乂阿戦記7 第一章 暗躍する黒紫衣の神官 アスラ・イシヅカ-3 塵芥鏖のお見舞い
消灯時間を迎えた小さな病院には、昼間とはまるで違う静けさが漂っていた。
薄暗い廊下の先にある一室。
簡易ベッドに横たわった壮年の男が、煙草のようなものをくわえたまま天井を睨んでいる。
右腕には痛々しいほど分厚く包帯が巻かれていた。
「よぉ、息子……遅ぇじゃねぇか」
低い声が、静かな病室の壁へ吸い込まれていく。
その男――塵芥鏖の父。
クレイジーナックルこと、超竜ニーズベック。
入ってきた息子を見るなり、傷だらけの顔にニヤリと笑みを浮かべた。
身体は満身創痍。
それでも、その眼光だけは昔と何一つ変わらない。
「……アンタをハメたヴァルハラ上級神の件なら、こっちで始末をつけた」
塵芥は持ってきた荷物を棚へ置き、部屋の隅にあるパイプ椅子へ腰を下ろした。
「それより、ここは病院だ。酒も煙草も禁止されてんだろうが」
「フン……竜は病院なんかに通院しねーんだけどよ」
ナックルは口元を歪める。
「銀の指輪を取られた俺は、もうメルコールにとっちゃ用済みだ。いつ口封じに消されてもおかしくねぇ。だからこうして大人しく、巨竜王アングの息がかかった病院で治療を受けてるってわけよ」
くわえていた煙草の先が赤く燃え、灰へと変わっていく。
薬品特有の匂いに混じって、どこか鉄錆を思わせる血の匂いが漂っていた。
「はん。メルコールだけじゃなく、アングにもコネ作ってたのかよ、アンタ」
塵芥は呆れたように笑う。
「それにしても、病院着が死ぬほど似合わねぇな」
「そりゃお前の親父だからな」
ナックルも苦笑する。
だが――。
「……だがな、クソガキ」
不意に、その声から笑いが消えた。
「俺がなんで、メルコールの『第二の銀の指輪』を守ることに固執してたか……お前なら分かってんだろ?」
塵芥の表情も変わった。
わずかに眉をひそめ、父親を見る。
「……第二の銀の指輪は、もともと俺のお袋――ミナ・アクターが持っていた物だった」
「ああ」
「俺が生まれたあのクソ村の連中を煽って、お袋を殺させた奴がいる。そして銀の指輪を奪った」
塵芥はそこで言葉を切った。
「アンタは銀の指輪を手に入れて、お袋を殺した真犯人を探そうとしてた」
「ああ、その通りだ」
ナックルの目が鋭く光る。
「俺の女房、ミナ・アクターを殺したクソ野郎を見つけ出す。そのために俺はメルコールの飼い犬になった」
包帯の巻かれた拳が、ぎしりと音を立てるほど強く握られた。
「女房の仇を見つけ出して、この手でぶっ殺す。そのつもりだった」
塵芥は何も言わなかった。
父親が何年、その怒りを抱えて生きてきたのか。
それを知っているからこそ、軽々しい言葉を挟むことができなかった。
「だがな……」
ナックルが深く息を吐く。
「その目的そのものが、今になってぶち壊しになりそうだ」
「どういう意味だ?」
「時間がねぇんだよ」
ナックルは窓の外へ目を向けた。
「ユグドラシルの反物質エネルギーが臨界点を超えて、全宇宙を巻き込む大爆発を起こすまで――残された猶予は、あと一年ほどしかねぇ」
塵芥の目が僅かに細くなった。
「……俺も気になってた」
「ほう?」
「お袋が残したレポートだよ。世界樹が反物質エネルギーを精製する仕組みについて調べた記録だ。俺も目を通したことがある」
塵芥は腕を組んだ。
「今のユグドラシルは、過剰なエネルギー伐採のせいで暴走崩壊の兆候を見せてる」
ナックルが小さく笑った。
「察しがいいじゃねぇか……さすがミナのガキだ」
しかし、その笑いも長くは続かなかった。
「じゃあ、ユグドラシルが本当に暴走して爆発したらどうなると思う?」
塵芥は答えない。
ナックルが自ら続けた。
「答えは簡単だ。ユグドラシルから供給される反物質エネルギーの恩恵を受けてる人類圏は、ほとんど灰燼に帰す」
その言葉は、妙に淡々としていた。
だからこそ恐ろしかった。
「助かる可能性があるのは、反物質エネルギーに依存していないエルフ族の国や、原始的な文明を維持してる一部の世界くらいだろうな。それ以外の高度文明圏は、まとめて壊滅だ」
ナックルは無意識に、包帯の巻かれた右腕を押さえた。
「メルコールは表向き、自分のためだけに動いてるように見える。だが、本当は違う」
「……純粋な調律か」
「ああ」
ナックルが鼻を鳴らした。
「あの野郎が目指してるのは、純粋な調律だ。そのためなら手段は選ばねぇ。何千、何万、何億人死のうが必要な犠牲だと切り捨てる」
そして、吐き捨てる。
「だが根っこにあるのは、世界の調和だ。気に食わねぇやり方で神様の真似事をやってやがる」
しばらく、病室を沈黙が支配した。
やがて塵芥が静かに尋ねる。
「……俺は、どうすればいい?」
ナックルはすぐには答えなかった。
息子の顔を見つめる。
何かを確かめるように。
やがて、静かに口を開いた。
「まずはテメェ自身の命を大切にしろ」
塵芥が僅かに目を見開く。
父親の口から出るには、あまりにも似合わない言葉だった。
「ミナのレポートを読んだなら分かるだろ。ミナ・アクターを殺したのは、ユグドラシルの反物質エネルギーが生み出す莫大な利権に群がっていた奴らのはずだ」
「つまり……お袋が死ぬように筋書きを書いたのも、そいつらだってことだな?」
「ああ」
ナックルは頷く。
「俺はずっと、ヴァルハラのバベル社やネオ・ズーイ国と裏でつながってる悪党どもを調べてきた」
「何か掴んだのか?」
「ああ。ようやくだ」
ナックルの瞳に、長年消えることのなかった憎悪が宿る。
「奴らの大半が、同じ一人の人間に操られていた」
塵芥の目つきが変わる。
「……誰だ?」
「アスラ・イシヅカ」
その名が、静かな病室に落ちた。
「元バベル社の重役。現在は十一人委員会第六席、Dr.レコキスタ直属の補佐官だ」
ナックルは吐き捨てるように続ける。
「表向きはな」
「裏では違うのか?」
「ああ。奴は莫大な富を持つ連中を裏から操り、政治家や企業、国家に食い込みながら権力を膨らませてやがる」
包帯の下で、ナックルの拳が震えた。
「自分なら世界を支配できる――そんなくだらねぇ妄想を本気で信じてるクソ野郎だ」
「……そいつが、オフクロの仇なのか?」
塵芥の声は静かだった。
だが、その奥に宿るものをナックルは見逃さなかった。
かつての自分と同じ目。
復讐する者の目だった。
「まだ断定はできねぇ」
ナックルはあえてそう答えた。
「だからこそ、焦るな」
「…………」
「お前はまだ若い。だから今のうちに決めろ」
父親の眼差しが、真っ直ぐ息子を射抜く。
「ヴァルハラも、乂阿をはじめとする覇王たちも、ユグドラシルの爆発を止めようと動いてる。だが、どこの組織も根本的な原因を解決するには時間が足りねぇ」
残り一年。
世界に残された時間は、それだけだった。
「だからこそ、自分が命を預けるに値する雇い主が誰なのか、きちんと考えて選べ」
「それに関しては問題ねぇよ」
塵芥は即答した。
「現状維持だ」
「ほう?」
「今の雇い主――ミスティルは信頼できる」
ナックルは一瞬だけ目を丸くし、やがて苦笑した。
「即断かよ」
「悪いか?」
「いや……まあ、いい」
ナックルはベッドへ深く身体を預ける。
「あの魔王なら信頼できる。少なくとも、テメェを使い捨ての駒にはしねぇだろう」
その声が、少しずつ穏やかになっていく。
「これからはヴァルハラの監視も厳しくなる。下手すりゃテメェ自身が拉致られるかもしれねぇ」
「上等だ」
「馬鹿野郎」
ナックルは笑った。
本当に、わずかに。
「だが……今のテメェなら生き延びられる。その上でいつか、ミナの仇にも辿り着けるだろうよ」
そして最後に、ぼそりと呟いた。
「……それが、ミナ・アクターの息子としての務めだ」
窓の外は静かだった。
夜の闇の向こうに、僅かな街明かりが見える。
塵芥は椅子から立ち上がると、深く息を吸った。
「行ってくるぜ、クソ親父」
「ああ」
それだけだった。
塵芥は振り返らず、病室を出ていく。
扉が静かに閉じた。
その音が完全に消えるまで、ナックルは扉を見つめ続けていた。
やがて、口元の煙草をそっと揉み消す。
もう、強がる必要はなかった。
誰もいなくなった病室で。
父親は、たった一人で呟いた。
「……あばよ、塵芥鏖」
ほんの少しだけ間を置いて。
「これが最後の、父親としての務めだ」




