け。
あれは確かに復讐へ向かう言葉だった。
だが、それ以上に。
息子へ生きろと願う、父親の言葉でもあった。
「……俺は、どうすりゃいい」
塵芥が呟く。
ミスティルは母のファイルを閉じた。
「まず、この情報を雷音たちへ渡す」
「は?」
予想外の名前に、塵芥が思わず顔を上げる。
「というより、雷音君を橋渡し役にして、覇王阿烈や白阿魔王阿門にも協力を求める」
「なんであの馬鹿が橋渡しなんだよ」
「キャノンボールは九つの世界を走破する」
ミスティルは淡々と答える。
「シルマリルリオン、三聖塔、ユグドシラルの暴走。今起きている問題の中心には、いずれ雷音たちが必ず関わることになる」
「必ずって言い切るのか?」
「ああ」
ミスティルは僅かに笑った。
「それが封獣、改獣使いたちの運命みたいなものだからな。先のエクリプス大戦もそうだった」
塵芥は鼻を鳴らした。
「ふん。巻き込まれるっていうか、あいつらなら自分から首突っ込むだろ」
「そこが問題であり、同時に希望でもある」
ミスティルは苦笑する。
「雷音たちは馬鹿だ」
「否定しねぇのかよ」
「だが、目の前で誰かが泣いていれば、損得を考える前に走る」
ミスティルの目が少しだけ遠くを見る。
「そういう馬鹿は、世界が壊れそうな時に必要になる。前の大戦でギルトンたちがそうだったようにな」
塵芥はしばらく黙っていた。
やがて口に咥えていた棒付きキャンディーを、奥歯で噛み砕く。
「……確かにな」
その時だった。
ぎしり。
地下室の天井が、僅かに軋んだ。
ミスティルの目つきが瞬時に変わる。
「塵芥、伏せろ!」
次の瞬間。
轟音と共に天井が爆ぜた。
石片と埃が一気に降り注ぎ、その中を縫うように――漆黒の刃が地下室へ突き刺さった。




